いつの間にやら五木さん!?居候ゴキブリ娘が勝手に家に居着きました

野々村鴉蚣

プリンを返して五木さん!

「ただいまー!」

 玄関を勢いよく開けて、オサムは声を張り上げた。夏の昼四時、庭ではセミがシャワシャワと合唱を続けている。

「ただいまー! ママー? パパー?」

 オサムは適当に靴を脱ぎ散らかすと、家の中を見渡す。

 木造家屋の見慣れた我が家。人の気配は一切なく、代わりにアナログ時計の秒針がカチコチと音を立てていた。

「居ないのー? ママー?」

 平日の真昼間だ。家に誰も居るはずがない。ふと、窓の外に目をやれば、銀に輝く太陽の陽射しに当てられて、庭の草木が眩く煌めいていた。

 つい先程まであの中を元気に駆け回っていたのだと思えば、なんだか不思議と暑さを思い出してしまう。

「暑ちぃー、なんだ誰もまだ帰っていないのかー」

 オサムはつまらなさそうにそう呟くと、ソファーにランドセルを投げ捨てた。そのままリビングのテーブルに置かれたクーラーのリモコンを手に取ってスイッチを入れる。

 ピッピッピッピッ、慣れた手つきでスイッチを入れ、設定温度を二十八度から十八度まで下げてしまう。

 うぉぉ、暑い暑いー、なんて言いながら、続けざまに扇風機のスイッチを入れた。

「ああああああああああ」

 オサムは回転する扇風機の歯に向かって声をぶつける。

「わぁぁれぇぇわぁぁれぇぇわぁぁ、うぅぅちゅぅぅうぅぅじぃぃんんんだぁぁ」

 誰も見ていないことをいいことに、汗で濡れたシャツを半分脱ぎつつ声を出すオサム。クーラーや扇風機の努力も虚しく、彼の額からは次々と玉のような汗が滲み出していた。

 ガタリ、突然オサムの背後から物音がした。

「だ、誰!?」

 慌てて振り返ったオサムは、即座にクーラーの設定温度を二十八度まで戻した。急に仕事内容の変更を伝えられた冷房機は、まるで上司にこき使われる平社員みたいに、吹き出し口の風向きルーバーを萎えさせた。しゅんと縮こまるクーラーに目配せしつつ、オサムは扇風機のスイッチを切る。事の重大さに気づいた扇風機も、息を潜めてオサムを見守った。

 家電たちの協力を受けて、オサムはゴクリ、生唾を飲み込んで立ち上がる。

「ママ? 帰ってたの?」

 彼の思考するパターンは三つ。一つ、実はパパかママのどちらかが早退して家に居たという可能性。もしそうなら、電気の無駄遣いさえバレなきゃ大した問題じゃない。

 そして二つ目、泥棒が忍び込んだという可能性。もしそうであれば、果たしてどう切り抜けるべきか。オサムの手元にあるのは、ランドセルとクーラーのリモコン。扇風機を振り回すことは出来るだろうか。火事場の馬鹿力で脅威的な腕力を発揮する可能性もあるが、現実的では無い。この前同じクラスのたっくんから教わったライダーキックをお見舞いするのはどうだろうか。助走をつければ威力が増すことを、身をもって経験したばかりだ。よし、そうしよう。もし泥棒なら、全力でやっつけるまでだ。

 と、心に決めつつ三つ目の可能性を思い浮かべる。それは、いつの間にか五木さんが現れたという可能性だ。

 もしそうなら……。

「ばぁ!」

 突然、キッチンから大人の女性が顔を出した。白く長い髪が揺れ、大きめのつり目が悪戯っぽく笑っている。八重歯がちらりと見え、オサムはドキッと跳ねる心臓を押さえつけた。

「い、五木さん。いつから居たの?」

 正解は三つ目だった。五木さんはオサムの言葉にほほ笑みを浮かべつつ、台所から姿を現す。タンクトップにジーンズタイプのホットパンツ。露出度の高い姿に動揺してしまう。目のやり場に困るとはまさにこの事だ。彼女は陶器のように滑らかな足を優雅に滑らせてリビングに入ってきた。そして、細長くハリのある腕を組み、手のひらを自らの首に当てて声を発した。

「わぁぁれぇぇわぁぁれぇぇわぁぁ、うぅぅちゅぅぅうぅぅじぃぃんんんだぁぁ……って言ってた時かな?」

 べっと舌を出して挑発するように笑う五木さんに、多少ムッとした様子でオサムは返した。

「も、もっと早く言ってよ! 恥ずかしいじゃん!」

「えぇー? だってオサムくん、可愛かったんだもん」

「かわ……可愛くないもん! カッコイイんだもん!」

 ムスッと膨らむオサムの頬を、五木さんは人差し指でちょんとつついた。

「んー、そうだねぇ、オサムくんはカッコイイよォ? よしよぉし」

「な、撫でるなぁ!」

 両手をじたばたと動かして抵抗の意志を見せるオサムだったが、相手が悪い。

 五木さんはオサムの体をむんずと抱き上げると、そのまま強く抱き締めた。

「ぐ、苦しい……」

 五木さんの柔らかな胸が、オサムの顔を覆う。たわわな感触に顔を赤くした少年は、ただひたすら呼吸を止める事でしか抵抗手段を見出すことは出来なかったらしい。

「ぷはぁぁ、ぜぇぜぇ」

「あははは、オサムくん顔真っ赤じゃーん、照れちゃったのぉ?」

「ち、違うやい! 照れてなんかないもん!」

「本当かなぁ? オサムくん分かりやすいからなぁ〜。実はお姉さんにドキドキしちゃってたんでしょー」

「違う! 違うもん!」

 悔しそうに否定するオサムは、両手で五木さんを突き飛ばすとキッチンに向けて足を伸ばす。小学五年生の体重を受けて、木造家屋の床がミシミシと鼻歌を聞かせた。

 勝手に浮かれる家屋を睨みつけながら、オサムは冷蔵庫を開ける。目当てのものはプリンだ。いつもママがオサムのために買ってきてくれるプリン。夏の暑い時期ほど、これを食べて涼みたいものだ。

