玉蘭花伝 二

小林礼

序章 連城の蘭花

連城の蘭花(一)

「そなたの縁談がまとまった」


 そう兄に告げられたのは、夏も終わりの宵のことだった。運河を臨む屋敷の窓辺で、静蘭せいらんは扇で兄に風を送りながらその言葉をくりかえした。


「縁談、でございますか」


 兄とこのやりとりを交わすのは三度目になる。一度目は十五年前、静蘭が十六の頃だ。


 二度目は、つい三年前。最初の夫と死別して生家に戻っていた静蘭に、兄はすぐさま新しい嫁ぎ先を用意した。そしていま、ふたたび寡婦となった静蘭に、兄は三番目の夫をあてがおうとしている。


王家軍おうかぐん


 酒杯を片手に、兄はその名を口にした。


「そなたも聞いたことはあるだろう」


 ええ、と静蘭はうなずいた。


 王家軍。それは乱れたりょうの世に、箒星ほうきぼしのごとく現れた義勇軍の名だ。各地に起こる叛乱軍を次々と平らげ、民を救う義兵集団。所詮は無頼者の集まりにございますよ、と側仕えの老女などは顔をしかめていたものだが。


「近く、その王家軍が連城れんじょうに入城する」


 静蘭の兄、こう史明しめいは、ここ連城県の長である県令を務めている。史明の父が、祖父がそうであったように。いずれ兄の子がその地位を継ぐだろう。他県においてはいざ知らず、連城の県令職は代々黄氏の世襲ものだった。


「それは何故なにゆえでございましょう」

「知れたこと。太興たいこうの奪還よ」


 連城が属する泰州。その州都である太興が、ばく元宇げんうという名の賊将に攻め落とされたのは昨年の秋のこと。それからおよそ十月。太興の城市まちは未だ莫軍の支配下にある。


「莫氏討伐の軍に、王家軍も加わることになった。泰州総兵閣下から王家軍へ、直々じきじきに派兵要請があったらしい。総帥のおう伯英はくえいに……いや」


 酒で唇を湿らせ、兄はその名を口にした。


王虎将軍おうこしょうぐんといったほうが通りがよいかな」


 勇ましいその二つ名も、もちろん静蘭は知っていた。虎の名を冠された若き武人の活躍ぶりは、ここ連城にも届いている。街中には王虎将軍の絵姿まで出回っているほどだ。


 下女がふところに忍ばせていたその絵姿を、静蘭も見せてもらったことがある。おそらく相当に美化された姿であろうが、それを差し引いてもなかなかの美丈夫ぶりだった。


「わが連城にも、総兵閣下からお声がけがあった。王家軍の世話を頼むとな。せっかくの機会だ。いまや飛ぶ鳥を落す勢いの王家軍と、よしみを通じておくのも悪くない。そう思っていたところ――」


 そこで初めて、兄の端整な顔に笑みがひらめいた。


「あちらから申し出があった。名高き“蘭花笑らんかしょう”を、ぜひとももらいうけたいと」


 窓から吹き込むぬるい風が、静蘭の首筋をなでていく。肌にまとわりつくような湿ったそれを振り払うように、静蘭はゆるゆると首をふった。


「おたわむれはおやめくださいませ」

「戯れなどであるものか。そなたはわたしの自慢の妹だ」


 静蘭の非難など意にも介さず、兄は上機嫌で杯を傾ける。


「そのようなお若い方に、わたくしなど釣り合いませんわ」

「なに、若いといってもそなたより上だ。せいぜいわたしと同じくらいではないかな」

「ですが、わたくしは出戻りの身で……」

「あちらも再縁だそうだ。子もいるとか。実子ではなく養子という話だが」


 とにかく、と史明は妹の抗弁を打ち切った。


「もう決まったことだ。それにこの縁組は、そなたにとっては敵討ちにもなるのだぞ。新たな夫によく尽くし、亡き州令どのの仇を討ってもらうとよい」


 莫軍に攻め落とされた太興の城主、すなわち泰州の州令が、静蘭の二番目の夫だった。里帰りのため太興を離れていた静蘭は難を逃れたが、夫は賊兵の刃を受けて戦死した。その首は城門に晒され、四肢は野犬の餌になったという。


「案ずるな。そなたに悪いようにはせぬ」


 静蘭の機嫌をとるように、兄はかるく酒杯を掲げてみせた。


「いままでもそうであったろう」


 はい、と静蘭はうなずいた。これまでずっとそうしてきたように、慎ましやかな笑みを浮かべて。


「兄上の仰せのままに」




 王家軍の兵五千が連城に入城したのは、それから半月後のことだった。街路にこだます民衆の歓声を遠くに聞きながら、静蘭は三度目の婚礼衣装に袖を通した。落日の光を受けて、その衣は燃えるような紅に染まっていた。



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