束縛と招待

晴れ時々雨

✋ ⛩

人混みを誰かと歩くのが怖かった。

幼いころ家族で初売りに行ったとき、ごった返す人波の中を繋いだ手を振り切って走り出した私に、母が諭した。

「迷子になるよ。迷子になったらもう、帰ってこられないかもしれないよ」

母の神妙な声が、何故か雑踏の中ですんなりと響いた。それは、どうしてという質問を挟む余地を与えず、叱責より深く私に届いた。答えを探すかのように見つめた母の目の奥底に、暗い森の木々の隙間に白い石だたみを背に聳え立つ黒い鳥居をみて、私は言葉を失ったのだ。

繋いだ手を離してひとりになるとどうなるか。自由になった自分の手が、知ってはいけないものの何かと繋がるところを想像して、途端に寒気がした。

母が私の手をとり歩き出すが、私の足は進まない。母は私が叱られて拗ねていると思っただろう。しかしそのとき母に手を引かれながら、私の周囲を取り囲んでじろじろと眺める奇妙なものたちの視線を感じていた。それは触れるでもなく、重い気配で圧してくるので前へ進めない。母は私を引きずるように歩いた。私は否応なしに異様な存在の集まりの真ん中を突き抜けるかたちになったが触ることはなかった。それらと私の間を埋めるように空気の膜のようなものがあり、水銀の粒子を触れるときのように反発し合っていたからだ。

ヒトリ、ヒトリ、そう何度も繰り返し囁く声が耳にこだましていた。私は思い切って母との距離を詰めしがみついた。すると声はいきなり止んだ。

迷子になる。必死で母の手に掴まると、硬く閉じた目の裏にさっきの鳥居が現れた。おそろしくて凝視したくなかったが、黒い鳥居に括られた注連縄は赤黒く濡れていて、そこから下がる紙垂がその赤い液体を吸って真っ赤だった。目を閉じても目を閉じても、その暗く鮮やかな光景が強烈に蘇る。あれは いりぐち だ。出口のない。

「どうしちゃったの、急に」

そう言って苦笑する母もなんだか怖かった。

それからも何度か人混みに出かけたが迷子にならないように気をつけた。けれど不意に雑踏に紛れてしまいたくなるときがあり、その都度あの鳥居の光景で覚えた鳥肌を再現して踏みとどまった。

大人になった今、一人でいてもあの声は聞こえない。きっと子供特有の敏感さで、増幅された母性のもつ空恐ろしさを感じ取ったのだろう。それとも、すでに私の手は何某かに繋がれているとでもいうのだろうか。まさかね。

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束縛と招待 晴れ時々雨 @rio11ruiagent

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