国境線のイエヴァ

すけいぷ傲徒

第1話

 昼餉ひるげも済んだ昼下がり。お陽さまはうんと高く輝いて、庭の花々に微笑みかける。チェリーセージ、ヤロウ、サルビアにシャクヤク、すらすらと手に取るように横切る花の名を頭に浮かべる事は、クルトにとって朝飯前だ。彼は庭園を突っ切って、奥っこの東屋ガゼボを目指す。

 昨日きのう本を置きっぱにしちゃったからね。クルトが五つの時、毎日庭へ飛び出しては日がな一日駆け回る彼の為に、お父さんが買い与えてくれた図鑑セット。の内、草花を記した一冊。彼の探検セットの一つだ。

 無骨な装丁のそれをひょいと引っ提げて、今度は自転車を取りに庭戸の方へ。旅のお供を揃えきり、浮つく気持ちが溢れるように彼はせわしなくいそむ。


「クルト!貴方今日もお出掛け?」


 厨房の庭見窓からお母さんが。クルトはちょっとぶっきらぼうに返す。


「うん!西の森に!」

「そう。分かったわ、あんまり森の奥には入っちゃ駄目よ。奥にある──「国境線には、悪い兵隊さんが居て、捕まったら食べられちゃうでしょ?何回も聞いてるんだから分かってますって。僕もう八歳だよ!六時には帰って来るからね。いってきまーす!」


 お母さんの行ってらっしゃいも半分に聞き、見向きせず手を降って、いそいそとペダルを漕ぎ出す。クルトの、エッケハルト家の邸宅は閑静な街外れの校外の、そのまた更に外れた場所にるものだから、庭戸を抜けて右、左、左、と抜ければ土瀝青アスファルトの道はすぐに土道に変わっていく。辺りには、去年の秋に播かれた小麦やライ麦なんかの畑が青々と群れて、人の気配は遠くにぽつんと見える赤レンガの屋根くらいだ。

 去年の誕生日プレゼントで、お父さんがくれた腕時計がちらちらと光る。分針は十分じゅっぷん程進んでいて、後もう三分で探検の始発点に到着だ。およそ定刻通りの時分、下り坂に差し掛かる。クルトにとって、ここをブレーキも掛けずに全速力で落ちるのが探検の楽しみの一つでもあった。普段誰も通らないので、ブレーキなんて掛けなくてもよいのだ。


 両手をブレーキハンドルから、ふわんと離す。途端に感じる、風のそよぎ、疾走感。移動遊園地の回転木馬メリーゴーランドなんて目じゃないくらいに飛び上がる心臓とスリル。整えたブロンド髪はくちゃくちゃになって、探検の始まりを彩り祝福してくれるような、心地よさが頬を撫で耳を過ぎていく。鞄の中身は何だっけ?二冊の図鑑、ルーペ、スケッチ手帳、マンゼル社のクッキー。ヨシ。

共に駆けるクロスバイクあいぼうは今朝フルチューン済み。ヨシ。

お陽さまは変わらず、僕を照らしてる。完ぺきだ!

 何もかも上手く行きそう!ぜったい、今日の探検も楽しいこといっぱいだ、そんな気がする!

 好奇心旺盛な八つの少年は、全身にわくわくを満たして森へと繰り出す。













 ───やべぇ。まよった。完全に。

ちょっとはお母さんの言いつけを気にして、まだ立ち入ったことのない森の奥。そこでぽつりと、ただ立ちつくす。言いわけする気じゃないけれど、キッカケはほんの出来心というか、好奇心だったんだよ。

 細い木々の多く生えた辺りで、菌環ようせいのわを見つけて、同定しようとはしゃいで居たんだ。そうしたらぐうぜん、アカリスが通りがかって。急いでおやつのクッキーで餌付けしたり、その後を追っかけて、ずんずんずんずん森に入っていたら、迷子になってしまった。気づかない内に時計はせかせか時を弾き飛ばして、もう五時に差し掛かろうとしている。いくら白夜の時期でも、夕飯までに帰らなきゃお母さんが心配しちゃうし、お陽さまが落ちてもぬぼーっと明るい森は不気味でキモチわるい。

