第20話 過去からの招待

 階段を降りると、その先には小広い部屋があった。


「お……おおお~」


 ニーナの目がきらきらと輝く。

 通路と同じ要領で明かりを点けると、部屋の様相がよく分かった。

 ニーナの感嘆の声が壁に吸い込まれ、かき消えていくくらいの広さがあった。


 何かの儀式に使う部屋だったのかもしれない。

 ざっと二、三十人くらいは集まれそうだ。


 もちろん、いまは無人の廃墟ゆえ、調度品のたぐいは存在しない。

 もはや元がなんだったのかも分からない、錆びた金属の欠片が転がっているのみだ。


 けれど、四方の壁には装飾が施され、石造りのレリーフや小さな彫像もあった。

 床も苔むし、埃がたまっているとはいえ、なんとはなく神聖なおもむきがあった。


 絵描きにとって、宝庫のような場所だった。

 いくら仕事に集中しようと思っても、胸のウズウズが抑えきれない。

 描きたい、キャンバスに残したいという想いが、あとからあとから湧きあがってくる。


「きっといまのわたしと同じ格好をした人たちがいっぱいいたんだろうなぁ。ディオニシアの神殿なくらいだから、ここで、みんなでワインを飲んでたのかも……」


 もう、夢想が止まらなかった。

 古代の人々がこの神殿で暮らし、言葉を交わす様相が幻影のように脳裏に次々と浮かんでくる。

 もう話しかけたら答えてくれるんじゃないかというくらい、くっきりと行き交い、談笑する古代の人々の姿がニーナには見えていた。


 芸術復興を掲げる、万能の聖女の題材としてもぴったりだ。

 はじめて汽車を目にしたときのような興奮が、ニーナを包んで放さなかった。


 今度は、休み日にスケッチブックを持って訪れたい。

 ワイナリーの仕事にのめり込み、絵筆を手に取ることを忘れていたニーナが、久方ぶりにそんな思いを強く抱いていた。


「……ひょっとして」


 ふと、ニーナは思い当たった。

 エリザたちがこの仕事を自分に頼んだ本当の理由に。


「……最初からそのつもりだったの?」


 頭にエリザとロザンナの顔を思い浮かべ、その想像に向かって問いかける。


 こんな場所を訪れて、ニーナが絵を描きたいと思わないはずがない。

 そして、そのことをエリザやロザンナが予想できないはずも、またなかった。

 ふたりとも、赤ん坊の頃からニーナのことを知っているのだから……。


「お姉ちゃん……」


 つぶやいた、ニーナの声音は複雑だった。

 

 姉たちの心づかいが、じんわりと胸に沁みる。

 絵を描いてもいいと言われた、背中を押してもらった気がする。

 この神殿の存在そのものが、姉たちからの贈り物のように感じられる。

 それは素直に嬉しかった。


 けど同時に、反発心もないわけではなかった。

 仕事ぶりを認められ、この奉納の儀式を任されたとだけ思っていただけに、子ども扱いされているみたいで、ガッカリする気持ちもあった。


「わたし、絵を描いてもいいのかな……?」


 もう一度、空想上の姉たちに問いかける。

 答えはもちろん返ってこない。

 姉に直接問いかける勇気は、まだなかった。


「とにかく、いまは仕事!」


 もう何度目になるか分からないつぶやきをまた口にし、夢想を覚ますように頬を叩く。

 姉からも、気をつけていくようにとは、再三再四注意されていた。


 危険はないはずだが、大昔の建物だ。

 想定外の事態だって、起こるかもしれないのだ。


 気合いを入れ直し、ニーナは奥へと進んでいく。

 エリザの説明によれば、この先の階段を降りたところが祭壇の間のはずだった。

 

 ディオニシアは酒の神様だから、なんとなく庶民的で親しみやすい女神というイメージをニーナは持っていた。

 その想像を裏付けるように、祭壇はこぢんまりとしてかわいらしいものだった。


 ロザンナに言われたとおり、その脇には石造りの棚があり、オルネライア家のワインの瓶が収められていた。

 なんとはなく、微笑ましくなるような光景だ。


 それでも、祭壇らしい厳粛さも同時に感じる。

 エリザに教わったとおり、ニーナは祭壇の下でひざまずき、ワインの瓶を捧げ持った。

 頭を下げて、祝詞を唱える。


 ――豊穣と酩酊の女神ディオニシア様。この地をお守り、加護を頂き感謝致します。

 慈悲深くも、今年も良き酒を我らに賜り、深く感謝致します。

 ディオニシア様のご加護で生まれたワインの、最初の一つを貴女様に捧げます。

 どうぞ、お受け取り頂き、天界の女神さまたちと酒宴をお楽しみください。

 願わくば、翌年も、その翌年も、未来永劫に女神様の慈悲のしずくを我らにお与えください――


 そんな意味の祝詞を、古いことばで唱える。

 そうしていると、自分が巫女になったようだ。

 はじめて、この衣装をまとう意味が分かった気がした。


 誰が見てなくても、ニーナは真面目に役目をこなした。

  つっかえずにそらんじられるよう、何度も練習した成果をなんとか出せた。

 絵画とは直接は関係ないけど、こういう経験もいつか何かの役に立つかもしれない。


 これで儀式は完了だ。

 あとはワインを棚に納めればいい。

 エリザに言われたとおり、そこまで難しいことは何もなかった。


「ふぅ~」


 けど、立ち上がって息をつくと、自分がけっこう緊張していたことに気づいた。

 無事ワインを納め、ほっと胸をなでおろす。


「あれ、奥にも部屋がある?」


 と、ニーナは祭壇の裏にも、通路が伸びているのに気づいた。

 ほっとした反動からか、好奇心が湧き上がってくる。


「ちょっとだけ、覗いてみてもいいかな……」


 女神に問いかけるように、祭壇を見上げる。

 エリザからも、寄り道するなとは言われていない。


 このまま真っすぐ帰ってしまうには、この神殿はあまりに魅力的で、ちょっともったいない気がした。

 もし、姉たちの意図がニーナに絵を描く気持ちを取り戻させることだったなら、ワインを無事奉納したいま、多少の探索は許されるのではないだろうか。


「うん、そうだよ。そうに違いない!」


 言いわけ気味に考えながら、ニーナは好奇心のおもむくまま、神殿のさらに奥へと進んでいった。

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