3. 皇帝ニコライ
「一人では、眠れないの?」
気まずい雰囲気にいたたまれなくなったのか、最初に沈黙を破ったのは皇帝ニコライ様だった。
「あれはアレクセイ様のことです。お母様を恋しがって泣いていたので共寝を。ああでも言わないと、遠慮してしまいますから」
「アレクセイは母親似なんだな。素直で純粋だ」
「生き写しでいらっしゃいますね」
「君もアリシアのことを覚えているんだね?」
もちろん覚えている。最後に会ったとき、彼女はちょうど今のアレクセイ様と同じ年齢だった。流れるような銀髪に、海よりも深い青の瞳。白磁の肌は透き通って、華奢な体が妖精のように見えた。
ニコライ様が世界で唯一心から愛した女性。『真実の愛』を捧げた相手。
「懐かしいですわ。あれからもう二十年も過ぎてしまったなんて。アリシア様には、お変わりはありませんか?」
「ああ。
「まあ。にぎやかで素敵ですね。いつかお会いしたいわ」
アリシア様は私の二つ下だった。まだ二十代なのに、すでに五人のお子様に恵まれているのだ。西の大国の王家は安泰だと思われる。
「君はアレクセイの母代わりだ。すぐに会う機会があるよ」
そう言われても、子を産んだことがない私が母親の代わりになれるわけがない。
「そのことなのですが、私は侍女として出仕すると……」
「ああ。だが、実質的には母親の役目を担ってほしい。私は男だし、母性というものは与えられない」
「その役目は、皇后様にしていただくのがふさわしいと思いますわ」
私の言葉を聞いて、ニコライ様は少しだけ眉をひそめた。
「そう思って、君に結婚を申し込んだろう。なぜ断ったの?」
「没落貴族の身には、あまりに過ぎたお話でしたので」
「まだ、昔のことを怒ってるんだ?」
十年前、私は一方的に婚約を破棄をした。ニコライ様の女癖の悪さに愛想が尽きたという理由で。私という婚約者がありながら、数多の女性と浮名を流したどうしようもない男だと。
実際には、それは政治戦略の一部だった。彼が心に秘めた『真実の愛』を守るための。そうと知って誰が彼と結婚などできよう。婚約破棄は当然の成り行きだった。
「君が皇后になれば、この領地にも援助ができるんだよ。悪い話ではないと思うんだが……」
ニコライ様は頭を掻きならが、すねた子供ように口を尖らせた。その様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。
そんな私の笑顔を見て、ニコライ様はすぐに機嫌を直した。こういうところは昔とちっとも変わっていない。単純でバカな人。
「ゾフィー、今宵は共に過ごしてもらえる?」
突然の誘いに、私は身を固くした。動揺してはいけない。心を見透かされないように、私は声から感情を消した。
「私はお金で買われた使用人です。ご命令であれば、お役目を全うします」
「君は変わらないね。とても真面目で正直だ。そんな君を乱してみたい。そういう欲望を私に与えるところまでも」
ニコライ様は両手で私の頬を包むと、十年前に別れたときと同じように、まるで私を食べてしまいそうなキスをした。あの頃と変わらない熱が、私の体を痺れさせる。
それでも、私は力を振り絞って彼から身を離した。こんな口づけを受けてはいけない。
「やめてください。無意味ですわ。夜伽が必要ならご命令を。拒否権のない私ですから、好きになさればいい」
「ずいぶんと嫌われているように聞こえるね。だが、君の体はそうでもなさそうだ」
甘いキスで
その指から伝わる熱に翻弄され、息もとぎれとぎれになりながら、それでも私は彼をキッと睨みつけた。
「体は買えても、心までは奪えません。私は二度とあなたのものにはならない」
「そのようだね。では、体だけで満足するとしよう」
ニコライ様はため息をついて私から離れると、まるで舞台の役者のように声を張り上げて命令を下した。
「ゾフィー、お前に皇帝の伽を命ずる! 粗相のないように支度を整えて、寝室で私の来訪を待て」
「……心得ました」
そう言いながら、私は唇を噛んだ。『真実の愛』に敗れて舞い戻った私の元婚約者。その男に今夜また抱かれるかと思うと、体が自然と震えた。
私はもう、あの頃のように何も知らない小娘じゃない。ニコライ様には他に愛する人がいる。『真実の愛』以外は誰に対しても同じ。私が特別なわけじゃない。
それに気がづいたときから、私は彼に何も求めなくなった。望めなくなった。
私のことが好きだなんて、彼はひどい嘘をついた。それを本気にして、彼を愛してしまったのは私の失敗だ。最初から政略結婚だと、親に決められた婚約者だと言ってくれたほうがマシだった。それならきちんと割り切れた。期待なんてしなかった。
だから、その不実を理由に婚約を破棄した。ただそれだけのことだった。
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