 不安になる心にムチ打って、僕は思考を歩みはじめる。


「いつまでも考えてるだけじゃはじまらないや。……もと来た道をもどれば帰れるよね。」


 もと来た道なんて言っても、僕はずっとアカリスの背中しか見てなかったんだから、そんなのまったく自信はなかった。けれど、しょうが無いと腹をくくって、似たような木々の合間を切り開く。


 二匹目のアカリス、完ぺきなヒトヨタケ、ライチョウのつがい、うねうねした虚木うろぎ、陽だまり沢山のちょうど良いお昼寝スポット、虫いっぱいの倒木(キモチわるい!)、夏毛のキツネ、白樺林、またアカリス、倒木の橋が架かった小川と清水、群生した野生のスズラン、でっかいサルノコシカケ、アカリス再びリバイバル……。


 駄目だ、全然、全然知ってる場所にたどりつけないし、普段なら目を惹かれる探検の萌芽に対して、不安に駆られた胸の食指は動かない。こんなことになるなら、方位磁針コンパスを持つか、木にナイフで印をつけるか、お母さんが寝かしつけで読んでくれたメルヒェンの絵本みたく、クッキーをぽろぽろ落とすか……とに角、日ごろからなんらか、森を出るための目印を付けておけば良かったと、後悔しながらとぼとぼ歩く。



 このままずっと森から出られないのかも。なんて漠然としたきもちにそわつきながらも、少し背ぇ高の草本そうほんを掻き分けていたら急に視界が広がる。遮る木々を失って、お陽さまのない日光は一心に僕の目をさしてきた。だからちょっとまぶしい。

 どうやら森を抜けて、反対がわに出てきたみたい。やったぞ、いくら森と言っても大した大きさじゃないし、外周を迂回するくらいなら余裕だ。時計もなさけをくれたのか、五時半で僕を待ってくれている。

 これなら帰れると、きんちょうの糸がぷつんと切れ、それと同時に僕の探検心たんけんごごろをたぐり寄せた。ふと目の前の光景が僕を捕まえて離さない。


「もしかして……。これがお母さんの言っていた国境線?うわ、鉄線すっごくさびさびてる。」


 国境線には近づくな。コワい兵隊さんが居るぞ。そう言い聞かされたものだから、何となく僕はもっと、堅ろうで、お父さんのお仕事のつごうで住んでた、街の城へきみたいなものを想像していた。けれど、目の前のは等間隔に並んだ不揃いの丸太杭に、トゲの抜けた有シ鉄線を絡ませただけの粗末なものだった。

 手で掴んで揺すると、小気味わるくグワンと固い振動を返す。手が真っ茶々ちゃちゃになっちゃった。

 鉄線の中ほどに吊るされた古ぼけた警告看板には、

「      …告

こ…より先、西プラ…ヴァン。国境線を越…た者は、……と…して即刻…サツする。  東…ラフヴァン………」

と書いてある、のかな?大部分が擦り切れて塗装ごと剥げたり、むつかしい単語をつかっていたりして余り僕には分からなかった。


「なぁんだ。全然コワくなんかないじゃん。悪い兵隊さんなんていないし、こんなボロっちい柵なんか、ヨナスと言った肝試しの方が────


    ガサガサッ、ガササッ


 鉄線に遮られた草むら、その奥から、誰かが掻き分け迫る。乱暴に近づく草切くさぎれの音が大きくなって、僕の強がりは途端にちぢこまっていく。予想していない出来事に、え?!何!何!どうしえ、どうしよう!なんて僕の思考はスパゲティみたいになる。首筋から心臓までがきゅっと繋がって、喉の乾き、にじむ汗……おしっこ漏れそう!


