Revolution 9

夏虫光希

前編 蟋蟀の名を冠する少女

 東京という街がある。帝國の東南に位置し大規模な首都圏を構成する主要都市であった。最もそれはというだけに過ぎず、大戦を経た後に放棄区画として民間人の立ち入りは禁じられた。


 東京という街の一角に団々坂が続く住宅街がある。最も今となっては、立ち並ぶ住宅街のほとんどが焼け落ちているか巨大な機械に踏み潰されている。現存している建物は少なく、残っていたとしても大抵は20mm機関銃に撃ち抜かれているかスプレー缶で落書きされていてまともに人が住める様子ではない。実際、誰も住んでいないのだから当然だ。かくして捨てられた街は、この国に数多ある廃墟のように、雨風に晒されて朽ちていくのみとなっていた。


 そんな捨てられた街の中を一人、電動走行靴でスケート走行する少女がいた。

 ハーフパンツを履いて、涼しげな材質のパーカーを羽織って、おまけに頭には有名メーカーのヘッドフォンを乗っけている。髪も地毛の黒色で、格好だけなら放棄区画にいる人間とは思えないものだが、それに反して無理やり外付けされたモーターとバッテリーを持つ大型の走行靴が異様に目立っていた。どうやら通常では出せない速度を無理矢理に引き出せるようになっているらしく、転べば大怪我するような速度で坂道を走っていた。当然ながら帝國の法にそぐわない代物だ。そんな危なっかしい道具を身に着けて、階段の手すりをグラインドして滑り降りていく。

「あいつは本っ当にしつこいよね!」

 背後で、派手な音を立てて建物が壊れた。少女――ラクイは独り言を叫んで、視線を後ろに移して追ってくる敵を見た。

 壊れた建物の影から、大型の機械が姿を覗かせた。そいつは、二階建ての建物を優に超える大きさの機体であった。ぱっと見の外観だけなら普通の戦車にも似ているが、性質としてはまるで違う。その戦車は履帯を持っていない。その代わりに 四つの脚が中心となる部分を支えている。砲塔に値する場所にはカメラアイやセンサー類が 本体と独立して駆動しており、さながら人間の頭部のようである。機体の大きさ も“帝国”が成立する以前の兵器とは比べ物にならない程巨大だ。搭載された複数の武装はそのすべてが対装甲を想定した高火力のそれである。人間を相手とするにはあまりにも過ぎた代物だ。

 眩しい夏の日差しも吸収するような黒の塗装に対比するように、ぽつんと浮かぶ眼光の赤がラクイを捉えていた。


 帝国には、HVハウンドビーグルという土木作業やオフロード走行を目的として製造された機械が存在する。 それは様々な形態を有する機械群を総称した 大雑把な区分だが、彼女を追いかけているのはその中でも特に戦闘用に調整された軍用の機体であるらしい。敵のHVに取り付けられた機銃は、ラクイを捕捉した。

 冗談じゃない、と思う。

 電動走行靴のスピードを無理やり落として、転げそうになりながらも 軌道を修正した。建物の影になる脇道にそれて、結果として その行動が命をつないだ。

 照準から外れて目標を見失った機銃の射線は、彼女の直ぐ側を掃射した。

 アスファルトを抉り、 射線上にあった建物を襤褸切れのように吹き飛ばす。映画のワンシーンにも似て非現実的な現実リアルだ。

 着弾の音からして低殺傷性の非金属弾のようだが、元はといえば機銃の弾だ。保有する運動エネルギーもすさまじく、直撃すればバランスを崩して紅葉おろしになる可能性だってある。

「あっぶなーっ!死ぬところだったよ!」

『はは、笑える状況ってわけじゃなさそうだな。相棒バディ

 ラクイの頭に乗っかったヘッドフォンから、流暢な機械音声が流れてきた。 そいつは今の状況をわかってるような体で語る。

「用がないなら黙ってて」

 通信を繋げてきたそいつに対してもそっけない態度をとって、モーターを全開で回すことに集中した。軍用の高性能機体を相手にしても、逃げるだけなら上回る。彼女の行きつけの技師の手柄だと感謝した。

