OLとストーカーの夕陽にまつわるエトセトラ

仲瀬 充

OLとストーカーの夕陽にまつわるエトセトラ

(1)ストーカー

羽合はわい荘は築50年をこえる木造2階建てのアパートで国道に平行する裏通りにある。アパート名は大家おおやの出身地の鳥取県羽合町にちなんでいる。深田正則は60歳で仕事を辞め羽合荘の2階の角部屋を借りた。6畳の畳敷きの部屋に申し訳程度の流しとガス台が付いている。越してきた日の夕方に窓の下の通りを仕事帰りと思われる若い女性が通りかかったのだが深田は一目見て強い関心を抱いた。誰かに似ているような気もするが親戚に若い女性はいない。容姿も身なりも取り立てて特徴があるわけでもないが気になって仕方がない。深田は毎日窓辺から見下ろすだけでは満足できなくなった。出勤途上で待ち構えて付いて行くと彼女は複数の会社が入居しているビルに入って行った。深田は自分が午後に外出した時には彼女の職場の真向かいの喫茶店に入ることにした。そして退社する彼女を目にすると店を出た。



(2)逆尾行

付きまとわれている女性、青田千賀子のほうも深田の存在に気が付いた。同じ通勤ルートなのだろうと最初は気に留めなかった。しかしある日、千賀子は深田をストーカーだと確信した。その日千賀子は仕事帰りに商店街の市場に立ち寄った。総菜を品定めしながら店先を見て回ったのだがその様子を深田が微笑みながら見ていた。出勤時の遭遇と違ってこれは偶然ではない、千賀子はそう判断した。マンション3階の自分の部屋に帰り着くとすぐにカーテンの隙間から通りを見下ろした。深田は真下の外灯のあたりで千賀子の部屋を見上げている。部屋の電気をつけると千賀子の帰宅を確認して気が済んだかのように戻って行った。警察は動いてくれないと思った千賀子は逆尾行を思いついた。ある日、帰宅して部屋の明かりをつけた後に急いで靴を履き直して後を追った。千賀子が突き止めた深田のアパートは千賀子のマンションと会社の中間あたりに位置していた。アパート壁面の袖看板には「羽合ハワイ荘」とフリガナ付きで書かれていた。



(3)ストーカーの正体

千賀子は医療機器販売の中園商会で社長秘書をしている。商会が入っているオフィスビルの1階には守衛の詰め所があり、ストーカーとの対決に備えて千賀子は守衛と打ち合わせをした。翌朝の出勤時に千賀子はビルに入る直前、路上にハンカチをさりげなく落とした。深田は一瞬躊躇したがハンカチを拾うとビルの中に入った。

「お嬢さん、ハンカチ落としましたよ」

千賀子が振り向いた時に守衛が打ち合わせどおりやって来た。

「青田さん、この老人ですか?」

千賀子は頷いた。

「あなた、ストーカーですよね?」

千賀子はきつい口調で深田に詰め寄った。すると千賀子の背後から中園社長の声が聞こえた。

「これはこれは深田会長、帰国しておられたんですか。あれ、青田くん?」

中園社長の呼びかけは深田にとっても千賀子にとっても意外だった。

「そうか、中園君の会社はこのビルに入ってたんだったな。いいところに来てくれた」

「社長、この人をご存じなんですか?」

「何を言ってるんだ、恵深会けいしんかい名誉会長の深田さんじゃないか」

中園商会の得意先医療法人恵深会、その名誉会長の名前と顔は千賀子も知っているがよれよれのジャケットを着ている目の前の老人とは結び付かなかった。千賀子は訳が分からないまま会社のある8階まで二人と一緒にエレベーターに乗った。深田は30分足らずで社長室から出て来た。深田を送り出すと中園は千賀子を社長室の来客用のソファーに座らせた。