「そう、に、逃げなきゃ!」


 必死になって逃げようと、無理やりにでも体を動かす。スパゲティになった頭でまともに動けるわけもなく、釣られて足もなんかこんがらがっちゃって、勢いよく転んだ。擦りむいたひざの痛みが、怯える心臓と一緒にジンジンする。目前の草が揺れた。近い、もう駄目だ。びくびく目を閉じて、半ズボンのスソを引っぱることしか僕に選択肢はなかった。


「わ!人だ!」


 僕の鼻先で草切れの音が足を止め、女の子の声が聞こえた。もっと予想していない事がおきちゃった。


「あなたどおして、そんなとこでひっ転がってるの?ねえねぇ。ここら辺に住んでるの?それともどこかとおいお家から、お出かけに来たの?迷子?」


 生まれたての子鹿同然の僕なんてお構いなしに、快活な声はせかせか質問を投げてくる。てっきりほんとに兵隊さんが来ると思ってたから、理由わけもわからないまま目を開ける。髪の毛のわけ目みたくクシャッとされた草本そうほんの合間から、確かに女の子が顔をのぞかせている。


「もしかして私のこと、熊か何かだと思ってた?ならごめんなさいね、驚かせちゃった。あたしイエヴァよ。あなたのお名前は?」

「あ、ううん。気にしないで、勝手に勘違いしたのは僕だし。……僕は、く、クルトって言うんだ。」


 目の前の子はイエヴァと名乗った。察しが良いのか、僕のひざのプルプルを見ぬいて謝ってまでくれる。なさけない話だけど、一歩も動かず倒れ込んだから、必然的にひょこんと顔を前のめらせる彼女と距離が近い。


「クルトっていうの、素敵なお名前ね!握手しようよ、これからよろしくの握手。」


 そう言って、彼女はにっこりとしてくれる。その顔がすごく可愛かった。

僕よりも薄みどりの白いブロンドがサラサラして眉毛とじゃれ合っている。

なみだ袋がしっかりしてて、ヘーゼル色のひとみがころころと、ビーだまを転がしたみたいに色を変えてきらめく。そのひとみが、なんだか、美しいとしか形容できなかったんだ。

 たぶん僕は今、一目ぼれってやつをしちゃったんだと思う。


「うん、よろしくね。僕ここら辺で近いんだ。君も近くに住んでるの?」

「ふへへ、握手ありがとうね。そう、この草原のちょっと先の、へインメクっておっきな街に住んでるんだ。外れにだけどね。パパが先生をしているのよ。あたしは時々、こっちにお散歩してるんだ。だって、パパもママも、女中のハンナお姉ちゃんも皆お仕事お仕事で構ってくれないんだもの。」


 彼女はお喋りが好きなのかな。まだ舌の足りない歯ぬけた声が明るく響く。グニャグニャの頭がほどけつつあったのに、今度はぽっと萌えているのをいやでも意識する。あんまり同い年の子と遊んだ経験がないから、余計にきんちょうしちゃう。


「そうだったんだね。僕も郊外に住んでて、遊べる同い年の子があんまり居ないから、おんなじ感じ。よく探検してるんだ。……でも、ここに来るのはあぶないんじゃあない?だってここ、国境線だよ?」


 今この場にいる僕が言えたことじゃ無いけど、実際あぶないのは事実だ。


「こっきょーせんってなあに?もしかして、ここの名前?あ!あなたの秘密基地なのかしら?だとしたらごめんなさい、あたし全然知らなかったの。だって、初めてここに辿り着いたんだもん。」

「え?……いや、別に、僕も初めて来たとこだし、僕の場所ってわけじゃないよ。そうじゃあなくって、──


   ザクッ、ザクッザザザッ


 クルトの声を遮る、踏み潰すような足の運び。先程イエヴァが切った草音よりも鋭く、明確な意思をもってその気配は彼らに近づく。


「おい!君達、そこで何をしているんだ!」


 ずいと近づくざわめきから、男の怒号が上がる。二度目の邂逅かいこう。思わずクルトはすくみ上がり、お母さんの言いつけを守っておけばと、後悔を抱く。

 今度こそ、少年の恐れていた事態が現実となってしまった。

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