第27話 作業と自省、と

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 朝だ。カーテンを開けっぱなしで寝るのはいい。学校に行くには早すぎるけど、早寝の生活にはちょうどいい。別に日の出と同時に起きるわけじゃないけど、日の光は深層意識まで覚ましてくれる気がする。

 自室を出て、隣の部屋を一瞥する。『お父さん』のいびきが聞こえてくる。


「遅くまでお疲れ様」


 こういう生活ができるのも、お父さんのおかげだ。

 会社員をしながら副業で喫茶店なんて、きっと人生を狂わせてしまっているんだろうな。小さい頃に、将来はミュージシャンになりたかったと聞いたことがある。夢破れて、という話を聞いたことがあるけど、僕の存在が夢への挑戦すら奪ってしまったのではないかと思うことが、最近になってから特に増えた。


「はぁ……」


 曜日感覚はないけど、同じ時間に起きるから関係ない。


 もはや、作業だ。

 そこに別段感情はない。


 昨日の晩に作ったみそ汁を冷蔵庫から取り出し、火にかける。冷凍ご飯を電子レンジに入れて、ボタンを押す。そのうちに顔をさっと洗い、さっと櫛で髪をとかす。


(人と話さないのに、なんで顔洗って髪をとかす必要があるんだろう)


 まあ、やって損はないし、損も僕だけが被ればいいものは無視でいい。


「まだ時間あるし、卵焼こう」


 空いたガスコンロの上に四角いフライパンを乗せ、上に油を引く。最近になってようやくフライパンを上手く触れるようになった。早起きは三文の徳ということわざがあるけど、いいことは結局朝の早い時間に集中することが多い。いつもの作業に、黄色いイレギュラーが混じる。


―――ジリリリリリリリ……。ジリリリリリリリ……。ジリリリ。


(今日はツーコール半か)


「んあ、おはよう洸太郎」


 目覚ましが止まってからしばらく経ち、リビングにお父さんが入ってきた。別に寝起きが悪いわけではなく、部屋が廊下を挟んで洗面所の向かいにあるため、そこで身支度をしてからやってくるのだ。


「おはよう、お父さん」


「……休みの日までそんなのしなくていいから」


「休みの日? ああ、そうだっけ」


 もはや最近は週休七日だったから考えてなかった。昨日の反応から鑑みると、今日は土曜日らしい。部屋に飾っている時計は九時を指しているけど、カレンダーは画角的に九月の文字しか見えない。


「いただきます」


 お父さんの寝起きが早いと、準備も片付けもしてくれるから楽ができる。でも休みの日くらいゆっくりしてほしいものだ。


「……昨日も学校行かなかったのか?」


「うん。そんな気分になれなくて」


「そうか」


 前に同じようなことになった時は、ほとんど家では一人だった。でもあれ以来、お父さんは極力早めに家に帰ってきてくれるようになった。流石に無理な時は庵治さんが来てくれるし、なんならそっちの方が多いかもしれないけど。


「……あれ、なんで目覚まし掛けてたの?」


「え?」


「だって今日休みの日なんでしょ?」


「ああ、今日は朝から待ち合わせがあるんだ」


「ふーん……」


「なんだその目は」


「ふふっ」


 実は最近、お父さんにはいい感じの人がいるらしい。来月に三十代の大台に乗るお父さんだけど、今年に入ってからその人と連絡を取る頻度が増えたらしい。ずれた黒縁眼鏡を人差し指で整えるお父さんも、今年になってかなりイメチェンをした。僕もしれっとそれに合わせて髪型を変えたり服を変えたりしてるけど、服に関しては外に出る時でさえいつものしか着ないから変わってないようなものだ。


「いや、安心してるよ。僕のせいでつらい思いさせてるだろうし、思い切り羽伸ばしてきてよ」


「洸太郎……」


「あ、でも晩御飯がいるかどうかの連絡はしてよ?」


「……わかったよ。ごめんな」


「ううん。こっちこそ。ごちそうさま」


 逃げるようにキッチンに皿を運び、水を張る。その皿を隅に寄せ、炊飯窯の中でお米を研ぐ。


「そうだ、洸太郎。話しておかないといけないことがあるんだ」


「何?」


 窯を炊飯器にセットする片手間に聞き返す。


「お店の件だけど、俺は店長の職から退くことにした」


「……え?」


 炊飯開始のボタンを押す指が止まる。


「なんで?」


「オーナーの安住あずみが今年限りで海外に行かないといけなくなったから、店舗の仕組みを変えるらしい。それで、俺がオーナーになるというか、そういう雑務をやることになったんだ」


