第19話 崩壊1

ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。


「はいそこまで。後ろから答案を回して……こら、回収終わるまでは喋らない。不正行為にするよ」


 それでもざわつく教室は、少し後に社会の老年教師が廊下にある窓から中の様子を覗いたのに気づいた生徒から徐々に静まりを取り戻していった。


「今日はこのまま終わりにします」


 担任の先生はそう言って教室を後にした。その背中が少し伸びていたように見えたけど、とても短い夏休みにしっかり休めたのだろう。少なくとも、始業式から数日経った今日でも、それほど疲れは見えていない。


「島……こたろー、この後ちょっといい?」


 朝は会釈したものの、僕がテスト勉強に集中していたのと席に着くや否や大間さんが寝てしまったため、今日最初の会話だ。


「うん、いいよ。朝はごめんね」


「なんで? 勉強してたんでしょ?」


「そうだけど」


「どうだった?」


「まあまあかな。大間さんは?」


「社会ないし、気が楽」


「だったらよかった」


 僕は自分のことのように安心する。


「……」


 大間さんは何とも言えないような表情でこちらを見ている。


「ど、どうしたの?」


「え、ううん。何でもない。行こう」


「わ、わかっ


「……ぷっ、わかっなら行くよ」


「ちょ、ちょっと!」


 大間さんは小走りで教室を出て行ってしまったので、僕は急いで荷物をまとめて追いかける。校門を出るところで追いつき、慌てて右に曲がる。


 大間真心さん。取り付く島がないような眠り姫だと思われていた彼女は、夏休みに入る前から徐々にその雰囲気を変えつつある。新学期からは机に突っ伏して寝ることはほぼなく、その対価として出来た時間に話しかける人は増えた。ただ、それでも大体人との会話は数ラリーで終わるのはらしいと言えばらしい。特に新学期は皆勉強に身が入っていないのか、それとも久しぶりの再会に心を躍らせているのか、五分休みの間も廊下や教室は賑わいを見せる。

 その分、僕と話す時間が減ったのかといえば、そうではない。むしろ向き合う時間は増えた。そのほとんどを予行演習の時間に費やしているのが現状だ。起こす以外の会話に頭を悩ませる僕と、学校で話す話題を探す大間さんとチラチラ見合い、結局話さないというくだりが一般化しつつある。


「大間さん、くろころ元気?」


「うん、多分ね」


 そんな二人の間にある『くろころ』という秘密の話題は、学校で話せない分帰り道でその力を発揮する。


「多分?」


「うん、でもくろころも離れつつあるのかも」


「離れつつあるって、親離れ?」


「くろころの親は別にいるでしょ。別に私たちが親なわけじゃない」


「そ、そうだね……ごめん」


「別にいいけど。夏休みだったし、全然行けてなくて。たまに行った時に会えるのを期待してるんだけど、それでも会えない日もあるんだ」


「僕も夏休み前以来だからなぁ。それに、前メッセージ送ったけど、終業式の時も会えなかったからさ」


「でも、それを邪魔するのはだめ。独り立ちの時期なのかも」


 大間さんはいつもの横断歩道を、少しだけ歩くスピードを上げて渡っていく。



 反面、僕はいつも通りではない遭遇に思わず足を止める。


(隣の校区だから顔を合わせる可能性は考えてたけど、このタイミングか)


「あれ、洸太郎じゃーん」レアキャラじゃん。


 別の制服―――学ラン姿の男子が三人、狭い道の行く手を塞ぐように止まった。


「ひ、久しぶり」


「元気してる?」普通に歩いてるけど。


 茶髪混じりの天然パーマが掌をこちらに向ける。


「それなりに」


「そ。さっきの子は?」なんでお前といるの?


「同じ中学校の友達」


(まただ)


「へー、いいじゃん」明るそうな子だけど、釣り合ってないなー。


 顔色一つ変えずに大間さんの方を向けた顔をこちらに戻す。


「あの子、仲いいの?」お前が?


「それなりに」


(また聞こえる)


「それしか言わないじゃん」まあ、別にどうでもいいけど。


「そ、そっちはどう?」


「まあ、」へっ。


 やけに強調した言い方で僕の問いに答える。


「じゃ、邪魔しちゃ悪いから」調子に乗んなよ。


(……)


 二人で並んで歩くのがちょうどいい歩道を、肩で風を切るように天然パーマが僕の横を通り過ぎる。その後ろのスポーツ刈りの眼鏡と背の小さい男子が、一列になる様子もなく、僕にぶつかりながら通り過ぎていった。


(……わかってるよ)


 わかってる。僕は、こういうことをするのに向いてない。人とこうやってかかわっても、どこかで迷惑をかけて、失望されるんだ。

 海に行った時だった。そのことを痛感、実感、悲観したのは。

 あんな青春みたいな、夢みたいな、幻想みたいな経験。僕がするはずじゃなかっただろう。ああやって皆は何かを僕に期待している。他でもない、僕があそこにいていい理由を、僕はその期待を背負って一人、考える夜があの日から増えた。

 僕は、もう壊れてしまってるんだ。もうそういう目を向けられるのが怖い。いや、悪意も善意も関係ない。ただ、視線が怖いんだ。


「こたろー? どうしたの?」


 公園からこちらを呼ぶ声が聞こえ、僕は外の世界に興味を取り戻した。あいつらに聞こえていないかどうか気になって後ろを見たが、こちらを気にする様子もなくずかずかと遠くを歩いていた。でも、どうしても気になってしまい、小走りで横断歩道を渡って公園に入った。


「ごめんごめん、ちょっとか、顔見知りがいたから」


「顔見知り? あ、同じ小学校の?」


「ま、まあ、そんな感じ」


「へー。嫌な人?」


「え?」


 大間さんらしい、直球な物言いだ。


「だって、辛そうにしてるから」


「(そう見え……)気のせいじゃない?」


 出かけた言葉を飲み込み、平然を取り繕う。

 大間さんに知られたくないから?