「いやあ愉快愉快、深田さんがストーカーとは。君は笑いごとじゃなかろうが心配いらないよ」

「そうなんですか?」

「深田さんは君と会って誤解を解きたいとおっしゃっている。いや少し違うな、とにかく深田さんのことを君に話しておこう」

不得要領な物言いだが中園の表情はにこやかだ。

「深田さんみたいな人格者はいないよ、僕が保証する。深田さんは深田医院の養子だったんだが、養父がお亡くなりになった後経営手腕を発揮して一代で恵深会グループを創設したんだ。そして去年60歳で経営権の全てを養家の実子じっしに譲ってきっぱり引退なさった。肩書だけは名誉会長になっているがね」

「社長は深田さんと仲がよろしいんですか?」

「深田さんと同じように僕も幼い頃に両親を亡くしていることを知って何かと可愛がってくださるようになったんだ。商売上は僕が接待する側だが飲む時はいつも割り勘だった。お互いの業界人からの中傷を受けないようにとのご配慮だ。実際僕らは会っても仕事の話は一切しない。それでも深田さんは定期的にうちの会社から機器を購入してくださった」

「そんなご関係とは存じませんでした」

「あ、だから深田さんのことを見逃してくれというんじゃないよ。2年前に奥さんを失くされてから深田さんは独身の身だが女性関係についての噂は聞いたことがない。だから君とのことも色恋がらみではないはずだよ。そこのところはこれからご本人に聞いてくれないか」

「え? これからと申しますと?」

「真向かいの喫茶店でお待ちいただいているんだよ」

千賀子は慌てて立ち上がった。



(4)ストーカーの弁明

千賀子が喫茶店のドアを開けると深田は一番奥の席で立ちあがった。

「来てくれたんですね、ありがとう。何か飲み物をいかがですか?」

千賀子が紅茶を注文して座ると深田は言った。

「あなたがおっしゃったとおり私はストーカーです。警察に通報されてもしかたありませんが少し、いや長くなるかもしれませんが話を聞いてもらえますか?」

千賀子は浅く頷いた。

「私は小学5年生の時に両親を亡くしました。身内は母の兄しかいなかったのでそこに引き取られましたがその伯父、深田家には私より二つ上の跡取り息子がいたので私は厄介者だったのです。伯父の家は古い造りで昔の女中部屋がありました。その暗い四畳半の部屋で小学5年、6年と過ごしたのですが中学生になって私の運命が変わりました。あ、どうぞ」

千賀子に紅茶が運ばれてきた。

「かなり生徒数の多い中学校でしたがそれでも私の成績はいつも学年トップだったんです。養父母は目を見張りました。小学校の通知表に成績の席次は載りませんから私がそんなに勉強ができるとは思ってなかったんでしょう。そして深田医院の実子は将来医学部に入れるような成績ではありませんでしたから養父母の扱いが手の平を返すように変わりました。女中部屋から立派な部屋に移り食事も皆と同じテーブルで食べるようになりました」

「同じテーブルということは、それまでは?」

「食事の時間になると台所に行って私一人分の食事が載っているお盆を自分の部屋に運んで食べるんです。食事の量や質も他の家族とは違いました」

「養子とはいってもずいぶん冷たい扱いですね」

「いえいえ、あなたのところの中園社長はもっと苦労されてますよ。話を急ぎますが去年私は引退しました。深田家の実子である義兄とその息子が今は恵深会を取り仕切っています」

「社長からもそう聞きましたが60歳のリタイアは早いのではありませんか?」

「私なりに頑張って成果も上げたんですがちっとも嬉しくないんです」

「まあ、どうしてでしょう」

話に引き込まれて千賀子はインタビュアーのような役割になった。

「成績が良かったので周囲に勧められるまま医者になりましたが、それは得意分野ではあっても自分の好きなことではなかったのでしょうね。では本当の望みは何かと自問したんですが答えが出ません。考えあぐねた私の頭に浮かんだのは小学生の2年間を過ごした女中部屋でした。窓から差し込む夕陽を浴びながら正座して貧しい食事をしている自分の姿が強烈に脳裏によみがえったのです。生きている実感を最も強く感じていたのはあの2年間でした。私のことを立志伝中の人物だと人さまは褒めそやしてくれますが、私の望みは誰にも注目されずに少し貧しいくらいの平凡な生活に浸ることなのです」

