Mの肖像

見切り発車P

Mの肖像

 エム氏は、国を代表する資本家だ。金で買えるものは何でも手に入るような人物だ。ある日、ワイ氏はそんなエム氏に呼ばれ、彼の自宅を訪ねた。

 ワイ氏はそれなりに名の知れた画家であったが、日々困窮しており、社交界というものにはトンと縁がなかった。彼はエム氏から呼ばれる理由が思い当たらず、困惑していた。

 エム氏には蒐集癖はなく、芸術家を囲うような趣味もなく、美術というものに縁遠い人物だった。昔、エム氏に無理やり絵画を売りつけようと押し掛けた人物がいたが、こっぴどく罵倒され追い返されたのは界隈では有名な話であった。

 そんなエム氏が自分なんかに何の用だろうと、ワイ氏は呼び出されて早々、戦々恐々としていた。

 ワイ氏はとある一室へと案内された。壁に掛けられた一つの絵以外は何も無い酷く殺風景な部屋だった。そして、肝心の絵にも布が掛けられていてどんな絵なのかも分からない。

 ただ、部屋には埃一つ無く、とても念入りに掃除がされている。

 エム氏は神妙な顔でワイ氏を一瞥すると、絵に掛けられていた布をそっと取った。

 下から出てきたのは、とても彼ほどの資産家が後生大事に飾っておくほどのものとは思えない稚拙な絵であった。

一応、絵としての体面は取れてはいるが、ひとかどの画家であるワイ氏から見れば、それが素人に毛が生えた程度の『上手な絵』でしかないことが分かった。

 それに加えて、非常に劣化していた。保管状態が悪かったのだろう。絵具のはがれている箇所があり、かろうじてそれが女性の絵であることは分かるものの、顔の損傷は激しくどのような表情をしているのかさえ読み取ることができない。

 エム氏は、静かにその絵を眺めると、ゆっくりとワイ氏へと向き直った。

「……どうでしょうか?」

「どう、とは?」

 エム氏の思惑が図れず、ついワイ氏は聞き返した。エム氏はそんな様子に気を悪くすることもなく、言葉を重ねた。

「この絵を見てどう思われますか?」

「ええっと……」

 ワイ氏はもう一度絵を眺め、視線を泳がせた。

「だ、大分痛んでおられるようで、その、あまり良い状態ではありませんね」

 ワイ氏が何とか言葉を選んで口にすると、エム氏は真剣な表情で頷いた。

「ええ。そうなのです。それに、この絵は美術を勉強した人間が描いた絵というわけでもありません。価値などさっぱりないものです」

 ワイ氏がますます困惑した表情を浮かべるのを他所に、エム氏は壁にかかった絵を一瞥して、いたって真面目に話を切り出した。

「あなたにはこの絵を直していただきたい」

「はぁ、この絵を、ですか?」

 ついワイ氏の口から、嘲りとも取れる気のない声が出てしまった。口に出した途端、失言に気付き、ワイ氏は咄嗟に口を押えた。しかしエム氏はそんな彼の様子には気を悪くした素振りもなく憮然と絵を指さした。

「先ほども申し上げた通り、この絵には美術的価値などありません。ただ、描かれているものは私にとっては何よりも価値があるものなのです。私はこの絵に描かれていた女性の顔を知りたいのです」

「顔を?」

 ちらり、とワイ氏は再び平凡すぎるほど平凡なその絵を見た。

 絵は肖像画であった。一人のどこにでもいそうな女性が、どこにでもありそうな椅子に座っている。こちらを見ている顔は、絵具が剥がれ落ち、どんな表情をしているかどころか顔立ちすら分からない。どんな色の目をしているのか、どんな形の鼻があるのか、どこに唇があるのか、そのすべてが分からない。

「この絵は、私の伯父が描いたもので、私の母が描かれているはずなのです。母はとは幼いころに生き別れ、私はその顔を知らないのです。一目で良いから、彼女の顔がみたいとずっと願っていたところ、伯父が亡くなり、彼の遺品からこの、この絵が出てきたのです……ただ」