「安住さんやり手なんだね。一回会ってみたいな」


「で、庵治を店長に昇格する」


「庵治さんが?」


 さすがに予想できたことだけど、なかなか実感が湧かない。


「経営方針とか、メニューとか、その辺りは全部投げる。で、めんどくさいこととか、企業的なことは俺がやるって感じだ。ま、うち企業じゃないけど」


「小さくても企業でしょ? 最近正社員の人もシフト入ってるらしいし」


「ま、そこまで増やすつもりはないさ。アルバイトだけでも、近くの大学生で毎年供給されるからな。結局今のままだよ、大体は」


 ごちそうさま、と皿をこちらに持ってきたお父さんは、自室に戻りがてら炊飯器のスイッチを押していった。



*****



「さて」


 お父さんを見送り、ご飯をお供えした。ここからは暇だ。


(……テレビ見よ)


 ポチポチとチャンネルを切り替える。


『僕たちが音楽を作る意味って、きっと特にないと思うんですよ。聞く人がそれぞれの意味を作るようなもので。だって人にとって受け取り方って違』


―――ピッ。


『九月に入って二週間が経過しましたが、まだまだ残暑が続きそうです。太平洋では台風も発生する見込みで、来週の週明けには列島に近づく可能』


―――ピッ。


『だからそこなんですよ。悲劇はドラマになることはあると思いますが、ドラマを作るために悲劇が存在するわけじゃないと思うんですよ。私はそ』


―――ピッ。


「……はぁ」


 それと、庵治さんに持ってきてもらった宿題も、そろそろやらないとな。


 ……学校に行くのか。あの声が聞こえるのに。


 行かないと宿題をやる意味がないだろうに。


 みんなが向けてくる目線が怖い。誰とも目を合わせられない。

 お父さんにすら、目を合わせられない日が続いているのに。


「はぁ……」


 スマホを見る。不登校に戻った瞬間にメッセージの通知を消したから、アイコンの右上に乗った赤い三桁の数字がブラックボックスに入っている状態だけど、開く気にもなれない。嫌な内容を送ってくるような人のアカウントは前に全部消した。でも消したつもりになってるだけで、まだ残っているかもしれない。

 顔を思い浮かべるだけで涙が出てくる。すがりたいのか、恐れているのか、自分でもわからない。少なくともこんな自分を見ていい思いはしていないだろう。仮にまだ僕に期待してくれているのだとしても、数秒後に知らないところで見限っているかもしれない。


「なんか、これもいいや」


 思えばなんで競馬の番組なんか見てるんだろう。公営ギャンブルは解禁されてからもやるつもりはないのに。

 動物が見たかったから? 愛玩の目で一挙手一投足を不特定多数の人間に見られる動物の気持ちを考えるようになってから、動画サイトでもそういう動画は見なくなってしまった。以前はあれほど、話題を探すために見ていたのに。結局は僕にはそういう趣味がなかっただけなのだ。一瞬出てきた黒い影を振り払うように別の理由を探す。


 ……いや、ただBGMとして聞きたかっただけだ。


 考えるのと、電気代の無駄だ。


「掃除でもするか」


 立ち上がって押入れの入り口から掃除機を取り出す。


「あ、スリッパ」


 スイッチを半押ししたところでスリッパを履き忘れていることに気づく。


「スリッパスリッパスリッパー」


 即興でつけたメロディーをつぶやきながら自室に取りに戻り、デスクの下に投げ出したスリッパを拾おうと足を遊ばせる。


「……今日はなかなか見つからないな」


 なんとなく部屋の中を見る。三畳ほどの部屋だけど、僕にとっては秘密基地みたいな場所だった。机とタンスの上、さらには机の横に置いてあるゲーム機まで、たった数週間遊んでいないだけで埃が被っていた。

 家にいる暇な時間で大掃除をしてしまったけど、それでもあのギターは処分できなかった。中学校に上がってから一度も弾いていなかったのに、もはやインテリアの一種として置いているだけのギターは、なぜか埃一つ被っていないのだ。


「はぁ……」


 ため息をつくと幸せが逃げていくという話があるけど、じゃあ安堵の息をつくときにも逃げていってしまうのか。一生安心しない、緊張した日々を送り続けたら幸せがやってくるのか。仮に何かやってきたとして、それを幸せと呼べるのか。そもそも幸せって何だ。


 僕は生きているだけで幸せだなんて思ったことはない。

 生きること自体、もはや作業だからだ。

 そんなことを考えるようになり、何もせずに一時間が過ぎるようになってから、もう何週間経ったんだろう。


―――ピンポーン。


「……」


 家にはまだ誰も入ってきていないのに、不法侵入者と相対したかのように息をひそめる。もしかしたら留守だと思ってもらえるかもしれない。今日は何も宅配を頼んでいないはずだし、お父さんが帰ってくる前の連絡は最近電話に変えてもらった。それがかかってきてないなら忘れ物じゃないはず……。


(……あ、スマホソファーに置いてきちゃった)


―――ピンポーン。


(今は……十一時か。もう起きてから五時間経ったんだ)


 机の上に置かれたデジタル時計には、たくさん並ぶ一の中に三十一秒が紛れていた。ゾロ目とかキリのいい数字とかを見たい気持ちは、それが見れなかった後の数十秒だけ起こるものだ。運がなかったな、次見る時は運が良くなってるかな、って。