「リタイアしてそれを実践なさろうと…」

「そうです。なるべくみすぼらしいアパートを探しました。近くの店で食材を買って自炊しています。ちゃぶ台の前に座って夕陽を見ながら一人で食べるんですが、喜びと寂しさの入り混じった何とも言えない充足感に包まれます。心配をかけないように知人たちにはハワイのコンドミニアムで余生を過ごし日本には帰らないと言ってあります」



(5)ストーカーへの逆襲

深田の言葉を聞いて千賀子は笑いを漏らした。

「ハワイと羽合荘ではだいぶ違いますね」

深田は驚きの表情を見せた。

「あなたは私が住んでいる羽合荘を知っているのですか?」

千賀子はバッグから写真を20枚近く取り出してテーブルに並べた。出退勤の途中自撮りする要領で背後の深田を撮影した写真に交じって千賀子のマンション下にたたずむ写真や逆尾行して撮った深田の後ろ姿や羽合荘の写真もある。

「警察を呼ぶ場合のことも考えてスマホで撮った画像をプリントアウトして用意していたんです」

1枚1枚手に取って見終わった深田は椅子に背中を持たせかけて目を閉じた。

「気づかれていた上に写真まで撮られていたとは…」

「ところで深田さん、何で私なんでしょう。なぜ私が気になるのですか?」

深田は目を開けて背筋を伸ばした。

「それが肝心なことでした。夕陽を受けて歩くあなたの横顔を最初見かけた時に目が吸い付けられるような異様な感覚を覚えました。でも理由は分かりません。しいて言えば、気を悪くしないでいただきたいのですが、あなたが普通の女性だったからでしょうか。私のアパートは下町にあり通りかかったあなたもごく普通の服装や髪形のOLでした。思い出の夕方の食事に象徴される平凡な生活という私の理想のジグゾーパズルは夕陽に照らされるあなたが最後にぴったりとはまって完成したのです。けれどまあそれは無理やりこしらえた後付けの理屈で、単に一人暮らしが寂しかっただけかもしれません。後で知ったことですがお住まいもごく普通のマンションなので都会に出した娘を陰ながら見守る親のようなつもりで付いて回っていました」

「高い家賃のところは無理なんです。亡くなった父の借金が残っているのでなるべく多く田舎の母に仕送りしたいので。でも働いて食べて寝るだけの毎日でも不満はありません。生活面でも私はごく普通の人間です」

