第7話【それぞれの事情】

翌朝、例のハグで強制的に目覚めさせられた僕は、鳴海と共に朝ご飯前の掃除を任されていた。「昨日の手伝うって言ったでしょ、お婆ちゃんに手伝いますって言いに行って」と強制的に参加させられた。一晩泊めて貰ったからそれくらいはと快く手伝うつもりだったのに。

「普通自分から手伝うって言わない? 昨日も思ったけどさ、そういう気遣いとか感謝って気持ちが足りないんじゃない? うんーとかいやーとか適当な事言って誤魔化してるだけでしょ。本当表面取繕うのだけは上手いんだから、大人にはちやほやされるんだろうね羨ましい。はい、私はここやるからあんたはあっち。さっさと行って、しっしっ」

 祖母の気配を感じない距離に来た途端にこれだ。この言われようでどれだけポジティブに捉えれば快くやれるのか。それに、昨日ちょっと話しただけの殆ど知らないに等しい相手にこうも汚いもの扱いされたら、普通の人なら絶対怒るし口を利かなくなっても絶対におかしくない。これじゃ圧政に抗えない町民と同じだ。一揆でも起こさない限り、ずっとこのままていの良い使いっ走りのままなのは明白。だから流石に文句の一つでも言いたい!と思いつつも、キッと蛇に睨まれた蛙の様に大人しく反抗せずに掃除をする僕は、どうやら普通じゃないみたいだった。


 情けなく箒を動かしながら昨日の出来事を思い返していた。嘘みたいな出来事の連続がまだ夢に思えて、気持ちが追い付いていない。追い付かないもう一つの理由としては、朝起きた時には九十九がただのノートに戻っていた事が原因だった。どれだけ呼びかけても反応しないし、表紙にあったはずの目も無くなっていた。ゲンさん曰く、妖怪だから夜になったらまた出て来る、ものらしいけど。折角山程聞きたい事があったのに、これじゃ昨日の確認も何も出来ないじゃないか。ゲンさんに質問しようにも、鉈を携えて山の中に消えていった。

 煮え切らない状況にモヤモヤしながら仕方なく掃除を続け、正門から追いやられて昨日登った方とは逆の山頂側に来ていた。鬱蒼と茂る草木の様子は山麓と然程変わらず、強いて言えばゴツゴツとした岩が露出して登りにくそうな感じ。母さんもここを登ったりしてたのか。

 「夏に入るのは絶対自殺行為だ・・・・・・よく生きてたな僕。知識があるから大丈夫ってレベルの話じゃないってこれ・・・・・・・・・・・・あれ?」

 山と塀の境を何気なく歩いて一周する予定だったが、その塀に邪魔されて立ち止まった。


 この家があるのは山の中腹で、正門を前から見て左側が登って来た崖、右側と奥には山頂に向かって更に急勾配の斜面が続いている。振り返ると、なだらかな山道が地面を這う蛇の様にくねくねと下の街まで伸びているらしいが、現在は木々に覆われその姿を見る事は出来ない。鳴海の話では、季節が移って葉が落ちても見つからない知る人ぞ知る道なのだそうだ。そんな秘境の地をわざわざ切り開き、平地にした上で目を見張るほどの立派な家を建てた。一般庶民には到底敵わない「一族」だけに、それなりの力があったのだろう。

 家のまわりを一周ぐるっと囲むこの土塀も、当時としてもかなりの大きさだ。作り方としては、まず土台となる格子状に編んだ竹に、スサ(下の層から順に、藁、紙、麻)と付近で取れた土を混ぜた下地で荒壁を作る。城や土蔵など燃えたり壊れたりしてはいけない場合は、格子状の竹を少し感覚を開けて二重にし、その隙間に石を敷き詰める。こうする事で火にも衝撃にも強くなる。続いて石を取り除き、先程よりキメ細かく練った土で斑直し(むらなおし)。大直し、中塗りとよりきめ細かい物で仕上げていく。最後に漆喰で綺麗に塗り重ねる事で、調湿性と殺菌作用の富んだ塀が出来上がる。しかし大変なのは、前の層が完全に乾燥し切る前に次の層を塗り始めなければならず、左官職人総出で当たる必要がある。それが百メートル四方を囲っているのだから、どれだけの労働力と時間、それにお金が使われたのか想像も付かない。