 そっと、エム氏が絵の額縁へと手を当てた。

「この通りで……」

 エム氏は、ため息をついた。それが、どういう意味なのかはワイ氏には分からなかった。ただ、目の前の男が、その絵に描かれた平凡な女性の顔にどれほど焦がれているのは分かった。

 しかし、絵の損傷はとてもじゃないが修復なんて叶いそうになかった。ワイ氏はエム氏を気の毒だとは思ったが、出来ないことを安請け合いするわけにもいかない。断ろうと口を開きかけたが、エム氏がその言葉を遮った。

「もしも、あなたがこの絵を直せたのならば、私はあなたをこれから援助し続けると約束します。聞けば、お金に困っておられるとか。もしも、この仕事を引き受けてもらえれば、これだけの報酬をご用意いたします」

「ほ、本当ですか?」

 エム氏の示した金額は、法外な額だった。それこそ、ワイ氏の今の生活を一変してしまうほどのものだ。

 待てど暮らせど良くならない生活。絵は売れるものの、絵で生活するために膨らませ続けた借金は減る気配もなく、寝る時間を削って、日雇い労働に汗を流さなければならなかった。エム氏の申し出を受ければ、そんな日々にもおさらばできる。ワイ氏の心は弾み、気付けば首を縦に振っていた。

「もちろん引き受けます。任せてください」

 口に出した瞬間に、嫌な汗が背中を伝ったが、時すでに遅し。エム氏の表情は途端に明るくなり、ワイ氏に今にも抱き着かんばかりの勢いで近づくと、がっちりとその手を握りしめた。

 その後、肖像画はワイ氏のアトリエへと移動され、彼は一日中その絵と向き合うことになった。

 この絵を修復さえすれば、今後何不自由なく暮らせるのだから、自然と力が入った。

しかし、修復作業は困難を極めた。劣化してはがれてしまった絵具からでは筆の流れさえ掴めず、下書きの跡を辿ろうにも古すぎる紙からは何も伺い取ることができない。検分すればするほど、ワイ氏は頭を抱えるしかできなくなった。

 この絵から、エム氏の母親の顔を再現しなければいけない。しかし、この絵を復元することはできない。

 その事実がワイ氏に大きくのしかかる。

 筆を取り、絵へ向き合う。ワイ氏がとれる手段はもう一つしかなかった。

 それは、『エム氏の母の顔をねつ造する』ことだった。

 それからワイ氏はスケッチブックにエム氏の母の顔を下書きする日々を送った。

 エム氏の顔をもとに母親の顔を想像し、スケッチブックにかき上げる。そして、かき上げたその母たちから、一番妥当な顔であの肖像画を修復する。ワイ氏はその算段で、数々の女性の顔を描いたが、しかし、出来上がったそれらに満足する日は来なかった。いつも、どこかが違う気がする。はっきりとしない、漠然とした違和感がワイ氏には沸き上がった。

ただ、どこにでもいる女の顔をかき上げては日々が過ぎていった。エム氏から催促の連絡が来るたびに、罪悪感だけが募っていく。

 依頼を受けてからはや一年が過ぎ去ろうとしていた。ワイ氏はどうしても絵を完成させることができず、エム氏の母の肖像画はいまだに顔が剥げたままだった。

 ワイ氏はコートを羽織り、公園へと足を運んでいた。ここ最近は、もはや絵の前に座っていることさえ苦痛を感じ始めていた。

 どこか薄らぐらい秋空の下で、ワイ氏がベンチへ腰を下ろしていると、道の端にたまっている落ち葉をわざと踏み荒らす音が聞こえた。

ぼんやりと、音の方へと顔をあげると、意地の悪そうな老婆が、面白がるようにスケッチブックを覗き見ていた。

「なんだ婆さん。勝手に見るなよ」

「なんだい。どんな絵を描いているかと思えば、つまらない女の顔ばかり。そんな平凡な女ばかり描いて飽きないのかい」

 老婆の言葉にカチンときて、ワイ氏は声を荒げた。

「うるさいな。俺は『母』の顔を描いているのだ。この世で最も尊い顔を描き上げようとしているのだ。馬鹿にするな!」

 ワイ氏の言葉に、老婆は呆れたように首を振った。

「母親の顔だぁ? また、つまらない絵だねぇ。そんなのそこら辺の年増の女を捕まえて描きゃいいじゃないの。どこにでもいるよ。なんならアタシの顔を貸してあげるよ。そうだねぇ、これぐらい出してくれたらモデルになってあげるよ」