『つれないねぇ。……言った通り、発着は済ませた』

「現着するのはいつ?」

『あんたが目標地点に向かうなら残り1分ってとこだ。それ以上なら区画廃棄法に触れるし、警察に見つかったら酷い目に遭うぜ?』

「酷い目ならもう遭ってるっての!」

「だったら30秒だ。それまでコーヒーブレイクとでもいくかい?」

「あいつを倒した後ならぜひお願いしたいね!」

 東京という場所もここ二十年の間で随分と様変わりしてしまった。かつて東アジアに存在していた日本という国が幾度かの内乱と戦争の果てに“帝國”へと姿を変えてからはずっとそうだ。ラクイをしつこく追いかけてくる軍用HVも、そうだ。

 軍事国家。独裁政治。そうした言葉でまた歴史を繰り返そうとしている。

 軍用HVは新たな動きを見せる。背後武装の降下ミサイルを展開した。

 ラクイはそれを音だけで認識して 着弾地点を予測した。崩れた住宅を跳躍で飛び越え、前方で着弾した小型ミサイルを避ける。アスファルトの破片が飛び散って頬を掠めるが、ひっかいたくらいの傷で済んだ。血が出るほどでもない。けどそれで進路を変更せざるを得なくなった。トラッシュ エリア から出る道ではなく さらにその左 小路に行ってしまった。

「通行止めっ!?」

 眼前には根本からぽっきりと折れたビルが立ち塞がっている。誰かが榴弾砲で破壊してしまったのだろう。トリックで飛び越えて先に進むことはできないし、横に広がる道もない。一瞬で判断してパラレルスライドを決めた。数十メートルの距離を滑走して、タイヤをすり減らしながら止まる。振り返ると、軍用HVは傍まで迫って来ていた。

『あんた、今日はつくづく運が悪いな。 警備ロボットにも見つかっちまうし』

 これから道を戻るか。そうはできない。ならば諸手を上げて降参するか。そうしても意味はない。相手は無人機体だ。

「あ、あはは……大ピンチってところかな?」

 機体が一歩ずつ迫る。ラクイは引き攣った笑いを浮かべた。建物を背後に後ろへと下がるが、一歩、二歩と下がったところで背中にビルが当たった。これ以上に逃げ場はない。 逃げ場がなければ、おしまいだ。

「目標ヲ確認」

 ラクイは空を見た。全てが透き通っていた。灼熱の太陽が浮かぶ空は、梅雨を終えたばかりとは思えないくらいの晴天で輝いてる。

 東京。ここにはこの国の全てがあったという。 神の住む土地が、この国で最も天に近い建物が、全ての流行の中心が。けれどもう、かつての栄光は去ってしまった。二十年前、ラクイが生まれるより先の時代に東京は全てを失った。

 軍用HVは、右手の火器をラクイへ向ける。大人しく言う事を聞いていれば痛い目に遭わずに済む、なんて都合の良い話はないらしい。

 ふいに太陽が影に覆われた。

『相棒。上だ』

 軍用HVは機銃を発射し――


 ──その銃弾を空から跳んできたロボットの背が防いだ。

 灰褐色の軽装甲に覆われた機体だった。額には特徴的な蟋蟀のエンブレムが光っている。

「もっと早くできないの?ソルファ!」

「これでも急いだほうだぜ。相棒」

 ヘッドフォン越しでない機械音声がロボットから放たれる。

 全高は5m以上。人に近いシルエットを持つ軽量HVだ。最もその脚は電動走行靴を履いているような形で半ばから二対の車輪に変わっているし、腕部に至っては対装甲用の機銃が後付けされている。おまけに背中にも一対、対装甲用の武装が装着されていた。

