バローク・サマナー・レコンキスタドールズ
方波見 咲
序、『黒き森、黒き海』・前編
祖国が『異海』に飲み込まれたあの日。
リーズリースが全てを失ったあの日。
◆
黒い海が、緑の草原を飲み込んでいく。
黒い波が、白い城壁を塗りつぶしていく。
黒い空にただ月だけが大きく、明るい。
その白い光の中で、『黒』が埃のように空へと舞い上がっていた。
「父上! 母上!」
地面にしがみつき、リーズリースは城へ叫んでいた。
雄壮だった騎士団の城。この地を守ってきた騎士たちの象徴。その全てが『黒』に飲み込まれようとしている。
「みんな! どこなの!? 返事をして!」
騎士たちの声はどこからも聞こえてこない。黒い海から流れ込む、生温い重たい風が、音までも押しつぶしてしまったようだった。
私も戦わなくては。
私は騎士の一族として生まれた。みんなを護る定めの下に生まれた召喚士の一人だ。いま、この力を振るわなくてどうするのだ。
それなのに、体が動こうとしない。
恐怖で体が凍り付き、ただ、黒い海の蹂躙を見つめることしかできない。
突如、空を漂っていた黒い埃の動きが止まり、それから地面に向かい、一斉に降り注いだ。リーズリースの視界の中で、埃の一粒一粒がどんどん大きくなっていく。
異影。
この世界を侵食する怪物たち。黒い異形の群れはリーズリースへと迫り……。
◆
客車の大きな揺れが、リーズリースをわずかな悪夢から現実へと引き戻した。
微睡みのまま窓の外を眺める。景色が、任務からの帰還途中であることを思い出させてくれた。
列車はまだ森林地帯を走行していた。
車窓から一望できる森。そこはかつて『黒き森』と呼ばれた場所だった。
陽光の下で見る木々は、名前とは違い鮮やかな緑だった。目を凝らせば鳥たちの戯れる姿を見ることができる。
そのわずか数キロ先を、黒い闇が覆っていた。
突如、断崖のように、立ちこめる積乱雲のように、黒が地平を覆い尽くし、世界を断ち切っていた。
『異海』。そう呼ばれていた。
当然、海などではなかった。だからといってあれが何か、答えられる者もいない。この世界の光が黒の中に届くことはなく、ただ禍々しい流れの蠢きを感じられるだけ。
故郷から遠く離れたこの場所でもあの黒い海は世界を侵蝕していた。穏やかに見えるこの森もまた、現世と異界との戦いの最前線、その一つだった。
景色を眺めていると前方に集落が現れ、列車は速度を落としていった。
中継駅の一つ。汽車の補給のための設備、そして精霊塔があるだけの小さな駅だ。
列車が停まると、リーズリースは座席から立ち上がり乗車口へ向かった。と、向かいの席で眠っていた召喚士が薄く目を開けた。
「……どこ行くわけ?」
「哨戒です」
リーズリースが短く答えると、召喚士は露骨に顔をしかめた。
「やめなさいよ。こっちの任務はとっくに終わったんだし、あとは何事もなく帰るだけなんだから」
「異影に備えるのは召喚士として当然の努めです」
「あのさあ。ここは他人の領地なんだから、あたしらには関係ないでしょうよ?」
「では、これは私の騎士としての役目です。あなたには関係ない」
「……ああ?」
「……うるさいぞ、二人とも」
召喚士が気色ばむと、通路の反対側に掛けていたもう一人の召喚士が目を閉じたまま言った。
「リーズリース、うちの愚妹は君のことを心配しているんだぞ」
「誰が愚妹だ。それから心配してないし」
「それと万が一、異影と交戦になったらどうするんだ。掩護するのは同じ師団の俺たちなんだぞ。召喚院に報告書も出さなきゃいけないし」
「掩護など必要ありません」
リーズリースは二人に言い残し、客車の扉を開けた。
「
掲げた右手から、黒い霧のような魔力が溢れ出した。黒い魔力は線路脇に立ちこめると、やがてその中から二体の眷属が顕在化した。
屈強な体躯の黒馬。それに跨がった黒い鎧の騎士。
この世ならざる存在であることは一見してわかる。その騎士には頭部が存在していなかった。
リーズリースの眷属、〈デュラハン〉と〈
「オスカー」
リーズリースの呼びかけに応じ、外で控えていた〈デュラハン〉は頷くように体を傾ける。リーズリースが黒い籠手に手を預けると、〈デュラハン〉はあたかも姫君を扱うように〈黒馬〉の背に引き上げた。
「行きなさい」
リーズリースが声を掛けると、〈デュラハン〉は〈黒馬〉を駆り、一気に崖を下っていった。
背後から、誰かが悪態をつくのが聞こえてきた。
少女は森を進む。
飾り気のない騎士風の帯剣姿。金色の長い髪が、ダークブルーのコートの上を踊る。青い瞳は油断なく周囲に向けられていたが、その面持ちはまだ幼さを隠せず、〈デュラハン〉に守られ〈黒馬〉を駆るその姿は騎士というよりも、騎士に抱かれる姫君のようだった。
リーズリース・ディ・グレンクラス。
十七歳。バローク召喚院の正召喚士。失地回復の尖兵の一人。
リーズリースは馬を進ませ、丘の上に出た。駅から見たとおり、森は穏やかだった。彼方に見える『異海』も今は小康状態を保っているように見える。
リーズリースの体から、黒い霧のような魔力が噴き出た。魂に宿した『門』を介して、眷属の世界と魔力場とを繋ぐ。
「〈
霧の中から〈大鴉〉が飛び出し、上空へと舞い上がった。
同時に、[感覚共有]によって〈大鴉〉の感覚が意識へ流れ込んでくる。〈大鴉〉の膨大な視覚情報に神経が痺れるが、リーズリースは表情を変えず、それを受け入れた。
〈大鴉〉は上空を旋回する。森の上から駅の上へ、そこからさらに森の奥へ。
線路沿いには整然と精霊塔が立ち並んでいるのが見える。この付近は精霊塔の結界に守られ、『異海』の活動は阻害されている。そのはずだ。
しかし、リーズリースから不安が消えることはなかった。
どうする?