 僕の前に立ちはだかった塀は、山にぶつかってもそこで途切れる事なく続いていた。どうやら横穴が開いているらしく、微かに風の音が聞こえて来る。塀が穴の壁ギリギリの所に作ってあり明かりもない為、中を覗き見る隙間は無さそうだった。

 そう言えば歴史の授業で、昔は食材や薬を保存するのにわざわざ氷屋から氷を買って、床下や「氷室」と呼ばれる洞窟に置いていたと習った。今も使っているかはさておき、二世紀も前から続く家ならそれくらいある気もする。ここに土蔵は無いみたいだし、洞窟を利用する方が効率的だ。


 夢中になり過ぎて鳴海に小言を言われるのも嫌だし、朝ご飯を食べてから行けば良いかと一先ずその場を後にした。


 掃除を終えて戻ると、既に朝食が用意されていた。メニューは味噌汁に玉子焼き、鮭の塩焼き、納豆。案外普通なメニューを見て安心半分、拍子抜け半分な気持ちになった僕を察したのか

「精進料理でも出て来ると思いましたか?」

と祖母から素早いツッコミを頂いた。そんなに表情に出てたかな?

「私がまだ家を継いでいない時の毎日の食卓には、干物やら粟なんかばかりが並んでいましたけど、修行僧でも食糧難でもありませんからね。それに美味しい物を食べると幸せな気持ちになります。むしろその気持ちを共有する方が、私達にとってはとても寛容なのです。さ、頂きましょう」

 三人で食卓を囲んで頂きますと手を合わせ、朝食を食べ始める。野菜がゴロゴロ入った優しい味噌汁に思わず溜息が出る。

「あんたさあ、朝っぱらから溜息ばっかり吐かないでよ、辛気臭い。ご飯が不味くなるでしょ」

 鳴海が僕を睨みつける。溜息はダメで、睨みつけるのと罵倒はありなのか、不思議な理論だ。

「別に・・・・・・作ってもらったご飯が久しぶりだったからつい出ちゃっただけだよ。文句ある?」

「え? いつも自分で作ってんの?」

 鮭を口に運んでいた手が止まる。しまったと思っても遅かった。

「どういう事? 今親戚の家に住んでんだよね? 住まわせる代わりに作れって言われてんの?」

「い、いや、ちゃんと作って貰ってるから大丈夫」

 とにかく手を動かしてご飯を食べようとしても、かえってぎこちなくなってしまいポロポロと取りこぼしてしまった。三人の間に沈黙が走る。チラッと鳴海に視線をやると、更に眉間のシワが深くなりどこぞの凄腕スナイパーの顔そっくりだ。この至近距離なら心臓でもどこでも百発百中、逃がすつもりはないと目が語っている。一方の祖母は何食わぬ顔で玉子焼きをつまんでおり、こちらは見守るスタンスらしい。

「ご飯自分で作ってるから家出してきたの? 小学生でももうちょっとマシな理由持ってるって」

「だから家出じゃなくて旅行だって。夏休みの一人旅」

「ピンポイントで何年も会ってないお婆ちゃんとこに? わざわざ大金出して?」

「青春きっぷ的なキャンペーンがあって安かったから。別にいいでしょ、会おうと思い立ったって。誰に迷惑掛ける訳でもないし」

「出た、よくあるやつね、誰にも迷惑掛けてないからー。そういう事言う奴は大体自分持ってないし適当に生きてんだよね。適当に媚び売ってれば何やっても許されるんでしょ? 本当なんでそんなんが生きてんのって感じ」

「鳴海」

「・・・・・・・・・・・・間違った事なんて言ってない」

「言う相手が違うでしょう。継に謝りなさい」

「嫌、私間違ってない。こんな中身無い奴になんか謝らない」

 鳴海は僕を睨み付けて部屋から出て行った。彼女が何に対して怒っているのか分からなかった。その睨み付ける目が赤くなっていた理由も、僕には分からなかった。ただ、彼女の言葉は僕に深く刺さった事だけは確かだった。 

「ごめんなさいね。あの子、あなたが嫌いだから言ってるんじゃなくて、まだ素直になれないだけだから。難しいかもしれないけど、もうちょっとだけ待ってあげて頂戴」

「いえ・・・・・・昨日会ったばかりですし。それに彼女の言う事も結構当たってますから」

「・・・・・・どうして私を訪ねてきたか、事情はある程度聞いています。悩んだ末にここに来てくれてとても嬉しく思いますし、もし、夏休み中ここに居たいと思うならそうして貰っても構いません。その代わりあの子の側にいてあげて欲しいんです。きっと鳴海には私ではなく、あなたの手助けが必要なのだと思います。」