 民間用二脚四輪HVのカスタマイズモデル。機体名をソルファという。

 ラクイは差し出された左手に飛び乗る。ソルファが左手を突き上げるのに合わせて曲芸じみたジャンプを決め、そのまま空中一回転して背後のコックピットに着地した。

『全システム稼働。火器管制システムの制限を解除した。やっちまいな。相棒!』

 ソルファは反転して軍用HVの側を向く。安全装置が全て解除される。背後武装の榴弾砲は 0.5秒というあまりにも長すぎる時間を経てから展開を完了した。

『対象の脅威度をAに再設定。各種武装の使用を許可します』

 軍用HVが最後の警告を終えて機銃を構える。徹甲弾をマガジンに備える対装甲用重機関銃だ。

「そんな豆鉄砲じゃつまんないよ。ゲームはもっと派手にやらなきゃでしょ?」




『Revolution 9 : Vol.1』




 その修理工場は放棄区画の近郊にぽつんと建っている。

 元は東京近辺の閉鎖に伴って捨てられた名もなき工場の一つだったが、現在の所有者である“彼女”の手が加わってからは民間用HVの修理場として運営されている。 建物の権利が移譲されたのが2年前で、それから1年の歳月を経てHV修理工場『ビーグルスター』はオープンした。

 店の経営方針は簡単だ。何でもやる、ただこれだけに尽きる。戦闘用に改造されたHVの修理だろうと、違法改造の受注だろうと、どこからどう見ても不正なルートから入手したとしか思えない軍用部品の買い取りだろうと、正規販売店ではないからと無責任に全部請け負ってしまう。

 そんな事だから大抵ロクでもない顧客ばかりがそこを頼るようだと、“彼女”は嬉しさ半分、困惑半分によく語る。


 そのロクでもない顧客とやらの一人──ラクイはガレージの日陰で、背もたれのついた回転椅子に反対向きに座ってテレビを呆然と見ていた。テレビはゲームの試合を映していた。とっくの昔に使われなくなった民間の電波を海賊放送局が乗っ取って放映しているらしく、2000年代までこの国で見られたような、お茶の間で流すには少しばかり過激な放送が続けられている。

 ラクイにとっては見飽きてしまった内容だが、かといって他に暇潰しをする手段も持っていないから、つまらないテレビを見て漠然と時間を潰していた。

 ゲーム、というのは民間用HVを使った競技だ。公的な名称はないが、ルールはたった一つだけある。

“やられる前にやれ”

 シンプルな代物だ。 それだって元々はルールではなかった。民間用 HVを所有してる者同士での争いが、そのまま生やし立てられて ゲームとして確立されていった経緯を持つから。外部の人間からしてみれば 危険な戦闘に過ぎないが、アンダーグラウンドでは今最も“熱い”娯楽として様々な人種を巻き込んで熱狂させているらしい。海賊放送局は専用のドメインを使ってロシアと中国を除いた全ての国にゲームの様子をアクセスできるようにしているし、そこで生まれた利益は何十億円という数字じゃ飽き足らない。

 ラクイも、一応はゲームのドライバーの一人である。だが彼女の場合は、一攫千金を求めて放棄区画にやってきた賞金稼ぎカウボーイではない。楽しいからゲームに参加する。それは、このガレージを経営する“彼女”にも共通する部分があるのかもしれなかった。

「修理箇所の確認は終わったよ」

 声がして、ラクイは椅子ごと振り返った。

 工場の外で民間用HVのソルファを点検していた整備士のフィンレーは、すすとオイルだらけになった手で ゴーグルを上げていた。

「あんた。随分と派手にやったもんだね。いっそ感心するよ。楽しかったかなんて聞くのは……野暮かもしれないねぇ」

 垂れた汗をすすだらけの腕で拭いながら、呆れ混じりで話す。その格好はメカニックらしく、彼女のお気に入りらしいオーバーオールを着て、染めた金髪を後ろで結び、汚れていないもう片方の手に大型の工具を持っていた。ラクイが贔屓にしてるHV修理工場“ビーグルスター”のオーナーだ。

 ラクイは不満げな顔だ。自分の愛する機体を破壊されて喜ぶ人がいるはずもないが、特に今回は相手が無人の機体と来た。ゲームが好きなドライバーでもそればっかりは“面白くない”。