もうすぐ列車の出発時刻だ。それに何かあったとしても、ここは他人の領地だ。自分には何の関わりあいもない。だが……。
「進みなさい、オスカー」
リーズリースは〈デュラハン〉に命じ、丘を下った。
木々の陰に入った瞬間、空気が重くなった。周囲に闇が降り、『異海』からの生温い風が糖蜜のように肌にまとわりつく。
二つの視界に変化が起きた。
〈大鴉〉の目が、森の一点で泡立つ「何か」を捉える。
同時に、リーズリースの周囲に影が噴き上がり、闇で覆い尽くした。
木々がざわめく。「何か」が風を切り、こちらに殺到してくる。
「オスカー! 取りなさい!」
リーズリースの差しだした剣を、物言わぬ〈デュラハン〉が一気に抜き払う。
「〈
襲撃の直前、リーズリースは召喚を完了していた。
闇を引き裂く白い光。媒介となった刀身に膨大な熱量が宿り、白熱の剣閃が森を光で満たす。
浮かび上がる無数の影。
それは一見コウモリのようにも、巨大な耳の生えた人間の頭のようにも見える。それは黒一色で、微細な特徴も、凹凸もはっきりしない。
異影。『異海』から発生する、正体不明の存在。
空中から、樹上から、茂みから、異影たちは一斉に襲いかかってきた。
「斬り捨てろ!」
〈デュラハン〉は大きく振りかぶり〈光剣〉を振るった。異影の群れは森ごと灼かれ、地面に墜ちる間もなく消失した。核を破壊され、顕在化が維持出来なくなったのだ。
森の中を疾駆しながら、リーズリースの眷属たちは異影どもを薙ぎ払っていった。
剣を振るい、腕で叩き落とし、〈黒馬〉が踏みつぶす。白と黒の荒れ狂う領域はリーズリースには指一本触れさせない。
だが、異影は森の闇から次々と飛び出してくる。
数が多い。それが意味するのはこの付近が『異海』の勢力下にあるということ。そして、このままを放っておけば、やがて『異海』は付近を侵蝕し、黒で埋め尽くしてしまうということ。
リーズリースは〈大鴉〉へ意識を向けた。
上空の〈大鴉〉にも異影の群れが襲いかかっていた。森から無数の影が立ち上り、それを振り払おうと〈大鴉〉は低空飛行に移り、木々の間で激しい機動を繰り返している。めまぐるしく変化する視界の中から、リーズリースは違和感の原因を見つけ出した。
森の一部に、ぽっかりと空間が広がっていた。
その中央には、木々に隠れるようにして、黒い泉が湧き出している。
ただの泉ではなかった。黒い水の中、「何か」が蠢いていた。孵化直前の卵を光で透かしたように、「何か」ゆっくりと脈動する。今相手にしている異影とは比べものにならないほど、巨大な「何か」。
「送還!」
リーズリースは〈大鴉〉の顕在化を解くと、〈デュラハン〉に告げた。
「駅へ戻ります! 急いで!」
リーズリースの命を受け、〈デュラハン〉は〈黒馬〉の鬣を掴み、馬首を返した。
◆
「精霊塔モジュール、異常なーし!」
准召喚士は精霊塔の窓から地上へと告げた。
駅舎の一角にある精霊塔は全長十メートルほど。石造りの飾り気のない建物だ。
これが近代召喚術の成果の一つ、精霊塔だった。
内部に設置された晶石から魔力場が発生し、『異海』の侵蝕を食い止め、さらには押し返すことができる。世界各地、あらゆる『異海』との最前線に建てられたこれらの塔は『
外壁の鉄梯子を下りてきた整備部の
「異常がなくてよかったよ」
「出発が遅れたら、また連中から何言われるかわからないからな」
準召喚士たち小声でぼやき合い。停車中の列車を一瞥した。あの中では召喚院の誇る精鋭、
「敵襲!」
声がした。見ると、先ほど出かけていった正召喚士が駆け戻ってくるところだった。
リーズリース正召喚士。亡国の姫君。傭兵部隊の狂戦士。
「特異体顕在! 交戦の用意を!」
「……何?」
「送還!」
準召喚士たちが呆気にとられている前で、彼女は騎上から飛び降りざま眷属たちを送還する。魔力の残滓である黒い霧を残し、彼女は貨車へと飛び移った。