 ところが、どこを探しても目当てのプリンが無かった。

「あれ、僕のプリン、どこ?」

 困惑を表情に浮かべたまま、少年は必死に冷蔵庫の中身を掻き回す。卵のパック、ケチャップマヨネーズ、ベーコンの束に納豆パック、積み重なった豆腐を退けて、豆板醤の容器をどかす。パパが好きなビールの裏にも、ママが飲んでるヤクルトの後ろにも、オサムの目当てであるプリンは見当たらなかった。

「ど、どうして? 僕のプリン、無い……」

 目に涙を浮かべつつ、オサムはゆっくりと背後に目をやった。

 ピーッピーッ、冷蔵庫が微熱を訴えている。少年は乱暴に冷蔵庫のドアを閉めてやると、その勢いに感情を預けて声を張り上げた。

「五木さん!」

「なんだいオサムくん?」

 五木さんは勝手にテレビをつけてくつろいでいた。手には、オサムが楽しみにしていたプリンが握られている。

「やっぱり、やっぱり五木さんだったんだ!」

「何の話だいオサムくーん?」

 適当な返事を返して、彼女はプリンを一口スプーンですくい口に運ぶ。厚めの唇が黄金色のプリンに触れ、するりと彼女の口へ消えてしまった。

 もちゃっもちゃっと咀嚼音が聞こえ、続けて幸せそうな呼吸が盛れる。

「んんぅー、美味しいっ」

「五木さん……」

「なぁんだいオサムくぅーん」

「五木さん……!」

「どうしたんだい、何かあったのかなオサム少年?」

「それ……」

「えー?」

「それ!」

「どれどれぇ?」

「プリン!」

 テレビの前に立ち、涙を我慢したオサムがプリンを指した。五木さんはテレビを見ようと伸びをする。

「プーリーンー!」

 オサムはテレビの電源を落としてさらに声を上げる。

「なんだいオサムくん、もしかして、お姉さんのプリンが食べたくなっちゃったのかな?」

「それ僕のプリンだもん!」

「えー? でも今はお姉さんのものだよ?」

「ちーがーうーのー! 僕のプリンなのー!」

 その場で地団駄を踏みつつ涙を零す少年を見て、五木さんはニヤリと笑った。

「もー、オサムくんは可愛いなぁ。仕方ないから一口分けてあげるよー」

「ぜーんーぶー! 全部僕のものなのぉー!」

「全部ぅ? もー、欲しがりなんだからぁー」

 五木さんはそう言ってら笑うと、プリンを一口スプーンにとってオサムの前に突き出した。

「ほら、あーん」

「……」

 オサムは解せない表情のまま固まる。目だけは抗議の色を示しているが、感情は抑えきれない。ポロポロと溢れる涙が、彼の悔しさを物語っていた。

「いらないのー?」

 五木さんはそう言うと、スプーンに乗ったプリンを自分の口に含ませる。そして、プリンを乗せた舌をべっと突き出して笑うのだ。

「うぅ……」

 オサムは悔しさのあまり声を漏らして泣いた。食べ物の恨みは恐ろしい。きっと末代まで祟られることだろう。

 と、おもいきや。

「んちゅっ」

 五木さんは体を乗り出し、オサムの口にプリンを流し込んだ。そう、舌の上に乗せたプリンをだ。

「んふぇ!?」

 思わず驚きの声を上げるオサム少年を見て、五木さんはニヤリと笑う。

「もしかして、ファーストキスだった?」

 オサムは顔を真っ赤にして口をパクパクさせる。その度にプリンの甘い香りと、カラメルの苦い味が脳を刺激する。

 五木さんはそっとオサムの頬に手を当てて、口を開けて笑う。

「もう一口、食べる?」

 五木さんの舌がチロリと顔を出し、ヌメっとした粘着質な唾液がオサムの心臓を高鳴らせた。

「い、いらない! いらないもん!」

 オサムはそう叫ぶと、慌てて五木さんを突き放す。

「もうプリンもいらない!」

 顔を真っ赤にして叫ぶオサムを見て、五木さんは愛おしそうに頬笑みを浮かべた。そして、下顎をかぱっと外す。擬態していた顔の形が崩れ、前髪の隙間から長い触覚が伸びる。隠していた鋭い二本の腕が姿を現し、いやらしい目付きでオサムを眺める五木さんを見て、オサムはドキドキとした心臓がよりいっそう高鳴り出した。

「オサムくん、物好きだよね。私の本当の姿見て、そんな嬉しそうにして」

「う、嬉しくないもん!」

 否定しようと必死な少年の頬を優しく撫でながら、五木さんは笑う。

「もっとお姉さんに素直になってくれてもいいんだぞぉ?」

「し、知らないっ!」

 オサムは五木さんをドンッと突き飛ばすと、ランドセルを抱えて自分の部屋に駆け込んで行ってしまった。

「あーあ、照れ屋さんなんだから……」

 ぽつんと一人取り残された五木さんは、残ったプリンを一口食べて微笑む。

「私も実は、ファーストキスなんだよねぇ……」

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