「別に。相手が軍用のじゃなきゃ苦戦はしなかったよ、今回はうまくやれなかったの」

「そのおでこの勲章もうまくやれなかったからできたのかい?中々似合ってるようで良いと思うけどね」

 ラクイは頭のガーゼをさすった。四角く切られたガーゼにバッテンでテープが貼られてる。大した怪我ではないようだが、場所の事もあって目立つ。手で抑えて隠そうとするが、一度指摘されてしまった後では大して意味をなさない。

「コックピットの中でぶつけただけ。第一、人間相手に軍用HVなんて持ち出してくる!? しかもロケットランチャーを撃ってくるなんて!」

「あたしに言ったってしょうがないだろ? 最近は持ち出してくるのさ」

 最近の帝國の機動部隊はどうやら軍とも導線があるようで、たびたび機銃や榴弾砲を持ち出してくる。 やりすぎといえばそれもそうだ。機銃や榴弾砲は武器ではない。軍用HVも武器ではない。兵器だ。たった一人の犯罪者を捕まえるには大げさすぎる持ち物と言える。

「放棄区画が帝國から完全に野放し状態にされてたって、ゲームの参加者までは別だよ。この前大々的に開かれた大会も、ありゃ随分大騒ぎになっちまったし。あんたは例外だったけど、 私の客の何人かはお世話になったよ。持ってたHVで立ち向かったのもいたけど……結果はお察しさ」

「捕まっちゃったの?」

「死んじまったかもしれないね。どちらにせよ、大切な顧客は減るばかりさ」

 少しだけ 不穏な話題に ラクイは口をつぐんだ。

「ま、そんな辛気臭い話より、今はソルファの事だよ」

 フィンレーは親指で後ろにいるHVを指した。ボロボロになっているから、ラクイはロクな返答は期待していなかったが。

「 どうだった?」

「大破寸前ってとこさ、ゲームで負けた時よりも場合によっちゃ酷い損壊だ」

「うーん。やっぱり、そっか」

 ラクイは 椅子から降りて ソルファの近くまで歩いてった。電動走行靴のモーターは切られていたから、その足取りは重りをつけているようにおぼつかないものだったが。手で触れるくらいまで近づいて、損傷の度合いを確かめてみる。なるほど確かに、大破とまでは言わないにしても損害の程度は酷く大きいようである。 火炎放射器で装甲表面を焼かれ、レーザー反射用のワックスが全て溶け落ちている。灰褐色の塗装は全部焼けてダメになっているし、おまけといったふうに全体を20mm重機関銃で穴ぼこにされている。中には装甲表面を食い破って内部機構を損傷しているものまであるらしく、万全に稼働できているのが 奇跡と言ってもいいような状態である。

「普通の店なら本気でやっても丸一日はかかるだろうね。パーツの取り寄せも含めたらもっとかかってもおかしくない」

「明日のゲームには間に合わなそう?」

 フィンレーによれば、作業工程自体は表面装甲を取っ替えるのと破損したパーツの 交換だけで済むようだが、 それとて重労働になるはずだ。

 予約をしていたゲームに間に合うのか気がかりであった。ゲームを楽しみたいだけなら一度くらいの欠席も我慢できたが、明日ばかりはもう一つの理由がある。欠席なんてつまらない真似はしたくなかった。

「あんたのゲームの事はもう知ってる。だからそれが始まるまでには渡してやるよ。もちろん、新品同様でね」

 ぱぁ、っとラクイの顔が晴れた。若者らしく分かりやすい感情表現だ。フィンレーのように凄腕のメカニックでなきゃできない仕事だった。

「絶対? 絶対だよ!」

 ラクイはフィンレーに抱き着いた。

「おいおい、服が汚れるだろ?…………ったく。あんたじゃなきゃ特別料金をもらってるところさ」

 ようやく離れたラクイの頬には油の汚れがついている。フィンレーは手の甲でそれを拭った。

「それまでは 何をするのもあんたの自由だ 。家に帰ってもいいし、遊びに行ってもいい」

「遊びに行く、ねえ」

 電動走行靴のバッテリーにはまだまだ余裕がある。あと半日フル稼働で回したって大丈夫なくらいに。それならソルファ無しでもどこかへ遊びに行くことだってできたのかもしれない。時刻ももうすぐ4時を回る頃合いだ。これから気温が高くなることもない。