 ニタニタと浅ましい笑顔を浮かべて、老婆は指をいくつか立て暗に金銭を要求した。見れば、老婆の服はみすぼらしく、見るからに金に困っているのが分かった。もし、エム氏の母親が生きていれば同じような年齢だろうか。つまり、普通に暮らしていれば、立派に自立した子供に養われていているような年齢なのだ。そんな年にもなって、惨めにも道端で赤の他人に金をせびっているということは、今までろくな生き方をしてこなかったのだろう。ワイ氏は目の前の老婆の程度の低さにため息を吐いた。

「はぁ。しっしっ、乞食め。お前なんぞにやる金なんかあるものか」

「なんだい、その態度は。母親だなんてどこの女描いたって同じだろう! 特別な女なんかいやしないよ。ただの年食った女さ」

「だからといってお前の低俗な顔なぞ描いて何になると……」

 下世話な老婆をおざなりに突き放そうとしたが、ふと、ワイ氏は口をつぐんだ。数々の老婆への罵声が、頭の中には浮かんでいたが、どれも口から出ることはなかった。

「……そうか。そうだ。その通りだ」

 代わりに口から漏れたのは、感嘆の声だった。

「ああ、そうだ。『母の顔』をねつ造しようとなんて考えるから描けなかったんだ。どうせ描かれているのは平凡などこにでもいる女なんだから、誰でも良い、どこか、都合のいい女を描けば、そうだ、そうすれば、俺はあの報酬金なんか目じゃない金を手に入れられる」

 突然、一人でぶつぶつとつぶやき続き始めた男を、老婆は困惑した様子で見つめていた。しかし、その視線に目もくれず、ワイ氏は自らの頭の中に降りてきた天啓に興奮を隠せず、やせ細った枝のような老婆の腕を掴んだ。

「な、なんだい!」

 老婆はあからさまに狼狽した様子で、後ずさりした。しかし、男の手の力は緩むことはなく、その瞳は爛々と怪しい光を湛えている。

 ワイ氏は、閃いてしまった。エム氏の依頼に完璧に答える方法を。

 『エム氏の母の顔をねつ造する』のではなく、『母』自体をでっち上げる。そうすれば、ワイ氏はただ絵を修繕しただけの画家ではなく、エム氏を生き別れた母と引き合わせた恩人になれる。

 画家にとって重要なのは、後援者だ。恩人ともなれば、エム氏はワイ氏のパトロンへ名乗り出るだろう。そうすれば、あの報酬なんて目ではない。もう二度と、金のことなんて考えずに絵が描けるようになる。

 ワイ氏は、浮足立つ気持ちを抑えきれず、老婆へ詰め寄った。

「おい、婆さん。あんたさ、金に困ってるってことは頼る身内もいないんじゃないか?」

「そうだったら、なんだっていうんだい」

「あんたの絵、描いてやるよ」

「はあ?」

「それだけじゃない。あんたは金持ちの母親として、何不自由ない生活を手に入れられる。俺の言う通りにすれば、すべてうまくいく。どうだ? この話に乗らないか?」

 ワイ氏は、絵を描いていた経緯と、自身を襲った天啓、その全てを目の前の老婆へと話した。老婆は、初めこそ怪訝に眉をひそめていたが、話を聞くにつれて、次第に乗り気になっていった。

 数日後、一年の苦労が嘘のように肖像画は綺麗に描き上げられていた。その肖像画の顔は、まるで顔をそのまま張り付けたかのように老婆の顔が写実的に描かれていた。

 それからの老婆の働きは実に見事だった。堂に入った演技で、生き別れの息子に再会した母親を演じた。その様子は、事実を知っているワイ氏ですら、目に涙を浮かべてしまうほどで、エム氏は疑うことなく、老婆を生き別れの母だと信じてしまった。

 想像以上に上手くいき、ワイ氏は少し拍子抜けしたほどだった。

 エム氏は約束通り、いや、それ以上にワイ氏に対して謝礼を支払い、ワイ氏の目論見通りこれからも援助を続けると約束した。それどころか、まるで家族の一員のように迎え入れ、たびたび家へと招かれるようになったのだ。

