出征前夜(五)
養子に迎えたこの少年の、突拍子もない物言いには慣れていた。こちらの意表をつく視点も、ひやりとするような鋭い指摘も、伯英は大いに気に入っていた。それがどれほど世間の常識から外れていようと、とがめることはしなかった。とはいえ、物事には限度というものがある。
「伯英」
返事を催促するような養い子の顔を、伯英はまじまじと見返して、
「――ぃだっ!」
わりと手加減なしでぶん殴った。
「……なにすんの」
頭をおさえて恨み言をもらす子怜に、伯英は片手をひらひらと振ってみせた。
「そりゃこっちの台詞だ。なんてこと言いやがる」
拳に走った痛みはなかなか引かない。それくらい本気で殴った。それほど、恐ろしかった。目の間のこの少年が、いなくなるという想像が。
「いいか、二度と言うなよ」
自分の前で、死ぬなどと。次に言ったらぶち殺す。そんな気迫をこめてにらみつけると、養い子はさすがに大人しくうなずいた。
「わかればいい」
子怜が頬に当てていた布を取り上げ、頭に載せてやる。今日は踏んだり蹴ったりの養い子だろうが、そのぶん賢くなれただろう。少なくとも、舌禍という言葉の意味は深く胸に刻みつけられたはずだ。いや、頭にか。
「じゃあさ」
ふくれっ面の少年は、頭をさすりながら交換条件を持ち出した。
「伯英も死なないでよね」
何気ないその言葉に、とんと胸を突かれた気がした。
居なくなったら悲しい。置いていかれたら寂しい。だから側にいてほしい。無事に帰ってきてほしい。そんな当たり前のやりとりを交わせる相手が側にいる。いつの間にか。それこそ当たり前のように。その事実に、今更ながらに驚かされた。
「伯英?」
急に黙り込んだ養父を、子怜は怪訝そうに見上げる。こちらを案ずるように、ではなく不審なものでも見るような眼差しに、思わず笑みを誘われる。つくづくこの少年はおもしろい。
「心配するな」
思えば、この養い子はいつもこうだった。華々しく勝ってこいとか、ご武運を、などと殊勝なことは口にしない。かわりに死ぬなと要求する。必ず帰ってこいと、そう願う。だから伯英も、いつもどおりの言葉を返してやった。
「ちゃんと帰ってきてやるから」
ならいいけど、と目をそらす子怜の頭をなでてやろうと手を上げかけて、もうそんな年でもないかと思い直す。
この少年を養子に迎えて早五年。気づけば背丈もだいぶ伸び、表情も多少は豊かになった。妻まで娶ったからにはもう一人前かと頼もしく思う反面、もう少し手元に置いておきたい気もしてしまう。まったく親というものは、どこまでも勝手なものらしい。
「帰ってくるまでの間に、嫁さんと仲直りしとけよ」
「……だから喧嘩してない」
そうだったな、と笑って伯英は杯を干した。
翌朝、王伯英率いる五千の兵は連城を発った。朝焼けに向かって進む軍勢を、黄家の婿は低い城壁の上から見送った。風にひるがえる虎将の旗が、地平の彼方に消えるまで。
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