 それとも自分が思い出したくないから?

 その両方かもしれないし、どっちも違うかもしれない。

 でもそれを考えることすら嫌なのに、ずっと頭の中に張り付いている。


「じゃあ、聞かない」


「……うん、そうして欲しい」いつか話すから。


 僕は心の中で、大間さんになるべく誠実さが伝わるように、暗黙の言葉を紡いだ。僕にしか聞こえないあの声は、きっと誰にも届かないけど。

 それでも、大間さんには、大間さんだけには届いてほしい。

 僕を、見捨てないで欲しい。

 そんな淡い願いも込めて、僕は何度も繰り返して念じ、辺りを見渡す。


「あれ、くろころは?」


「いるよ。ほら」


 ベンチに座る大間さんのスカートの上に、くろころがちょこんと座っていた。


「気づかなかった。同化しすぎじゃない?」


「そうかな?」


「うん……あ、目がこっち向いてないからかも」


「あー、そっか。隣、ほら」


 大間さんがポンポンとベンチの右隣を叩く。


「じゃあ、失礼します」


 僕が座ると、その気配を察知したのか、くろころが大間さんの膝の上で起き上がり、こちらの膝の上に乗ってきた。


「あ、盗られた」


「……ふふっ、くろころ、僕のこと覚えてる?」


 背中を撫でられたくろころは、少し間を空けてにゃあと鳴いた。


「本当に、こたろーでよかった」


「え?」


「私が初めて、こういう話をするのが。他の誰かにも話せたかもしれないし、受け入れてもらえたかもしれないけど、こたろーほど仲良くならなかったかも」


「それは僕も驚いてるよ」


(くろころ、なんで僕にこんなに懐くんだろう)


「意外だった?」


「うん」


「……そっか」


 大間さんは僕の肩に自分の肩を寄せ、頭を乗せる。ふわっとシャンプーの匂いがこちらに漂ってくる。大間さんと過ごす機会が増えすぎたため、最近はドキドキというより落ち着きが先に来る。でも今日は、なぜか体の芯が細かく震える感じがした。


「くろころって、初めからこんなに人懐っこかったの?」


「そうでもなかったよ。他の人が話しかけてるのも見たことがあったけど、全然ダメだったみたい。私は、三日ぐらい続けて通ったら仲良くなったけど」


「え、じゃあ僕が一日で懐かれたのって結構すごい?」


「うん、嫉妬しちゃう」


 大間さんは頭をぐりぐり肩の上で動かす。大間さんの体温が写ってきてるのか、僕の体温が上がっているのかわからないけど、少なくとも残暑以上の暑さを感じていた。


(かわいい……)


「くろころはね、初めて会った時は毛並みもそんなにそろってなかったんだ。本当に野良猫って感じで。でもたまにブラシをかけてあげたらきれいになって、それからくろころも気にし始めたみたい」


 大間さんは、僕の膝の上で毛づくろいを始めたくろころを覗き込むように、僕の肩から顔を前に持っていく。


「ねー?」


 にゃあ、とくろころが間髪入れず―――というより大間さんの言葉に被せるように鳴く。


「まあ、くろころもずっとここにいるわけじゃないと思う。いつか別れが来るかもだけど、それまでは仲良くしたいな」


「(……うちで飼えたらなぁ)」


「ん? なんか言った?」


「え、ごめん、独り言漏れてた?」


「独り言は発するものじゃない?」


「あ、それもそうか、じゃあ心の声かも。うちで飼えたらって思って」


「え、飼えるの?」


 大間さんが至近距離のままこちらを向く。背筋が伸ばして自然と距離を取る。


「いや、飼えないけど」


「……そっかぁ」


 一瞬期待で目を輝かせた大間さんの目がすぐに曇り始める。


「ごめん、うちの母が動物苦手だったらしいから」


「お母さん? アレルギーなの?」


「ううん、普通に苦手っていうだけ。匂いが無理なんだって」


「そうなんだ。じゃあ動物園とか行ったことないのかな」


「うん。僕も行ったことない」


「そうなんだ。楽しいよ、動物園……」


 大間さんは複雑な感情を隠すように、元の体勢に戻ったように見えた。


「……大間さん」


 初対面の時より気まずい沈黙に耐え切れず、僕は大間さんの名前を呼んでしまった。


「こたろーは優しいから、私の話を聞いてくれるって言ってくれた。でも、私もこたろーほど優しくはないけど、話は聞きたいって思ってるから。聞いてほしいなら言ってよ」


 大間さんは立ち上がり、僕の前にしゃがむ。そして、くろころの頭を撫で、そのままその手を僕の膝に持っていった。


「今日は、帰る」


「……うん」


 絶対、怒らせてしまった。


 自分の発言を顧みると、その理由は嫌になるほどわかった。僕は自分のことを隠そうと取り繕いながらも、その言葉の節々に聞いてほしいという気持ちを勝手に含ませてしまっていた。気にしないようにしていたのに、最近はどうしても思考がブレる。救われるべきじゃないのに、救われたいなんて思ってしまったんだ、僕は。


 大間さんが出口に向かっていく。


 大間さんの顔だけじゃなく、他の人の顔も勝手に脳内にふっと湧きあがってきては消えていく。目の前が、だんだんぐらついてくる。


 僕は何も考えられず、くろころに手を振って追いかけた。

 これまでは大間さんが満足いくまで僕が待ち、一緒に帰るのが習慣だった。

 大間さんが自分から公園を出たのは、あの雨の日を除いて初めてだった。

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