―――ピンポーン。


「はぁ……」


 出るしかないか。

 どういうわけか僕の住むマンションは玄関口に対応するインターホンとドアの真横に設置してあるインターホンの二種類がある。でも、うちの部屋のインターホンはカメラがついておらず、誰が来たかはドアを開けるまでわからない。一応ドアから外の様子を覗くことができるらしいけど、やってみたところで見えるものは暗闇だった。

 玄関まで掃除機片手にやってきた僕は外の様子を伺う。ドアの奥では物音はしない。


(まあ、でも一度見てみる価値はあるか……)


 念のためドアにつけられた、小さな窓を覗く。


「うーん……やっぱり見えない」


 少し身を引いて、閉めたままのドアを見る。

 この奥に誰がいるのか。というか、誰かいるのか?

 玄関に通じる廊下に出てから、周期的に繰り返されるインターホンは止まった。僕がドアの前にいることに気づいて鳴らすのをやめたのか、はたまた来ないと諦めて帰ったのか。

 できれば後者であって欲しい。今しか楽にならないのは知ってるけど、それでも。


(……)


 心臓の音が、この空間で最も大きく鳴っている。


「もう少し待つか」


 シュレディンガーの猫という話を聞いたことがある。蓋を開けるまで猫が生きているかどうかわからない、という話だった。

 ……あれ。だとすると開けて猫がいることは決まってるのか。


 誰が、いるんだろう。

 庵治さんかな。いや、休日は来なかったはず。

 泰河かな。いや、多分違う。違っていてほしい。

 藍野さんかな。いや、違う。そもそもこの家を知らないはず。

 吉村さんかな。いや、きっと違う。多分僕のことを大いに失望しているから。

 大間さんかな。いや、絶対違う。もう大間さんには、嫌われてしまったから。

 

 その他にもいくつか顔を思い浮かべた。

 でも、どの顔もこのドアを開けた先にいるとは思わなかった。

 中にはいなくなってほしい顔もあった。でも、そんなことを思うほどに僕の心は荒みきってしまったことを裏付ける感情でもあり、向き合わなければならない現実だった。


 誰が、僕を要るんだろう。


 そんなことを考えているうちに、リビングの壁掛け時計から十二時になったことを知らせるメロデイーがかすかに聞こえてきた。


(……もういないだろうな。掃除機掛けないといけないし、確認だけしてから戻ろう)


 大きく深呼吸をして立ち上がり、もう一度深呼吸をする。別に苦しくも無いのに胸を押さえてみる。

 そして、その手をドアノブに伸ばし、ゆっくり右にひねった。


―――ガチャ。


「……まあ、わかってたよ」


(これでよかったんだ)


 僕は伽藍洞なマンションの廊下と、その奥に広がる街の風景を一瞥し、大きく息を吐いてドアに鍵をかけた。


「さーて、掃除しなきゃな」


 スリッパに履き替えて掃除機を持ち、トリガーを握った。

 早速、廊下の隅に転がっている髪の毛を見つけ、最初の標的に向けてスイッチを押す。


―――ウィーーーン………………。


 さみしさと安心は僕の心の中で相席している。

 なんだ、別に不幸でもないじゃないか。


―――ピンポーン。


「……え?」


 部屋の奥の方でインターホンが鳴ったような気がした。

 まさか掃除機と連動でもしているのだろうか。


―――ピンポーン。


 スイッチを切った後の、胸を締め付けるような静寂に、今度は確かにインターホンの音が響いた。

 さっきと違う人なわけがない。引き返してきたのだろうか。


「……」


 僕は人と会えるのだろうか。

 ゴミ出しの日も、皆が寝静まった夜中や早朝に出すようにしている僕が。

 買い物も、遅刻して学校に行く人と鉢合わせないように、なるべく弁当や昼休憩の時間に行っている僕が。

 何かを届けてもらう時に、玄関先で受け取るだけ受け取って、その人を家にも上げずに半ば締め出すように、さよならも言わずに、黙って、ドアを閉めている、僕、が。


 最低だ。


―――ピンポーン。


 また鳴ってしまった。まるで僕の考えを全て肯定するように。

 こんなにしつこいのは珍しい。庵治さんはこういうことをしなかった。

 いや、いらいらして押すようになっているのかもしれない。


(……とりあえず、出るしかないか)


 強盗などの可能性を考えて、リビングに戻って掃除機とスマホを持ち替える。いつでも警察に連絡できるように、番号だけ先に入力しておく。


「……」


 荒くなった鼻息に嫌悪感を抱き、落ち着く気配のない僕はドアノブを握った。


―――ガチャ。


(なんだ、誰もいな……)


「……あ」


「……えっと…………久し、ぶり………………」


 玄関先には、『一生友達宣言』をした人が、スマホから顔を上げてこちらを見ていた。

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