彼女は積荷を覆っているカバーに手を掛けた。整備班が苦労して掛けた縄を乱雑に解いていく。
「おい! 何してる! もうすぐ発車時刻なんだぞ!」
「異影が現れます! すぐに退避を!」
「前兆なんてどこにもなかったぞ! 精霊塔の結界内に異体が湧くなんて……」
「死にたいのなら勝手にすればいい!」
リーズリースは高圧的に言い、カバーを剥ぎ取る。準召喚士は悲鳴を上げた。
「荷積みにどれだけ時間が掛かったと思ってるんだ! それが傷ついたら散々、文句言うくせに!」
カバーの下から、奇妙なオブジェが姿を見せた。
五メートルを超えるそれは、人型というには不完全だった。
太い胴体に比べ、腕は貧弱なまでに細長い。足はなく、三脚のような台座が構造を支えていた。
人形から、あらゆる表情を削ぎ落としたかのような造形。その表面には、頭部・胸部・腹部・右腕・左腕、それぞれに晶石が埋め込まれていた。
「構成を開始する! ドールから離れて!」
「こんな設備も何にもないとこで
文句を言い切る前に、リーズリースはオブジェの背面に回り込み、ハッチから内部に入り込んでいた。
直後、オブジェの各部位に設置されていた青い石が低く唸り始めた。内部導霊系が放つ微かな光が、装甲の隙間から見えた。やがて晶石の周囲に黒い霧のようなものが溢れ出した。
舌打ちをし、準召喚士は周囲に告げた。
「退避しろ! 《
黒い魔力の霧は、より暗く、オブジェ全体を覆い尽くしていく。耳鳴りのような圧力。みしり、みしり、貨車が軋む音が辺りに満ちる。
突然、列車の汽笛が雷のように鳴った。ついで誰かの叫び声が聞こえた。
「異影顕在! 方位北北西! 距離……!」
反射的にそちらを見た。
何もない。
そう思ったと同時に、それは森から空へと飛び出してきた。
巨大な竜だった。黒い一対の翼が、晴天に残った影のようにはっきりと見えた。あまりの巨大さに距離感が狂った。最初はゆっくりと動く小さな影が、瞬く間に加速し、景色を覆いつくす。
第一級異影、顕在化。
逃げることも忘れ、訓練で幾度も繰り返した台詞が頭に浮かんだ。
異影と自分を隔てるものは何もない。自分の命運は巨竜の前に無防備にさらけ出され、その巨大な爪によって断たれようと……。
頭上を閃光が突き抜けた。
世界中が光に包まれた。そう思えるほどの明るさだった。
光に内在した熱量が竜の胴体に突き刺さる。爆発。輻射熱が周囲を炙り、とっさに顔を覆う。視界が戻ったとき見えたのは、荒れ狂う炎に灼かれながら吹き飛ぶ巨竜の姿だった。
背後で何かが軋み、技師は反射的にそちらを見上げた。
巨大な騎士が立ち上がるところだった。
精霊塔をも超える、半人半馬の巨人。
黒い鎧は塔の円周よりも分厚く、屈強な四肢は貨車を軋ませるほどに力強く、こちらを覗き込む鴉の頭はこちらの体を飲み込むかのように大きく、そして、たった今、白閃を放った長大な剣から立ち上る熱が背景を揺らめかせる。
召喚機。
異形の騎士は貨車を踏みつぶしながら、異影の前に進み出た。
◆
世界の黎明より存在し続ける『異海』。
そして、そこから湧き出す正体不明の怪物、『異影』。
かつて、『異海』に抗う術を持たない人類は逃げ惑うしかなかった。侵食されていない土地を求め彷徨い、また人間同士の争いを繰り広げながら、いつ『異海』の奔流に襲われるか怯えながら生き延びていた。
だが百年前、転機が訪れた。
勢力の垣根を越え集結した召喚士たちの精鋭、『召喚院』。彼らが各地の召喚術を収集、発展、体系化した近代召喚術が、『異海』と戦うための力をもたらした。
召喚機。
眷属の力を書き換え、純化させ、構成し、一つの戦闘兵器とする。
『異海』から世界を取り戻すための戦い、レコンキスタの時代。
召喚機を駆り、異影を屠る力を持った人間たち。
選ばれし彼らのことを人々は召喚士と呼んだ。
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