「いやぁ、本当にあなたに絵の修繕を頼んでよかった! 見事修繕しただけでなく、それをもとにして母が見つかるなんて思いもしなかった。ああ、本当にあなたには感謝してもし足りない」

「ははは。いやいや、そんな、たまたまの、偶然のことですから。ただ運が良かっただけ、そんな恩に着ていただくようなことは……」

「そんなことを言わないでください。ずっと探していたんです。まさか母に会えるだなんて思わなかった」

「はは、はは。いやいやいや……」

 初めこそ、良い気持ちでエム氏の謝礼を受けていたワイ氏だが、日々が過ぎればすぎるほど罪悪感が襲ってきた。

 そういえば、俺はこの人の母親の顔を結果的には塗りつぶしてしまったんだよな……。欲に目がくらみ、しでかしたことの大きさに、冷静になればなるほど、直視できなくなっていった。

居たたまれずエム氏から逸らした目線の先に、老婆がいた。出会った当初のみすぼらしさが嘘のように、福福とした上品な老女がそこには佇んでいた。

 目の奥に宿っていた性根の悪さも鳴りを潜め、エム氏を実の息子のように慈悲深い目で眺めていた。その様子から、彼女が今幸せであること、エム氏を騙したことへの後悔は一切ない事を感じ取ることができた。

 その日の晩、エム氏の目を盗んで、老婆がワイ氏の部屋へと訪ねてきた。幸福そうな老婆は、深々と頭を下げた。

「ありがとう。あんたのおかげで、あたしはやっと幸せを掴んだよ。金も家族も手に入れられた」

「あ、ああ。そうだな」

 歯切れ悪くワイ氏が頷いているのにも気づかず、老婆は構わず話を続けた。

「あの肖像画様様だねぇ。あたしもあんたもあの絵のおかげで、望むものすべてを手に入れられた。本当はどんな絵だったのか知らないけれど、ま、素人の絵。価値のあるもんでも無し。こうやって皆幸せになれたんだから、あの絵もあたしの顔が描かれて喜んでるってもんよ」

 上機嫌に語る老婆へ、ワイ氏は何も言うことができず、ただ生返事を繰り返した。

 老婆の話は、確かにその通りだった。ワイ氏のでっち上げは、エム氏も、老婆もそしてワイ氏自身へも幸福へ導いた。エム氏を騙した罪悪感はあるが、別に悪い事をしたわけじゃない。エム氏自体、母親を手に入れて満足そうじゃないか。ワイ氏はそう自分自身を納得させようとした。

 しかし、どうにも、心の中がざわつく。あの肖像画の女が、自分を見ている気がしたのだ。老婆の顔を描く前の、顔のない女の『顔』がどうしても頭からこびり付いて離れない。塗りつぶしたあの顔が、一年向き合ったあの顔が、こちらを恨みがましく見ている気がする。

 俺は、この世で最も尊い顔を台無しにしてしまったのではないか?

 老婆が部屋を去った後も、ワイ氏の心中は穏やかではなかった。

 ワイ氏はじりじりと、衰弱していった。

 とある日、ワイ氏はエム氏に老婆の誕生会に呼ばれた。誕生会は実に立派な催しであり、飾り立てられた屋敷は煌びやかだった。参列者には、著名人が幾人も並び、エム氏があの老婆を実の母と信じて、大切に思っているのが窺えた。

 エム氏が主役である老婆を紹介し、いくつかのスピーチを行った後、ワイ氏を壇上へ呼び出した。

「さあ、みなさん、彼こそが私と母を引き合わせてくれた才走る画家、ワイ氏です。彼が私の母の絵を修繕したことで、生き別れた母と再会することができました」

 朗らかに紹介され、ワイ氏は青ざめた。ワイ氏の精神はもう限界に近かった。

 そこで、エム氏は壇上の奥、壁へかけられた布へと手をかけた。布を翻し、あの肖像画が現れる。

 あの、顔のない女の姿が現れる! ワイ氏は身構えたが、もちろん肖像画の顔はあの老婆の、変哲の無い顔だった。エム氏の傍で、老婆が照れくさそうに笑っている。幸せそうな空気の中、ワイ氏は、耐え切れなくなった。