「僕なんかじゃあまり力になれないと思いますけど・・・・・・僕の事嫌ってるみたいだし」

「嫌ってる訳じゃありませんよ、本当はあなたが来てくれた事を喜んでいます」

「全然そうは見えないんですけど・・・・・・」

「まあ確かに、ちょっとだけ伝え方を間違えてはいますけどね」

「・・・・・・あれでちょっと?」

 ちょっとにしてはかなりきつい態度だと思うけど、そこは祖母も直そうとしているみたいだった。その成果が今日の態度なら、祖母の努力はまだまだ実りそうに無い。一体どんなパラダイムシフトが起きれば彼女の性格は変わるのだろう。

「あの子はずっと寂しかったんですよ」

 祖母は鳴海が消えて行った方向とは別方向を見つめながら言う。

「本来見えないはずの物が見えるのは、とても恐ろしい事です。あなたも感じたから分かるでしょうけれど、自分がおかしいんじゃないか? 他の人に伝えても大丈夫なのだろうか? 怖がられたり気持ち悪がられたりしないだろうか? そんな気持ちをずっと抱えて生きていくのはとても苦しい事です。奇異の目で見られ続ければ誰も信じられなくなっても不思議ではありません。でもそんな時に自分と同じ物を見れる人が現れた。それがどれだけ嬉しかったか想像出来ますか?」

 質問に答える事が出来ずに僕は黙っていた。勿論祖母も答えられないと分かった上で聞いているのだと思う。鳴海の苦労は僕には分からないし、何も知らないから答えようもない。彼らをそれでも聞いたのは質問は僕ではなくて、祖母自身が答えたかったから、そんな気がした。

「ロマンチックな物言いですが、二人はなるべくして出会った。偶然では無く、二人にとって必然で必要な事だったのでしょう」

 そう言われてもな・・・・・・と思いつつ、祖母が玉子焼きに手をつけ始めたのを見て、僕も食事に向き直り温くなった味噌汁をすする。それでもやっぱり美味しかった。物語的に考えれば、仲良くなった二人は恋に落ちたり事件を解決したりするんだろうけど、僕等二人じゃそれも無さそうだ。

「そ・・・・・・そう言えば掃除中に見かけたんですけど、家の裏に洞窟があるんですか?」

 そう言うと祖母の動きが一瞬止まって、すぐに何事も無かった様に箸を進める。

「入りましたか?」

「いえ、外から見ただけで中も暗かったし」

「あそこは滑ったりして危ないので一人では入らない様にしてください。そう言えば継はいつまでここにいる予定ですか?」

「えっと・・・・・・特には。折角島根に来たし、観光とかしてみたいとは思ってますけど」

「そうですか。まあそれもいいでしょう」

 当初の目的は島根にいる祖母を訪ねる事、母の人物像を知る事の二つ。一つ目は既に達成して、二つ目もここに居れば聞かせてもらえる。ゲンさんも母の顔馴染みで一緒に山を登ったと言っていたし、お酒を飲んでいない時に尋ねればもっと答えてくれそうだ。それにもし祖母が許してくれれば、母がしていた仕事も見てみたい。


「その代わり、ご飯を食べ終わった後お父さんに電話して居場所と理由を伝えなさい。それが条件です。了承を得たら私達の仕事について教えます」

 食後、叱られた犬がすごすごと自分のケージに入っていく様に、僕は離れに逃げ込んだ。食べたすぐに横になるのは胃腸に良くないけど、畳まれた布団に突っ伏して悶々と携帯を眺めていた。電話帳の欄を上から下まで何回もスクロールしては、「え」の所で指が止まる。・・・・・・いや、嘘を吐くのは良くない。僕の電話帳にはスクロール出来るほどの情報は入っていない。部活に入っている訳でもクラスのムードメーカーでも無いから、登録されているのは全部で八人。中学校に上がってすぐ行われた、ラジオ体操と前ならえを延々とやらされる山奥での合宿で相部屋になった三人。偶然ノートを見られ、それ以降何かとよくしてくれた図書室の先生。近くの病院が二件。東京でテレビ局に勤める叔母さん。そしてもう一人、「え」の欄に名前がある。


