窓の外からは、蝉の鳴き声がこだましている。

 私はタオルケットに顔を埋めながら、ぼんやりとさっきまで見ていた夢を思い返していた。

 ……なんであんな夢見ちゃったんだろう。もう戻れない夢だっていうのに。今の私のことを、篠山くんも瀬利先輩も知らないはずだ。

 そもそも。このふたりが付き合っているって噂が流れはじめたのは九月だったような……。私が泣きながら恵美ちゃんに相談したのは、たしか九月の半ばだったはず。

 ふたりが付き合っていたのか付き合っていなかったのかは、結局わからないままだった。

 今も付き合っているのかは定かではない。

 天文部幽霊部員の恵美ちゃんによれば「天文部にいるなんでモテているのかわからない」男子には、今も特定の彼女がいないらしい。

 でも篠山くんのことだ。周りにいっつも女の子がいるんだ。なによりも押しの強い瀬利先輩がいるんだから、今は付き合っていなくても、ふたりが付き合い出すのも時間の問題だろう。

 ……ううん、今の私には全然ふたりのことなんて関係ないのに。私は首を振りながら、ようやく起き上がる。

 夏休みに入ったから、少しだけ寝坊はできるけれど、やることは変わらない。

 洗濯物を急いで片付けたら、学校に行かないと。園芸場の水やりをしないといけないし。

 さっさと着替えると、洗濯機を倍速でかけ、その間にトーストとインスタントコーヒーの簡単な朝ご飯を済ませる。手早く洗濯物を干すと、そのまま学校へと飛び出していった。

 夏休みになったら、さすがに登下校路も学校も静かなもんだ。この中でも登校しているのは、大会前の運動部くらいだろう。

 剣道部はたしか、明後日からインターハイの会場に現地入りすると言っていて、今日が学校でする最後の稽古の日だと近藤くんが言ってたな。

 園芸場に来てみたら、鬼瓦先生が育てた畑が艶々とし、夏野菜もたっぷりと実っている。これ採らなくってもいいのかな。私はそう思いながら水道のホースを取ると、蛇口を捻りはじめる。これを採る採らないの権限って私にはないものね。

 私はそう思いながら、水を畑に撒きはじめる。葉っぱに水をかけてはいけない。あんまり日差しが強いときには絶対に水をやっちゃいけない。鬼瓦先生に何度も何度も口酸っぱく言われた通りに水をあげているとき、剣道場から竹刀と竹刀がぶつかり合う音が響いてきた。