「ち、違う! この絵は、この顔は違います! 私は嘘をついていました!」

 堰を切った感情は止める術を知らず、ワイ氏は全てをぶちまけていた。会場からどよどよと困惑した声が上がった。

「あの女は、あなたの母親ではありません。ただ、街を浮浪していた老婆です。あの絵を直すことができなかった私は、そこの女と共謀し、あなたの母親をでっち上げただけなのです」

「わ、ワイさん? 何を言って」

「な、何を言ってるんだい! あたしはあの子の母親だよ。ね、ねぇ! 母親の言葉よりもたかが絵描きの言葉を信じるっていうのかい!」

 エム氏の動揺する言葉にかぶせて、老婆が怒りを露わにワイ氏へ掴みかかり、こんなものは妄言だと訴えかける。ワイ氏は畳みかけるように、エム氏へ詰め寄り、許しを請うた。

「私は許されないことをしました。欲に目がくらみ、あなたの大切な品を台無しにした。あの絵は、あの絵には、こんな女なんぞ、描かれていなかったのに!」

「黙りな! 適当な事言うんじゃないよ。こんな、こんな話をして何になるっていうんだい!」

「うるさい! 嘘に塗れた醜い女め! ああ! その顔を今すぐにでも塗りつぶしてやりたい! あの肖像画の尊さをお前は理解できないのか!」

「なんだって! あの絵が何だっていうんだい! つまらない絵だよ! ただの素人の、年増女の肖像画だよ!」

「そうじゃない! あの絵は母の絵だったんだ! あの絵は母の顔だったんだ!」

「……」

 エム氏はワイ氏の言葉に、はっと息をのんだ。しかし予想外にも彼は取り乱すことはなかった。

「そうか、この絵は、この顔は、私の母ではないんですね」

 ただ、静かに事実を受け止めるのみだった。

 老婆はそんなエム氏の様子に焦り、必死に彼へと縋り付いた。

「あんた、こんな絵描きなんかの言葉を信じるってのかい?」

「信じるも何も、あの絵があったからこそ、私は信じたんです。絵が違っていたのなら、それも信じるしかない」

 揺るがないエム氏の様子に、彼女は膝から崩れ落ちた。肩を落とし項垂れる老婆の横で、ワイ氏は地面へと頭を擦り付け、全身全霊でエム氏へと謝罪を繰り返した。

「申し訳ありませんでした! どんな、どんな報いも受けます。頂いたものもすべてお返しします。貴方が望むのならば、もう二度と画壇には登りません。一人、細々と絵を描けるだけでいい!」

 何かに憑りつかれたかのように必死なワイ氏へ、エム氏は優しくその肩へと手を置くと、ゆっくりと首を振った。

「いいんです。どうせ、母はもう生きてはいないんだ。いや、生きていたとしても私を忘れているのでしょう。この人は母親として本当に良くしてくれました。本当の母ではなくても、私は満足です」

「あ、あんた……」

 老婆は涙ぐみながら、よろよろと立ち上がり、エム氏へと駆け寄った。エム氏はそんな老婆を抱きしめ、涙を流していた。

 突然の騒動に、誕生会に呼ばれた参加者たちは暫く困惑していたが、涙を流してお互いを受け入れ合った様子の偽の親子を見て、自然と会場から拍手が沸き上がった。

 それから、誕生会がお開きになった後も、老婆はエム氏の元へいることになった。エム氏は、ワイ氏の事も寛大に許し、ワイ氏は画家を続けることができる運びになった。

 彼の寛容さに、ワイ氏は感激し、幾度もエム氏へ謝罪の言葉を口にした。

「本当になんて言ったらいいのか。私の、勝手な行いで、期待して落胆させるようなことをしたのに、こんなに良くしていただいて……」

「やめてください。頭をあげてください。確かに、実の母親には会うことは出来ませんでしたが、私は手に入れたいものを手に入れることができました。それは貴方のおかげです」