「うーん、ますます気に入りました。あ、だからといって付きまとうことはもうしません。それであの、警察の方へは?」

千賀子はいたずらっぽい口調で言った。

「そんなことはいたしません。今度は私がストーカーになるかもしれませんし」

「は?」と深田がいぶかしげな声を発した時千賀子は既に立ち上がっていた。

「あの、この写真は?」

「差し上げます。私はスマホにデータがありますから」



(6)親子ごっこ

千賀子が羽合荘を訪ねたのはそれから3日後だった。

「あなたはこの間の、ええと青田さんでしたかな?」

「千賀子でけっこうです。今度は私がストーカーどころか押しかけちゃいました」

「かまいません、お入りください」

千賀子は買って来た食材をキッチンに置いた。

「間に合ってよかったです。おかずはまだですよね?」

「ご飯を仕込んだ後、総菜を買いに行くか何か作るか考えていたところです」

「塩サバとお漬物を買ってきました。お味噌汁も作ります」

千賀子は塩サバをコンロで焼きながら豆腐を手のひらに載せて包丁で賽の目に切り、薄上げと共に味噌汁の具にした。

「できました。私も一緒に頂かせてください」

「焼き魚と味噌汁と漬物、昔ながらの定番の晩御飯で私の望みどおりです」

深田はご飯を頬張りながら嬉しそうに千賀子を見た。

「ご迷惑でなければこれからも時々お邪魔します」

「千賀子さんなら歓迎です。親子ごっこみたいですなあ」

「親子ごっこ…」

千賀子の目に涙が滲んだ。

「千賀子さん?」

「ごめんなさい、父を思い出してしまって。父は町工場の経営が行き詰って私が小さい頃に自殺したんです」

「そうだったのですか。あなたも苦労したんですね」

千賀子は箸を持った手で涙をぬぐって笑顔をつくった。

「親子ごっこもいいものですね。親子が一緒にご飯を食べられるってありがたいことなんですね」



(7)新たなストーカー

それから数日後にまた羽合荘に寄った時、千賀子は食事をすませた後で遠慮がちに言った。

「まさかとは思うんですけど深田さん、私の後をつけたりとかしてませんよね?」

「もちろんです。どうしてですか?」

深田は気分を害するふうもなく不思議そうに尋ね返した。

「誰かにつきまとわれてる感じがするんです。それだけじゃなくプライベートで出かけた先での私の写真まで郵送されてくるんです」

深田はしばらく考え込んでいたが顔を上げてにっこり笑った。

「私がまたストーカーになりましょう。今度は以前よりもずっと後ろからあなたに付いて歩きます」

「ああ」と千賀子も深田の意図を理解して微笑んだ。

数日後、深田からの連絡を受けて千賀子は羽合荘に寄った。

「確かにあなたの後をつけている男がいました。どこかで見た顔だと思ったらこの男でした」

深田はちゃぶ台の上に写真を広げた。

「これは…」

「そうです。あなたが以前私を撮った写真です。この中のこれとこれに小さく写っています。私の少し後ろのスーツ姿の男です。同じ会社の人じゃありませんか?」

「いいえ」

深田は首をひねった。

「この男もあなたの会社が入っているビルの中に入って行きましたよ」

千賀子はスマホに保存している同じ写真を画面に表示してその男の顔を拡大した。

「分かりました! 1階の旅行代理店の小山という社員です。うちの会社との社員どうしの合コンをしつこく持ち掛けてきました。ひょっとしてそれも私目当ての企画だったのならと思うとゾッとします」

「そんなに嫌な男なんですか?」

「その時もいい感じは持てませんでしたが昨日送られてきたのは写真だけでなく脅迫めいた文書も添えてありました」

深田は真剣な目で千賀子を見た。

「千賀子さん、私の愛人になってください」



(8)ストーカーの撃退

ある日の夕方、中折れ帽を被った男が千賀子の勤め先のビルに入った。サングラスに口ひげという風貌は上品そうにも怖そうにも見える。仕事を終えた千賀子は5時半に1階に降りて来て外に出た。するとストーカーの小山が気づかれないように後を追った。しかしその小山も中折れ帽の男が自分に続いてビルを出たのは知らなかった。千賀子は職場の数軒先のビルの前で立ち止まって人待ち顔に通りを見回した。すぐ後ろまで迫ってにやついていた小山は慌てて脇道に身を隠した。その小山の目の前を中折れ帽の男が横切った。

「あ、パパ!」

「千賀子、待ったか?」

千賀子は男に駆け寄ってじゃれつくように腕を組んだ。そこへビルの入口から二人の若者が出て来て頭を下げた。

親父おやっさん、お帰りなさいまし」

「おう、お前ら、俺の千賀子にちょっかい出してる奴が分かった。この近くの旅行会社の小山という野郎だ。山の中に埋めてもいいがまずは病院送りにしておけ」

「へい!」と返事した二人と一緒に千賀子と男もビルの中に入った。

脇道から様子をうかがっていた小山は青ざめた顔でビルの「三条興業」という社名を確認すると急ぎ足でその場を離れた。三条興業は表向きは堅気かたぎを装っているが社長の三条富雄が裏の世界の人間だということは知れ渡っている。千賀子と一緒にビルの中に入った男は変装用の口ひげを取ってサングラスも外した。