 剣道部の稽古も、明々後日からはじまる試合に向けての総仕上げなんだろう。いつもよりもその音は激しい気がする。私はそう思いながら耳を澄ませていたとき。


「佐久馬?」


 そう声をかけられ、驚いてびっくりして振り返る。

 さっきまで稽古をしていたんだろう。むわりと汗のにおいを漂わせている近藤くんだ。胴着姿で首にタオルを引っかけていた。


「おはよう。練習お疲れ様」

「おう。明後日には行くから」

「何度も聞いてるよ、それは」

「なあ」


 私はいつものぶっきらぼうな近藤くんの言葉に相槌を打っていたら、ぽつんと声をかけてくる。

 思わず近藤くんを見ると、この間のショッピングモールのときと同じように、罰の悪い顔をして、明後日の方向を見ていた。

 彼はちゃんとしゃべらないといけないときは視線を逸らさない。逸らしているときは、大概罰が悪いからだ。


「……俺、優勝してくるから。もし優勝してきたら、言いたいことがあるんだけど」


 そう言われて、私は固まる。

 ホースを持つ力が水流に負け、たちまち私は顔に思いっきり水流をかぶってしまった。


「おい、佐久馬……!?」

「ご、ごめんなさい……! 思わず呆けて……!」

「ああ、タオルこれしかねえし……」

「別にいいよ! 水やり終わったらすぐに家に帰るから!」


 私はぶんぶんぶんと首を振って、水しぶきを飛ばす。

 あまりにもお約束が過ぎる言葉に、私は近藤くんが言い出したことの意図がわからなかった。


「なんで?」


 ぽろりと間抜けな言葉が漏れていた。


「……この間、買い出しに行ってからずっと考えてた。お前、すっげえフラれ方したせいで、卑屈になってるからどうすりゃいいのか」

「フラれてないよ。私が勝手に勘違いしただけだから」

「いや勘違いで吐き気するほど追いつめられるってアリか? ……いや、それはどっちでもいいんだよ。俺が嫌なんだよ。訳のわからん奴がずっとお前ん中にいるのが」


 そうきっぱりと言われて、私は思わず黙り込んだ。

 私だって、もう記憶全部失くして、イチからやり直せたらいいなとは思ってた。もう痛い思いなんかしたくない。自分のドロドロした部分と嫌というほど向き合うなんて、気分が悪くって嫌だった。

 私の中には未だに篠山くんが住み着いていて、何度忘れようとしても、なにかの拍子に彼の気配を感じて、気持ちが死ぬ前に引きずり戻されてしまう。

 私は、近藤くんをちらっと見た。凝視する度胸は、どうしても湧かなかった。


「あの、私」

「なんだよ」

「いいところ、ないよ? すぐ落ち込むし、落ち込んだらズンドコまで落ち込むし、人の好意を素直に信じられないひねくれ者だし、特に美人でも可愛くもないし……」


 口にしてみればしてみるほどに、情けなくなってくる。どうして近藤くんがこんな私に声をかけてきたのか、本気でわからないからだ。

 でも。


「うるせえ」


 そのひと言で私の言葉を遮ったのも、近藤くんだった。


「うるせえ、いくらお前でも、これ以上自虐辞めろよ!? 本気で怒るぞ!」

「もう怒ってるじゃない!」

「これは怒ってんじゃねえよ、叱ってんだよ。ああん、もう。……とにかく、覚えとけ。お前、俺が優勝するよう、家で祈っとけ」


 告白するぞってあれだけわかりやすく言っているのに、こんなに上から目線の言葉なんてあるのかな。

 私はどうしようと思いながら近藤くんを見ていたけれど、彼は顔を真っ赤にして、「ふん」と鼻息を立てるものだから、本当に勝つ気なんだなということはよくわかった。


「……うん、返事考えとく」

「おう」


 言いたいことだけさんざん言って、そのまま近藤くんは剣道場へと帰っていった。

 残していった汗のにおいを嗅ぎながら、蝉時雨を一身に浴びる。

 私が彼に告白したのは、二年生の夏合宿だった。今は一年の夏で、部だって、状況だって、人間関係だって、全然違う。

 もう、いいんじゃないかな。少しだけそう思う。

 私は私を、そろそろ甘やかしてもいいんじゃないかな。近藤くんみたいな人、もう会えないと思う。

 なりたくて卑屈になったわけじゃないけど、そんな私がいいって言ってくれる人、次はいつ会えるかわからないんだもの。

 一通り水やりを終え、ようやく蛇口をひねってホースを片付けたとき。

 私は蛇口の下になにかが転がっていることに気付いた。


「え……?」


 丸いそれは、青く光っていた。縁日とかでよく見るゴムボールかなと思って拾い上げて、気が付いた。

 これ、天文部のオブジェ……文化祭のときに、やる気のない天文部がそれっぽく見えるようにと太陽系をつくって展示するときに使う、海王星のオブジェだ。

 私はがばっと頭上を見上げる。校舎裏にある園芸場は、天文部のある旧校舎……だったと思う。

 まだ文化祭の時期じゃないのに、準備して出さないのに、これが落ちてるなんておかしい。

 なにか一瞬ヒヤリとしたものが胸に走るような気がしたけど、それにぐっと耐えた。

 ……考え過ぎだ。私はセーラー服の胸元を掴みながら、一度拾ったオブジェをその場に戻した。

 これを拾って天文部に届ける度胸はなかったし、そもそも天文部は夏休み中は全面的に活動自体中止していたはずだ。合宿はあったけど、恵美ちゃんからは参加の話は聞いていない。あんまり参加人数少ない合宿だったら中止になるんじゃないかな。

 できる限り自分に都合のいい筋道を思い浮かべて、私はすぐにその場を立ち去った。

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