第58話 挫跖


 試合後のなんやかんやが終わって、厩舎に戻ってきた。俺としてはさっさと餌を食べてお眠りしたいところだったんだけど、脚の検査やらなんやらで結構時間が経ってしまった。


 挫跖ざせきって言われたけど、それはなんなんだろうね? 座席? 椅子の事? もっと俺にも分かる様に言って欲しいですよ。


 なんか消炎剤がうんたら〜って言いながら、当たり前の様に注射をブッ刺された時はびっくりしたね。痛くなかったけど、思わず目を瞑っちゃいましたよ。毎朝体温を計られるのも嫌いだ。それとおんなじ感じがした。


 体温はケツに体温計みたいなのを突っ込まれるからね。特に何も感じないけどいい気はしない。


 「プヒヒヒン?」 (もう寝ても良いね? 寝ますよ?)


 注射をして、餌を食べて、水を飲んで、ゴロン。本当に今日のエンマ君は疲れてるので。気の済むまで寝させてもらいます。


 「プヒン」 (おやすみなさい)



 ☆★☆★☆★



 「軽い挫跖で一安心しました。レースの後に滝さんがエンマから飛び降りた時は生きた心地がしませんでしたよ」


 「ほんとにな。まさか始まってそうそう落鉄してたとは」


 「それで勝ってしまうエンマもエンマですけどね」


 厩舎の事務所では牧瀬と一永がホッと一息をついていた。


 菊花賞に勝った瞬間は足から崩れるぐらいに喜んだ。自厩舎から無敗の三冠馬の誕生だ。


 騎手時代にも縁があってとある馬で無敗の三冠を達成した事があった一永だが、その時とはまた違った喜びがあったものだ。


 しかしその喜びは滝が慌ててエンマから飛び降りた事で一転する。しかもエンマが前脚を気にするようにプラプラしてるのだ。


 一永は控え室から転がるように出て行った。他の調教師から祝福の言葉を投げられたりしたが、右から左。


 頭の中は勝った事よりもエンマの容態の事でいっぱいだった。


 結果的にエンマは自分で歩いて帰って来る事が出来てたし、歩行に問題もなさそうだった。いつも通り舞ちゃんと楽しそうな記念撮影もしていて、そこでようやく一永は涙が溢れ出た。


 三冠達成の嬉しさと、とりあえずエンマ無事そうだという安堵感。色々な感情がごちゃ混ぜになって大号泣だ。


 「挫跖だからって油断は出来ないけどな。早いやつはすぐに治るが、長引くやつは本当に長引く。明日からはエンマの容態にはより一層注意しながら見守ってくれ」


 「勿論です」


 「次のレースはどうするかなぁ。一応有馬に向かう予定だったが、エンマの容態次第ではやめる事になるだろう。ファンには申し訳ないが、これからまだまだ頑張ってもらわないといけないからな。完璧に治ったと判断出来なければやめる方向で、花京院さんと滝さんには話そうと思ってる」


 「そうですね。まだ3歳ですし。ここで無理する必要はありません」


 そして翌日。


 エンマはケロッとした顔で、餌をもしゃもしゃ食べていた。


 「エンマ、脚はどう?」


 「プヒヒヒン」 (びっくりですよ。全然痛くないの)


 餌を食べながら牧瀬の問いに脚をぷらぷらさせるエンマ。牧瀬は何を言ってるかは理解出来なかったが、痛がって体調が悪くなってる事はなさそうだと判断する。


 「もう少ししたらまた検査があるからね」


 「プヒヒヒン」 (注射って凄いなぁ)


 話を聞いてるのか聞いてないのか、エンマは餌をもしゃもしゃしながら嘶く。


 検査結果を見て医者も驚く程のスピードで回復してるという事を聞くのはもうほんの少し先の話。

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