「社長、ありがとさん。社員さんにも芝居してもらって」

三条富雄は椅子から立ち上がった。

「命の恩人の深田先生の頼みとあれば何だってやりますよ。それにしても先生、上手にワシに化けましたなあ」



(9)お守り

2日後に千賀子は報告がてら羽合荘に寄った。

「効果てきめんでした。小山さんは昨日のうちにバタバタと会社を辞めて社員寮も引き払ったそうです。それにしても深田さんはいろんな人とお知り合いなんですね」

「三条社長は以前心臓に動脈瘤が見つかったんですがああいう筋の人だから失敗した場合のことを考えてどこの病院も手術に尻込みしていたんです。それを私がやってあげたというだけのことですよ。」

「そうだったんですか。あ、今日は残業だったんでコンビニのお弁当ですみません。お味噌汁もインスタントなんですが」

「何でもけっこうですよ。近頃はあんまり食欲がないんです」

千賀子は味噌汁のカップに湯を注いでちゃぶ台に運んだ。

「あの、前から気になってるんですがあの石は何ですか? かわいらしいですね」

千賀子は整理ダンスに目をやった。タンスの上には深田の妻の位牌がありその前に卵みたいな形の石が置いてある。黒っぽくてつるつるしている。

「気に入ったのなら差し上げますよ。お守りになるかもしれません」

深田は立って石を手に取りちゃぶ台に置いた。

「深田の家にもらわれた私は新しい小学校になじめず毎日暗い気持ちで通っていました。この石は校門の門柱の脇に転がっていたものです。私が両親の死という運命に翻弄されたようにこの石もそのうち子供が拾って放り投げたり大掃除の時に捨てられたりする運命だろう、そんなふうに思ったのですが毎朝この石は校門の脇にありました。私は次第にこの石が自分の分身のように思えてきたんです」

千賀子は箸を置いて話の続きを聞いた。

「この石が私の分身なら石の運命もまた私の運命です。今朝はなくなっているんじゃないか、帰りにはもうないんじゃないか、ハラハラしながら登下校を繰り返しました。そして2年間が過ぎて小学校の卒業式の日、私はこの石をハンカチにくるんで持ち帰りました」

「それでここにあるんですね」

「そうです。辛かった小学校の2年間を乗り切れたのはこの石の無言の励ましがあったからです。大人になってからもいろんな困難がたちはだかりましたがいつもこの石に祈りました。鰯の頭も信心からで、たわいもない話でしょう?」

「とってもいいお話です。うまく言えませんけど、生きるって大変で、そして尊いことなんですね」



(10)最後の晩餐

6月に入って間もない日のことだった。千賀子が羽合荘で食事の支度をしている間、深田はずっと窓の外を見ていた。夕陽に照らされた深田の横顔はいつにも増して穏やかだった。

「お待たせしました。今日は五目ちらし寿司です」

「美味しそうですが食事は後にして少しお話をしましょう。私はもう長くは生きられません」

唐突に切り出された重大事に千賀子は息をのんだ。

「補助金が出るからと町内会長さんが熱心に勧めるので人間ドッグに行ったんです。すると大腸癌があちこちに転移していて末期のステージでした。医者の不養生です」

話の深刻さにもかかわらず深田の声は落ち着いている。

「しかしおかげで大切なことに気付きました。あなたが気になったのはあなたがあまりに普通の人だからだと解釈してあなたにもそうお話ししましたが正反対でした。あなたは私にとって特別な人です」

千賀子には新たな謎だった。

「短い余命を告げられた日の夜、布団に入るとこれまでの人生の節目が次々と思い出されました。両親が亡くなった時のこと、深田家に引き取られた時のこと、そして妻が亡くなった時のことも。妻は2年前に『ごめんね』と言って息を引き取りました。私より先に逝くことを詫びたのだろうとこれまで思っていましたが亡くなる時の遠い眼差まなざしからすると20数年前に死産で亡くした子に語りかけたのでしょう」

「そんなことがおありだったんですか」

「ええ。私が34歳の時に授かった女の子だったんですが逆子さかごでへその緒が首に巻きついていて産声を上げることなく産まれました。ひつぎに入れる前、妻は吸うはずもない赤ん坊の口に乳首を含ませました。『お腹が空かないようにうんと飲んで旅立ちなさい』妻はそう言って赤ん坊をいつまでも抱いていました。今日はその子の命日なのです」