 僕の父、榎野篤司。


「あんた呼吸の代わりが溜息なの?」

「・・・・・・何か用?」

 顔を布団に擦り付けながら振り向くと、予想通り鳴海が立っていた。制服着てるけど学校に行く気が無いのかな、実はヤンキーだったりして。でも制服着てるから・・・・・・真面目なヤンキー? なんて適当な事を考えている間、アプリを起動してはすぐ消して他のアプリを起動しては消しを繰り返す。

「お婆ちゃんから夏休み中ここにいるって聞いたけど」

「・・・・・・どうだろうね。そうしたかったけど難しそう」

「じゃあ帰るの?」

「帰りたくはないけど、僕にはどうしようもないんだよ。適当にネットカフェにでも泊まろうかな」

「18歳以下は泊まれないでしょ」

「・・・・・・そっか。じゃあ野宿かなぁ。それはそれで楽しいかも」

 もしも祖母が見つからなければ、最悪野宿も覚悟していた。24時間営業のファミレスなんかがあればそっちに行くけど、そんな深夜まで中学生が店にては補導されてしまう。だったらお金はあるしお風呂は銭湯に行けばいいし、服も古着でも何でも買っておけば困らない野宿を選択する。誰に迷惑をかける訳でもないから・・・・・・帰りの事は考えなくていいか。あの家には帰りたくない。

「何にそんなウジウジしてんの? お婆ちゃんから条件でも出されたんでしょ?さっさとやればいいじゃん」

「・・・・・・鳴海は何で僕に構うの?」

「あんた見てると無性にムカつくから、チャンスがあればボコボコにしてやりたい」

「久しぶりに聞いたよその台詞」

「やられた事ある口ぶりだけど」

「まあ大分前にね。ほら、転校生って嫌でも目立つから。ドラマでよくあるやつだよ、知らない内に目を付けられて校舎裏に呼び出されてってさ。暇なんだろうね」

「先生には?」

「いいや・・・・・・どうせすぐ転校だからチクっても何にもならないし、そもそも別にどうするつもりも無かったから普通に過ごしてた。問題大きくしても他の人に煙たがられるだけだし」

「よく平気だね、私なら絶対やり返すけど。十倍にしてやり返さないと気が済まない」

「なんかその姿が容易に想像出来るのがね・・・・・・平気かどうかは置いといて、転校繰り返せば慣れるよ誰でも。それも無理やり転校させられるんだから余計にね」

 携帯をいじるのを止めて布団に顔を埋める。深い溜息が布団に吸い込まれてじんわり生温くなる。昨日寝台列車から降りて島根に来た時はもっとワクワクしていたのに、たった一言で全部味気なく感じてしまった。早く大人になればそんな煩わしさから解放されるのかな・・・・・・母さんみたいに自由に生きたいのに、いつも父親が邪魔してくる。どうしてあんな人が父親なんだろう。

 ここに居たい気持ちと電話を掛けたくない気持ちの天秤が揺れ動いて、自分でも後者に傾くんだろうなとぼやっと考えていた。荷物の整理をして更に先、九州の方に行ってみるのも良いかもしれない。交通費が嵩んで食費に充てる分が心許なくなるけど、どうにかなるだろう。

 普通に考えればどうにかならない金銭問題をぼやっと考えていたから、鳴海が僕の目の前に来ていた事に気付かなかった。今になって思えば気付かなかったからこそ物語は先に進んだし、鳴海との仲もある意味では少しずつ深まったとも言える。ただ、その瞬間にだけ焦点を当てれば、絶対に、絶対に気付いておくべきだったと心の底から思う。

「ちょっと貸して」

 言うが早いか僕の手から携帯を奪い取った。いつの間にか近くに来ていたのと反射的に携帯を取り返そうとしたのとで、つい何も気にせずに顔を上げていた。

 ヤバいと思った時にはすでに言い訳出来ない角度まで顔は上がっていて、どこからどう見ても女の子のスカートを覗く馬鹿な男子中学生にしか見えない。自分で言うのも何だけれど、これは変態そのものだった。急激に心臓が早く鳴り始め、やっとそこで我に返ってすぐ様布団に突っ伏した。