「ソルファ、聞こえてる?」

「なんだい。出番がないと思って黙ってたが 、今度も何かあるのかい相棒」

「しばらく外出するからそこで大人しくしててね」

「言われなくても、ってやつさ。だが、いいのかい?」

「へまはしないよ。大丈夫」

 全く信用できないセリフだった。

「――おいおい、俺が動けねえからってめちゃくちゃなことをするんじゃないぞ!」

「じゃあ フィンレー、行ってくるよ」

「気をつけてな。無茶をすんなって言ったりしないからさ。明日には取りに来るんだよ?」

「もちろん!」

 ラクイは電動走行靴の電源を入れて、普通のインラインスケートで走るのと同じ要領で地面を蹴って進んだ。 初速がつけばあとはその仕事は モーターが肩代わりしてくれる。

 風に乗っているようなものだ。ほとんど生身で、人間じゃ出せない 速度を出して、ビーグルスターも一瞬で置き去りにする。モーターを全開で回せばオンロード走行用HVにも迫る速度を出せるし、出力を最大まで上げれば普通の二輪自動車に差し迫る馬力を出せる。電動にしちゃ少しやり過ぎな性能だ。

 ラクイは歩道の手すりをグラインドして跳び、落ちた勢いを更に速度に変えていく。

 お気に入りのヘッドフォンからお気に入りの音楽Travelling Without Movingを流して、周囲には目もくれず、交差点の赤信号も無視した危険走行で車道のど真ん中を走って、それで空き家だらけになった住宅街が後ろへ流れていく。街に立つ電柱も、一時停止の看板も、人の手を失って枯れかかった街路樹も、全て。

 人のいない街だった。治安は良くないし、汚染の影響下にある放棄区画に好んで近寄りたがる一般人もいない。帝國が幾度かの戦争を乗り越えて以降、ここはずっとそんな調子だ。そんな場所でも、ラクイはここが好きだった。お気に入りの電動走行靴は警察や自動車に邪魔されずにかっ飛ばせるし、フィンレーという友人もソルファという一番の相棒バディも、ゲームのドライバーも、世界に名を響かせている海賊放送局だってここにはある。

 東京は彼女が生まれ育った場所だった。汚染地域として放棄が決定されるより前、幼少期を長く過ごしていた。誰もいなくなってしまったとしても、住む場所を追われたのだとしても、帝國の内政がどんどん悪くなっていく中でも、その気持ちだけは何も変わっていない。


 30分ほどだっただろうか。ラクイが電動走行靴を走らせているとやがて一つの廃墟に行き着いた。東京近郊の閉鎖に従い放棄されてしまったようで、人の手も入らずに完全に廃れてしまっている。元々入り口があった場所には金網で仕切られた上でKEEP OUTのテープが張られてた。

 唐突に、ヘッドフォンに通信が繋がれた。ラクイは逡巡したが、ややあって通信を受け入れた。

「ソルファ。何か用?」

『その台詞はこっちの物さ。何か忘れ物でもあったのかい?忘れん坊さん』

「ずっと見てた?」

『GPSを繋げっぱなしだ。放棄区画に立ち入るなら全力で止めるつもりだったが、杞憂だったかい』

「そうだね。杞憂だよ。今日は、多分」

 入口からご丁寧に入れるわけではないと悟ったラクイは、どうにか敷地に入る方法を探した。金網の上側は空いているから、そこからなら中に入れそうである。と言えど助走をつけて跳躍すれば届くという高さではない。

 ラクイは車輪を反対向きに回して金網から距離を取った。そして姿勢を低く構えた。

「いち、にの、」

 さん、と言い終える前に車輪で地面を蹴った。モーターをフル回転させて一瞬で最高速度オーバードライブに達する。

 金網に到達する瞬間、ラクイは最高速度の蹴りを放った。固定されていた金具ごと向こう側へ突き倒して、道を作る。

『無茶をするな。全く』

 ラクイは金網を乗り越えて進んでった。電気が通っていなくて薄暗い中を、建物の構造を知っているような様子でずんずん進んでいく。静かな構内に電動走行靴の駆動音だけが響いている。壊れた改札をひょいと飛び越えて、割れたタイルの階段をおっかなびっくり歩いていった先に目的地はあった。

