第2話 月曜日2

 私の言葉を聞いた途端ユズハは、虚ろに沈みきっていた目を見開くと、涎を滴しながら甲高い奇声を上げた。喜んでいるように私には聞こえた。

 きっとユズハは、私が自分と一緒に死んでくれものだと勘違いしている。きちんと一本欅公園の事も説明しないといけない。

 

 私はユズハの頭を撫でた。ここへ連れて来られてから三ヶ月の間、一度も洗っていない髪はべっとりと汚れきっている。私は自分の手でユズハの髪をといた。砂の中に手を突っ込んだようなざらついた感触が指先に伝わる。白い粉がパラパラとユズハの頭から床に落ちるのが見えた。胸がざわついた。

 ユズハが身に付けている白いTシャツと薄ピンクのショーツも汚れが酷い。たまにはお風呂に入れてあげたいし、服も着替えさせてあげたい。今のユズハは野良犬よりもきっと汚い。


 これからどうやってユズハに言葉を覚えさせようかとぼんやりと考えながらしばらくユズハの頭を撫で続けていると、背後からけたたましい、耳をつんざくエンジン音が聞こえてきた。不安を掻き立てるような不快な轟音。

 ユズハは怯え、震えながら物置の奥へと引っ込んでしまった。

 後ろを振り向くとお祖父ちゃんが小型のチェーンソーを持って、ぼんやりと真顔で私たちの方を見て立ち尽くしていた。


「お祖父ちゃん何するの?」

 私の声はエンジン音にかき消された。お祖父ちゃんは表情を変えずにただ立ち尽くしながら、チェーンソーのエンジンをブンブンと吹かした。

「お祖父ちゃん! 何するの?」

 私は思い切り叫んだ。お祖父ちゃんの耳に私の声がようやく届いたのだろうか、お祖父ちゃんはチェーンソーのエンジンを停止させた。裏庭に静けさが戻った。

「お祖父ちゃん、チェーンソーで何する気なの? ユズハ怖がってるよ」

「あぁ。いやぁ。別にただ庭の木の枝が伸びてきたから、落とそうと思っただけだよ」

 お祖父ちゃんは少し微笑みながら穏やかにそう言った。

「食事あげたんか?」

 お祖父ちゃんはこちらに近づいてきて、私の背中越しに物置の中を覗きこみながらそう言った。

 ユズハはずっと震えながら下を向いている。

 お祖父ちゃんがユズハを視線の中に入れる時にどんな表情をしているのか私は見た事がない。

 見れないのだ。目を反らし続けている。

 自分と血が繋がったお祖父ちゃんの、汚れきったおぞましい欲望が発露する瞬間なんて見たくもないのだ。

 

 私はしゃがんでユズハの方を見ながら、お祖父ちゃんに背を向けた状態で話しを振った。

「ねぇお祖父ちゃん。ユズハをお風呂に入れてあげたい。服もだいぶ汚れてるし着替えもさせたい。駄目?連れてきてもう三ヶ月だよ。可哀想じゃない?」

 お祖父ちゃんは「あぁ。そうだなぁ」と、一言だけポツリと呟くとそのまま黙ってしまった。

 服を着替えさせるにもお風呂に入れるにも、ユズハを縛りつけている物全てを解かないといけない。それがお祖父ちゃんには引っ掛かるのだろうか。


「それとさ。もうすぐ夏じゃん。どうにかしないと

熱中症で死んじゃうよ」

 私の言葉を聞いたお祖父ちゃんはひとつ溜め息を吐くと、

「もうそんな季節かぁ。そうだなぁ。扇風機でも引っ張って来るか。水。多めに上げといてよ」

 そう他人事のように言った。


「今日もありがとうな。もう帰っていいよ。宿題とかあるんだろ」

 そう言うとお祖父ちゃんは再びチェーンソーのエンジンをかけた。不快な轟音が耳をつんざく。

 私はユズハに「また明日来るね」と言ってから立ち上がった。チェーンソーの轟音の中にユズハの悲鳴が混じった。私は心の中に渦巻く重苦しい不安と胸の痛みに気づかないふりをして、ユズハに背を向け、お祖父ちゃんの横をすり抜けてその場から立ち去った。

 自転車を押しながらお屋敷の出口に向かう。その間もチェーンソーの轟音は唸りを上げていた。


 私はお祖父ちゃんがユズハに何をしているのか知らない。たまに何をしているのか想像したくもないのに想像してしまう。私の貧困な想像力で浮かんでくるのは身の毛もよだつような事ばかりだった。

 出来る事ならユズハを助けたい。助けるために出来ることはなんだろうとずっと考えてきた。

 私はお祖父ちゃんが怖い。私がユズハを逃がしたらお祖父ちゃんは私に何をするだろう。そんな想像もしてしまうのだ。

 

 お祖父ちゃんは二年前にお祖母ちゃんが亡くなってからおかしくなった。

 明るくて、話し好きな人だったのに無口になった。訳の分からない事をブツブツと呟くようになった。粘着シートで捕まえたネズミに執拗に先の尖ったスコップを突き刺したり、ボロボロになった古い日本人形を拾ってきてダイニングテーブルの椅子に座らせたりした。

 そしてユズハをどこからか連れ去ってきて物置に閉じ込めた。

 ある日お祖父ちゃんから電話で屋敷に呼び出された。裏庭の物置に連れていかれてユズハを見せられた。訳が分からなかった。

「この子の世話を頼むわ」

 そう呟いたお祖父ちゃんの目は暗く沈みきっていて、手には斧が握られていた。私はただただひたすら怖かった。従うという選択しか取れなかった。

 誰かにこの事を話したらどうなるかということについて、お祖父ちゃんは私に何かを言ったことはない。脅されたこともない。

 でも私は勝手にこの事を秘密にしている。勇気が出ないから。私は私の身の安全をただ守っているだけだった。

 でも、それと同時にこのままで良いわけないがないという事も分かっている。

 どうすればいいのだろう。

 とりあえず、まずはユズハに言葉を教える。「一緒に死のう」って言葉を。それが今の私に出来る精一杯のことだった。


 

 


 

 




 

 


 


 


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