第26話 影


 夜の闇をぬって南西地区にある倉庫街までやってきた。

 ブリンデル市を東西に貫くセムル河沿いに建てられたこの場所は、輸出入の一大拠点だ。

 港からの運搬船はこのセムル運河を十数キロさかのぼり、また新たな荷物を積んで港へと戻っていく。

 川幅は二百メートル弱とけっこう大きい。

 遮蔽物のない橋の上に立つと体を飛ばされそうなくらい強い風が吹きつけてくる。

 その風には微かに塩の香りが混ざっている気がした。


「アビラさん、どこまで歩くんですか?」

「もう少しだ」


 人影が途絶えた倉庫街を僕とアビラさんは並んで歩いている。

 ペンチ橋を渡ってからかれこれ十五分は歩いているが、目的地はまだのようだ。

 倉庫街の先はスラムが広がっている。

 治安の悪さは折り紙付きだ。

 こんな時間に入っていけば、男二人といえども襲われてしまう確率は非常に高い。

 もっともスラムの中にある安い酒場や、売春宿が大好きという人たちも一定数いる。

 そういった人たちは危険を無視して足しげく通うらしい。

 値段の安さ、他では考えられないような非合法なサービス、スリルや刺激を求めて行くとの話だ。

 欲望はリスクの存在を忘れさせてしまうもののようだ。

 まあ、偉そうに言っているけど、これらの知識は実録タックルズのバックナンバーを読んで拾ったものだ。

 僕の実体験ではない。


「着いたぞ。左側の青い扉の建物だ。いったん通り過ぎるから、立ち止まらずに歩けよ」


 扉の外に人は見当たらなかったけど、僕らは何事もないふうを装って、そのまま道を歩き続ける。

 ちらりとみた小さな看板には『ジップル貿易』という社名が書いてあった。

 ジップル貿易の建物からワンブロック離れて、ようやくアビラさんは足をとめた。

 かなり警戒しているようだ。


「さっきの建物だが、忍び込めそうか?」


倉庫は隙間なく建っている。

 おあつらえ向きに月も雲に隠れた。

 今なら見とがめられずに忍び込めるだろう。


「屋根伝いに行けると思います」


通りの向こうから二人組の酔っ払いがやってきた。

上機嫌でしゃべっていたのに、僕とアビラさんの存在に気付いてビクリと体を震わせている。

こんなところで人に会うのは逆に怖いものなのだろう。

スラムの追い剥ぎは千ゴールド銀貨一枚のために人を殺す。

ここはまだスラムじゃないけど夜の街は危険がいっぱいだ。

たとえば今ここで殺されても犯人はおそらく見つからないだろう。

そう、今夜僕があの建物の中で殺されても……。

視線を避け、僕らは互いにやり過ごした。


「いまさらこんなことを言うのもなんだが、無理はするな。子どもが誘拐された証拠さえあればそれでいい」

「本当にいまさらですね。これを持っていてください」


 僕は苦笑しながらジャケットを脱いで黒装束になる。

 このジャケットはノイマ先輩から借りたものだ。

 傷つけたり汚したりしたくはない。

 もし見つかって正体がばれるのは嫌だから、今夜は覆面をしておこう。

 忍者用の黒服面もしっかりと被っておく。

準備が整うと智拳印を結んで呪文を唱えた。


「煩悩即菩提」


 恐怖が少しだけ遠のき、物理的な視野が広くなっていく。

 あの雨どいを使えば屋根の上に出られそうだ。


「行ってきます」


 特に苦労も感じず、僕は建物の壁をよじ登った。


屋根から屋根へ目的の建物へ飛び移った。

体術のレベルは6まで上がっているので足音はほとんどしない。

目的の場所にたどり着くと、今度は両足を広く開いて建物と建物の間に体を滑り込ませる。

日本にいたころはむしろ体は固い方だったけど、いまや百八十度まで開脚できるようになった。

これも忍者というジョブのおかげだろう。

 最上階の窓が開いていたので、僕はそこから侵入した。


 建物内に侵入すると僕は周囲の気配を探った。

物音は一切せず、静まり返っている。

どうやら四階に人はいないようだ。

部屋を一つずつ確かめたけど、やっぱり人はいなかった。

人だけじゃなく物もない。

貿易会社の倉庫にしては空き部屋ばかりである。

本業は誘拐で間違いないのかもしれない。

三階も空き部屋ばかりだったけど、二階には人の気配があった。

どの人も粗末な服を着ており、数人ずつ部屋に閉じ込められている。

きっと、この人たちは奴隷なのだろう。

部屋の扉には監視窓がついていて、外側からのみ開けられるようになっていた。

 大抵の人は寝転がっているか、虚ろな瞳で壁に寄りかかって座っていた。

おそらく見張りは一階にいるのだろう。

とりあえず奴隷たちの写真を撮っておくか。

何かの証拠になるかもしれないので、僕はシャッターを十枚ほど切っておく。

でも、誘拐されたという女の子の姿がないな。

別の場所にいるのだろうか?