 最初は眩しい光で上手く見えなかった、けれど慣れれば全てが見えるようになってくる。擦り減った点字ブロック。少し錆びついた鉄骨の柱。足から腐り始めた木のベンチも、十年前から変わっていない張り紙も、あの日のままで残っている。太陽の傾き始めた時刻に、全てが陽光に照らされていた。

『こんな辺鄙なとこに来て何するのさ』

「少しだけ。明日には警備も強くなるし、最後に見ておきたかったの」

 ラクイは木のベンチに座って久しぶりの休憩をとった。ヘッドフォンからはフォークロックが流れていた。

「ところは東京麻布十番、か」

 ふと、流れてきた歌詞をラクイは呟いた。長い年月の果てに本来の意味を失ってしまった言葉だ。東京も暗闇坂ももうほとんど“帝國”に残っちゃいない。

『いつまで待ったって電車は来ないぜ。それともここに用があるのかい?』

「ここに昔住んでてね。もう思い入れはないつもりだったけど、まだやり残したことがあったの忘れてたみたい」

 木のベンチに指先が触れた。その感触が、そこにいない誰かと一緒に彫った文字があると教えてくれる。

「……来ないって分かってるのな。なんか不思議な気分」

 行きの電車はやってこない。

 それでもあの日の出来事は、確かにそこにあったのだ。くだらない冗談で笑いあった日が、幼馴染みと一緒に寝ぼけて次の電車を待った日が、消えない思い出の中にある。

「ソルファ」

 ラクイは名前を呼ぶ。一番の相棒の名前を。

「ここ最近の事、色々考えてみたんだ。昔の事も、そう」

 行き場を失った足をぶらぶらと揺らしながらラクイはつぶやく。ソルファはその言葉の続きを黙って聞いていた。

「最後まで君の言う通りにするよ。今も、これからも」

『ってェ割には不満そうだな。不安そうってとこかい?』

 ラクイは照れ隠しなのか頬を指先で掻いて遠くを見た。ソルファの目の届かぬところで、ソルファの知らぬ過去を見て思慮を巡らせていたのかもしれなかった。

「昨日の今日もあんな事があったばかりだし、正直命がいくつあっても足りないと思うよ。不安だし、怖い。でも。面白い、とは思う」

 ソルファとラクイが出会ってから長い月日が経った。親のいないラクイは、主を無くしたHVのソルファと出会っていなければ野垂れ死んでいたかもしれない。

 主を失った猟犬と、家族を無くした少女。一人と一機は似た境遇にあって、しかし全く反対の方向を進んでいたのだろうか。

『刹那的に生きてんな。向こう見ずで若者らしくて、後先なんて考えちゃいない。見てて危なっかしい。いつか後悔することになるぜ?』

「……後悔って言ったって、私には失う物なんてないよ」

『そういうところが若者くさいって言ってんだ』

 ラクイは竦む。うっかり失言してしまった子供のような反応。

『あんたはただ、 何でもできるって思い込んでる若者だ。生きてりゃ良い事はあんのさ。それまでそういう言葉は、言うもんじゃない』

 ソルファの言い分は、ある意味では正しい。

 ラクイはまだ年端の行かない少女だ。世の中を知らないまま東京で育って、そしてまた世の中を知らないままで生きようとしている。そうして危険なゲームにのめり込んで、命を散らせようとしている――ソルファという強大な兵器を使った、他の誰かを巻き込む盛大な自殺の為に。ラクイの進む道は、ソルファにとって都合の良い未来ではありえない。

 けれどソルファは同時に、ラクイの過去を知らないままでいた。どのような逢着の果てに彼女が雨の降る廃墟へ行き着いたのか、彼女を突き動かす背景を、長い長い時間が経った今でも知らずにいる。

「でも、ぜんぶ本当の事なんだ……」

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