「この電話帳少な過ぎじゃない? 何で病院含めて八件しかないの?」

 鳴海は気づいていないようだったけれど、

「えっ!? あっふ」

「・・・・・・急に何? 気持ち悪いんだけど。で、誰に掛けろって言われたの?」

「えっと、あ、えっと」

「ああ、大丈夫分かった」

 落ち着かせたくても心臓の音が耳まで届いていて、その音が余計に自分の過ちのせいだと教えてくる。じんわりと冷や汗までかいて来た。

 このまま黙っておけば大事にならずに済むし、いつか笑い話のネタに出来る。はず。どうせここから出て行くんだからあえて事を荒立てる必要もない、心の奥に閉まっておけばいい。そんな悪魔の囁きが聞こえてくる。しかし冷静になれば成る程する程罪悪感が込み上げて、このままにしてはいけないと心の中の何かしらが訴えて仕方なく、悪魔と何かがせめぎ合っていた。

 僕の携帯を持ったまま渡り廊下に出た彼女は、勝手に携帯を操作して誰かに電話を掛け始めた。携帯に夢中で気付かれなかったのはボコボコにされなかった意味で良かったけど、人の物を断りも無く使うのはあんまりいい趣味とは言えなさそうだ。

 相手はキャッチホン一回で応答したらしく、もしもしを言う前に一方的にまくし立てていた。流石の鳴海も驚いて耳から携帯を離している。受話口が静まったのを見計らって、話し始めた鳴海の口調から相手が大人だと分かった。起き上がって聞き取ろうとしたけど、あまり良く聞こえなかった。しばらく横目でチラチラと僕を見ながらのやりとりがあって、最後には頭を抱え込んだ。ほっぺたと眉毛がピクピクしていて、怒りを我慢しているのが遠目でも分かる。まだ十時にもなっていないのに、こんなにも怒ったりしてよく疲れないなと関心する。

 長くて深い息を吐いた後、話が決着したのかぶっきらぼうに「はい」と携帯を投げ渡される。電話がまだ繋がったままだったから誰なのか聞こうと思ったけど、画面上にその答えが表示されていた。

 表示されていた名前は榎野篤司。普通の精神状態だったら会話の流れで誰に掛けるかわかりそうなものだけど、さっきのアレのせいで何も考えられず、理解するのに時間が掛かった。状況は理解出来るけど意味が分からない。

素直な感想を彼女に伝えると

「大丈夫、話せば分かるって」

と、怒りを堪えた笑顔でそう言う。どれだけ話し合っても平行線の相手に、何かを話す意味が微塵も感じられない。そもそも話したくもないから出てきたのに。

「いいからいいから、電話すればこっちに夏休み中居られるんでしょ? ささっと終わらせて楽になれば?」

「正確にはOK貰えればだけどね。もらえる訳ないじゃん」

「そういうのいいから早くして。折角私が話したんだから」

「・・・・・・はいはい」

 僕の返事に満足して彼女は離れを出て行った。部屋の中に静けさが戻ってきて、僕は右手に持った携帯の画面を見つめる。本当に面倒臭い・・・・・・癖になった溜息を吐いて、電話に出る。

「・・・・・・・・・・・・もしもし」

「今島根にいると聞いたが、本当なのか?」

「・・・・・・そうだけど」

「宿題は」

「初日に終わらせた」

「そうか。友達と遊んだりはしなくていいのか」

「日本全国にいるから大丈夫」

「・・・・・・それと」

「もういいよ、帰ればいいんでしょ帰れば」

「いや、そこに居ていい」

「何それどういうこと?」

「また仕事が忙しくなりそうでな、お前の面倒を見れないからむしろその方が安心出来る」

「・・・・・・面倒なんか見たことないくせに」

「よく聞こえなかった、もう一度言ってくれ」

「何も言ってない」

「そうだ、お前まだあれ持ってるのか」

「だったら何。許してないからね」

「あれはお前自身のためだ。あんな物はーーーーなんだ?ああ、いやそれは先方に話を伺ってから取り掛かれ。いや、今は電話中だーーーーええとそれで」

「会社の人が待ってるんでしょ、仕事して来たら」

「・・・・・・銀行のカードは持ってるな? 口座に入っている分は好きに使っていいから、それと後で義母にも連絡すると伝えてくれ。とにかく後で掛け直す」

 プツッと音がして電話はあっけなく切れた。時間にして一分弱のこの電話は、ここ数年の親子の会話としては最長記録だった。鳴海の言う大丈夫は何が大丈夫だったのか、本当に話すだけ無駄だったと心の底から思う。血が繋がっているだけで親子ではない、紙の上だけの関係。何であの人が父親なんだろう。

 そう思うと急激な脱力感に襲われて、折角畳んだ布団を崩しながら畳に仰向けになる。


 癖になってしまった溜息がまた、部屋中に充満していった。

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