財布がジャージのポケットから零れたのも、スマホを部屋に忘れてきたのも、私は構っている余裕がなかった。

 私には意気地がない。意気地のない私が必死に勇気を集めて、告白したその日のうちにこれだ。

 嫌なら断ってくれればよかったのに。付き合ってるなら付き合ってると言ってくれればよかったのに。

 中途半端に優しくして、中途半端な答えを出して、中途半端に期待をさせて。

 ……誰にでも優しいってことは、誰に対しても優しくないことと同じだって誰かが言っていた言葉を、初めて実感を伴って思い至った。

 無茶苦茶に走っていたら、気付いたら合宿場を飛び出して、なにかに頭をぶつけたことに気付いた。私は思いっきり打ち付けた頭に手を当ててしゃがみ込む。


「いったぁ……これってなんだっけ?」


 暗くって目が利かず、私はまじまじとぶつかったなにかを見た。

 どうも看板らしい。なにかが書いてあるみたいだけど、まだ夜目が利かずに見えない。昼間に見かけたときになんて書いてあったか。

 ……はあ、いきなり無茶苦茶なことを言って合宿場を飛び出してしまったから、戻るのが恥ずかしい。頭が冷えるまでここにいようか。私はしゃがみ込んだまま、ぶつけてぽっこりとできたたんこぶが引くのを待っていたら。


「佐久馬……!」


 今、一番聞きたくない声を耳にしてしまった。私はびくっと肩を跳ねさせ、後ずさりする。もうふたりでイチャイチャしてたんだから、私のことなんて放っておいてくれたらよかったのに。

 篠山くんは看板の近くでしゃがみ込んでいる私に気付かないらしく、スマホのライトを照らしながらあちこちを見てる。


「由良!?」


 そう言いながら、さっきまで熱いキスを交わしていた瀬利先輩も必死になって探してくれている。その姿に、私は思わずえずいた。

 ……気持ち悪い。

 心配をかけてしまっていると頭ではわかっているのに、どうしてもさっき見たときに感じた生理的嫌悪が先に来る。喉を不愉快な熱が迫り上がってきて、とうとう口の中が酸っぱく苦くなってくる。

 私が思わず屈み込んで吐いているところで、音が響いたのか、こちらのほうに足音が聞こえてきたのに、必死で靴で土をかけて臭いを消した。いくらフラれたからって、こんな臭いをまとって会いたい相手じゃない。


「佐久馬、こんなところにいたのか」

「……来ないで」

「危ないって、早く合宿場に戻ろう? なあ?」


 ……だから、なんでそんなに優しいんだ。

 理不尽だとわかってはいても、だんだんと怒りがこみ上げてくる。

 誰にだってそうやって優しくして、人間的にいいところがいっぱいで……だから、フラれたばかりの人間はこんなにみじめな思いになるのに。

 そんな顔は瀬利先輩に見せればいいことで、私に見せていい顔じゃない。

 自分でもこんなのはフラれた腹いせだとわかっていたけれど、思わず手で砂をかいて、それを篠山くんにぶん投げていた。辺りに砂が舞う。


「ゲホッ……お前なあ、なにをそんなに意固地になってんだよ!?」

「もう放っておいて! あなたが追いかけていいのは私じゃないし、ここで優しくされても私が小さい人間だって思い知るだけだし、もう来ないで!!」


 あなたなんか、大っ嫌い。

 そうまくし立てようと、ようやく立ち上がったところで。

 足下がグラッとしたことに気付いた。

 あれ?


「おい佐久馬、だから危ないって!」


 慌てた篠山くんが私の手を取ろうとしたけれど、もう遅かった。

 私の足下は完全に崩れ、そのまま私は重力に体が引っ張られていく。

 闇に落ちていく恐怖は、あっという間だった。

 ──思い出した。さっきの看板、昼間に見たとき【この先、足下が危険】って書いてたような。

 それが、私が最後に頭に閃いたことだった。


****


 リリリリリリリリリリリリ……


 けたたましい目覚まし時計を思わず叩いて消して、私は伸びをした。

 ……あれ? 私はさっきまでのことを思い返して、枕に顔を埋める。

 私は、夏合宿に行っていたような。天体観測する予定だったのに、全日曇りで空ぶって、仕方がないから合宿場でトランプばっかりやってて……篠山くんに告白したけど、その日のうちの彼が瀬利先輩と熱烈的なキスをしているところを見てしまった。

 喉の奥にまたも迫り上がってくる苦酸っぱいものを必死で抑えていたけれど、私はますます首を捻ってしまう。

 でも……私あのあとで混乱して合宿場を飛び出して、そのまま崖から落ちた……よね?

 夜間に崖から落ちたんじゃ、まず助からないと思う。でも私、なんで生きてるんだろう……。

 そもそもおかしいと思ったのは、ここは合宿場ではなくって、私の部屋なのだ。

 ベッドには長年使っている私の枕があるし、机の上にも教科書や参考書が立てかけてある、見慣れた私の部屋……のはずなんだけど。

 私がますます顔をしかめていると、部屋をドンドンドンドンと大きくノックされる。


「ちょっと由良! 早く起きなさい! もう春休みは終わったでしょう!?」

「え……?」


 なに言ってるの、お母さん。今は夏休み……でしょ?

 でもそういえば。そこで私はようやく今着ている寝間着をつまんでみた。私の着ているのは量販店で買った長袖のルームウェアだった。夏に長袖なんて着てたら、冷房でも付けてない限りは暑くって着ていられる訳がない。おまけに夏にしては湿気てないし、むしろ肌寒い。

 ……ちょっと待って、なんで。なんで夏から春になっているの?

 私が混乱している間に、お母さんがまたもドアをドンッと叩く。


「いい加減にしなさい! お母さんもうすぐ仕事に行くから! ちゃんと入学式に行くのよ!」

「えっ……!!」


 そこでようやく私は飛び起きた。

 ちょっと待って。

 私は高校二年生……だったはず。でもなんで。なんで私、高校一年生になってるの……!?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る