千賀子はこらえきれずに嗚咽おえつを漏らした。

「産院の窓から差し込む夕陽に照らされながら妻は赤ん坊を抱いていたのですが、その子の面影を私は夕陽を浴びて歩くあなたの横顔に見たのでしょう。あなたを通してあの子が余命少ない私に呼びかけたのかもしれません」

「私が特別な人間だというのはそういう意味なのですね」

「そうです。あの子が生きていれば年齢もあなたと同じくらいでしょうか」

「私は来月の21日で26になりますが」

深田は顔をこわばらせて千賀子を見つめた。

「26年前の7月21日は私の娘の忌明けの日です。仏教発祥の地のインドでは命あるものは死後49日たつと別の存在に生まれ変わるとされています」

しばらくの沈黙の後、深田は窓の外に視線を移して頬を緩めた。

「きれいな夕焼けですね。小学生の時は夕陽に照らされながら一人でご飯を食べました。この部屋ではあなたと一緒に夕陽を眺めながら食事ができました。あの子の生まれ変わりのようなあなたとの夢のような親子ごっこでした。そろそろ食事にしましょうか。あなたの手料理をお腹いっぱい頂いて旅立ちましょう」

名状しがたい感動を胸に千賀子は羽合荘を後にした。

深田が入院し容体が急変したのはそれからわずか1週間後のことであった。



(11)エピローグ

立秋を過ぎたというのに夏の暑さが続いている。千賀子は会社からの帰り道羽合荘の前で立ち止まった。老朽化による建て直しのため近々取り壊しに入る旨の告知板が立っている。入居者も既に退去し終えているようだ。夕焼けに染まる羽合荘の板壁に千賀子はそっと手のひらを押し当てた。羽合荘の近くの商店街の市場で千賀子はカマスの塩焼きと豆腐を買った。マンションに帰り着くとすぐにクーラーを入れて夕食作りにとりかかった。カマスは焼いてあるのでレンジで温めるだけでいい。豆腐は半分を味噌汁に入れ半分は冷蔵庫にしまっておく。千賀子はひと月ほど前、小さな神棚と深田が使っていたのに似たちゃぶ台を購入した。そのちゃぶ台で作り立ての夕飯を食べながら窓の外に目をやった。千賀子の住むマンションの付近にビルは少なく遠くの羽合荘も見える。そのことに気付いたのはほんの近頃のことだった。もっと早くに気付いていれば羽合荘の深田さんの部屋に灯る明かりも見えただろう。深田さんは私の部屋の明かりを見ていただろうか、それをもう聞けないことを千賀子は残念に思う。今となっては無人の羽合荘に明かりはなく夕空を背景に小さなシルエットとなって浮かんでいる。夕映えの茜空もだいぶ黒ずんだ青みを帯びてきた。千賀子は夕食の後片付けを終えて風呂に入った。風呂から上がると濡れた髪をタオルで包むように巻いて洗濯機を回した。缶入りのレモンサワーを冷蔵庫から取り出し残していた半丁の豆腐とチーズをつまみに飲み始める。録画の恋愛ドラマを見ている途中で洗濯が終わった。テレビを一時停止にして洗濯物を干すついでに髪をドライヤーで乾かした。ドラマが終わると時計は11時を回っている。歯磨きをしながら明朝の出勤に備えてスマホで天気を確認する。明日は可燃物のゴミの日なので朝からバタバタしないように準備にかかる。まずゴミ袋に部屋と洗面所とキッチンのゴミ箱を空けた。シンクのコーナーの生ごみも水切りしてレジ袋に入れゴミ袋に。最後に消臭スプレーをして袋の口を縛って玄関に置いた。エアコンを午前4時に切れるよう設定し押入れから布団を下ろす。布団を敷き終えると神棚が置いてある小机の前に正座した。神棚の中には神社のお札と深田からもらった石が入っている。千賀子は神棚に手を合わせた。

「パパ、おやすみなさい」

そして立ち上がり部屋の明かりを消した。

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OLとストーカーの夕陽にまつわるエトセトラ 仲瀬 充 @imutake73

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