「そ、そんな、滅相もない……!」

 ワイ氏はエム氏の温かな言葉に身を震わせ、さらに大きく頭を下げた。

 すべてをぶちまけた後、ワイ氏はまるで憑き物が取れたかのように清々しい気分だった。目の前にあの老婆の顔の肖像画があっても、ひりつくような感覚は無くなった。それもすべて、エム氏の寛大な許しがあってこそ。そんな自覚があるからこそ、ワイ氏はエム氏へ頭をあげることができなかった。

エム氏は困った様子で、頭をあげるようにワイ氏へ要求した。気が引けたが、どうしても頼みたいことがあるというので、頭をあげた。

「あの肖像画のことなのですが、あの絵をもとに戻すことは可能でしょうか?」

「え、修繕ですか? あ、その、言いづらいのですが、本当のお母様の顔には……」

「いえいえ、違います。元の、顔が無かった時に戻せるでしょうか?」

「ま、まあ、それは、直せますが……」

 ワイ氏が意外に思いながらも了承すると、エム氏は気恥ずかしそうにはにかんだ。

「いやあ、お恥ずかしい事に、あの誕生会のあなたの言葉にハッとさせられたのです。何十年と眺めてきた……いいえ、見守って来てくれた、あの顔の欠けたあの絵、あれこそ、私の母の顔だったのだと」

 額縁をなぞりながら、エム氏は感慨深げにあの絵を見つめていた。最初の、顔の欠けた、古びた絵は何十年とエム氏の心のよりどころだったのだ。

 ワイ氏は、震える声をこらえて、使命感を燃やしながら強く頷いた。

「分かりました! 任せてください。責任を持ってきっちりと元通りにさせていただきます」

 数週間後、ワイ氏は約束通りに、絵を元通りの顔のない姿へと修繕し、屋敷へと届けた。

「ありがとうございます。ああ、やっぱりこの顔だ」

「いえいえ。エムさんが私たちにしてくださったことを思えば、これぐらいのこと! でも、本当にこのままでいいんですか?」

「ええ。今回の騒動で分かりました。今あるものを大切にしなければならない。私は、この母と共に生きていこうと思います」

 エム氏は晴れ晴れとした様子だった。一点の曇りもないその表情を見て、ワイ氏は清々しい気持ちになった。

「エムさん、貴方に会えてよかった。その絵を塗りつぶしたままでいなくてよかった。私は、人として大切なことを塗りつぶしてしまうところでした」

「いえ、もとはと言えば、私が言いだしたことでしたから」

 エム氏は二人のやったことを、全て許すつもりのようだった。騙そうとした自分たちのことを寛大に許すエム氏を見て、真実を打ち明けたことは正しかったのだとワイ氏は確信した。

 ワイ氏はエム氏に別れを告げて、屋敷を後にした。心は澄み渡り、達成感にあふれていた。

 あの絵は、あの顔の無い状態こそ、あるべき姿だったのだ。エム氏が思い焦がれてきた母の顔は、すぐ傍にあった。優しく笑いかける目も、鼻も、口もなかったが、ずっとエム氏を見守っていたのだ。あの絵が、エム氏と老婆を結び付け、彼らに温かな家族を与えた。

 思い返せば、素晴らしい話だ。

 心安らかな気持ちで、ワイ氏が門の外に出ると、ざあっと強く風が吹いた。心の奥を撫でられたような、不快感にいざなわれて、その吹く方向へと顔を向ける。

 ワイ氏が屋敷を振り返ると、二階の窓際に女がいるのに気が付いた。簡素なドレスに、白髪交じりの髪を結い上げ、椅子に腰かけている。あの老婆だと、ワイ氏が気付いて眺めていると、女はふと、外へと視線を向けた。空を見て、その下、屋敷を出ようとするワイ氏へと、その顔が向けられようとする。

 豪奢な窓枠は、まるで額縁のようで、時間が止まった絵画の世界の中にいるような感覚が襲ってきた。

 女が、ワイ氏を見た時、ワイ氏は言葉を失った。

 顔のない女が、あの肖像画が、そこにあった。

『ああ、やっぱりこの顔だ』

 エム氏の言葉が耳の奥で反芻される。

 さっとカーテンが閉じられた。固く閉じられたそこへはもう二度と立ち入ることは出来ないだろう。

 それから、ワイ氏はもう二度と筆を手に取ることはなかった。

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