危険だけど一階の様子も見ておいた方がいいだろう。

階段の踊り場から窺うと、五人の男が見えた。

ソファーで酒を飲んでいる後姿が二人、テーブルでカードをしているのが三人だ。

この部屋に侵入するのはさすがに無理だな。

五人でさえ多勢に無勢なのに、部屋の死角になっている部分にだって人はいるかもしれないのだ。

外から人が入ってきて僕は手すりの陰に身を隠した。


「兄貴、お疲れさまです」


 あいさつをされているところをみると、えらい立場の人間らしい。

 その男は声を荒げて部下を詰問している。


「おい、あのガキはどうした?」

「ビービー泣いてうるさいので、三階の奥の部屋に閉じ込めました」

「バカ野郎! 大事な商品だからしっかり見ていろって言っただろうがっ!」

「すいやせん! ガキの泣き声を聞いているとイライラして、つい殴っちまいそうで……」

「絶対に傷つけるな! あいつには五千万って値段がついたんだ。まんがいちにも傷つけてみろ。お前が殺されるからな」

「わかってます!」


男の声は怯えて震えている。


「わかっているならガキをここに連れてこい、傷つかないように、ここで見張るんだ」

「へいっ!」


椅子から立ち上がる音がしたので俺は慌てて身を引いた。

足音を立てずに三階まで駆け上がり開いていた部屋に身を潜める。

やがて階段を上る音がして、先ほど叱られていた男が姿を見せた。

男はブツブツと文句を言いながら僕が隠れている部屋の前を通り過ぎていく。


「ふざけやがって。なんで俺ばっかりが怒られるんだよ……」


そっと覗いてみると、男はこちらに背を向けて扉の鍵を開けていた。

これはチャンスだ。

僕は後ろから忍び寄り、裸絞めで男の頸動脈を圧迫した。

しばらくはもがいていたけど、脳に送られる血流量が減ったためだろう、男は失神して動かなくなった。

音が出ないよう、そっと男を床に寝かしつける。

そうして部屋の中を覗くと、猿ぐつわを噛まされ、椅子に縛り付けられた女の子がいた。

かわいそうに、僕のことを見て怯えている。

幸いなことに乱暴された形跡はなさそうだ。


「リッター商会のアリスちゃんだね?」


女の子は一言も漏らさず怯えた目で僕を見つめ続けている。


「大丈夫、助けに来たんだ。今、ロープを解いてあげるから静かにしていてね」


 おっと、その前に写真を撮らないと。

 一刻も早く助けてあげたいけど、証拠を残さないとならない。

 つくづく因果な商売だ。

クナイでを使ってアリスちゃんの拘束を解いた。


「もう大丈夫。ここから脱出しよう」


 アビラさんには証拠だけ取ってこいと言われたけど、こんな子どもを置いて帰ることはできない。


「おうちに帰れるの?」

「すぐにお母さんとお父さんに合わせてあげるからね」

「お兄さんは誰?」


下手に正体を明かさない方がいいよな。

覆面をしているけど、すでに声でお兄さんってバレているようだ。

もうトラブルに巻き込まれているとはいえ、これ以上の問題は起こってほしくない。

僕は平穏を愛する忍者なのだ。

よし、ここは正体を明かさず正義の忍者であることに徹しよう。


「名もなく、地位なく、姿なく。されど不幸に見舞われし少女がいれば、それを救わんとする影もあると知れ」

「はあ……」


 あ、難しすぎて伝わらなかった?

 まあいいや。

 それまで彼女を縛っていたロープをおんぶ紐にして、アリスちゃんを背負うと、僕は入ってきた窓から脱出した。


「怖くないよ。下を見ないでしっかり捕まっていてね」

「はい」


 アリスちゃんは小さな手で僕の背中をぎゅっと掴む。

 こんなところはさっさと離れてしまおう。


「おい、グームが倒れている! ガキがいないぞ!」


 もう見つかってしまったか。


「起きろ、グーム! 誰がガキを連れ出した」


これはヤバい!

僕はスピードを上げて壁を上り、屋根を伝ってもときた場所に戻った。


「遅かったじゃないか、って、背中の子どもはなんだ?」


待っていたアビラさんが慌てている。


「リッター商会のアリスちゃんですよ。誘拐された」

「なんで連れてきたんだよ!」

「放ってはおけませんよ!」

「まったく……、あとは警備兵団に任せときゃいいものを」

「兵士たちが踏み込んだとして、人質にされたらどうするんですか? 助けられるときに助けておいた方がいいですって」


アビラさんと会話をしていると通りの向こうから複数名の足音が聞こえてきた。


「いたぞ!」


もう見つかってしまったか!


「くそ、二手に分かれて逃げるぞ!」

「アリスちゃんを僕に押し付けて自分だけ逃げる気ですか?」

「俺は警備兵を呼んでくるんだ。証拠を隠滅される前に踏み込んでもらわんとならん」

「だったらこれを持って行ってください」


僕からカメラを受け取るとアビラさんはスタコラサッサと逃げ出した。

中年太りが目立ってきているけど、逃げ足だけは速いようだ。

だけど、それを咎めている時間もないか。

敵はすぐそこまで迫っているのだ。

僕もアリスちゃんをおんぶしたまま夜の街に走り出した。

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