まごころの在り処

時津彼方

第1部

第1章

第1話 春風と黒猫

 ―――授業中。


 教師の話声、ページをめくる音、新品のシャープペンシルのノック音。

 体育終わりの生徒の話声が廊下に響き、何人かがノートや黒板から壁掛け時計に視線を移す。

 音に影響され、せわしなく意識が交錯する。

 僕もその一人だったけど、僕の視線は隣の席に釘付けだ。


「…………すぅ」


 隣の席から穏やかな春風のような音が聞こえる。


「………………すぅ」


 その微かな音は、僕の意識を盗むには十分だった。


―――キーンコーン……カーンコーン……。


「……」


 もそっ、という音が聞こえたような気がした。


「…………島野くん。授業は?」


 潤んだ瞳が揺れながら僕に投げかけられた。


「もう終わったよ」


「……そっか」


 大間さんは前に向きなおって、小さくつぶやく。


「あーあ、もう終わりかぁ。早いなぁ……」


 僕は、大間さんが何を考えているのか、全くわからない。元々、人の気持ちを考えるのは苦手な方だけど、大間さんは特にわからない。 

 大間さんとは、席替えをした日―――おおよそ二週間前に初めて話した。話したというよりは、声をかけた、が正しいかもしれない。授業中に爆睡するのはわりと皆することだけど、授業の間の休憩時間も構わず寝っぱなしなのは大間さんだけで、席替えをする前から気になってた。席替え後もそれが変わらず、別にクラスで話す人もいなかったこともあって、事あるごとに声をかけている。

 初めは無反応だったけど、最近は少しだけ会話が続くようになった。それでもワンラリーで終わってしまうけど。いつもぼやぁっとどこかを見つめては、その正体をつかむ前に顔を伏せてしまう。

 そんなことが、かれこれ二週間ほど続いて今に至る。


「……あの」


 ノートをしまう手を止めて、耳を傾ける。


「どうしたの?」


「このあと、時間ある?」


「……あるけど」


 空っぽのはずのスケジュール帳を頭の中でめくり、投げ捨てる。


「じゃあ、放課後下駄箱前で」


「……え?」


 言葉の意味を何度も咀嚼する僕をよそに、大間さんはお弁当を広げて黙々とご飯を食べ始めた。

 これまでも多少は会話はしていた。でもそれはほとんど授業の合間の確認作業のようなものだった。ましてや放課後に呼び出されるなんて。


(でも、別に隣の席なんだし、一緒に下駄箱まで行けばいいんじゃないのかな。他クラスじゃあるまいし。それとも、一緒に行くのが嫌なのかな。まあ、もしかしたら茶化すような人もいるかもしれないし。なんか当たってそうで、怖い)


 僕は色々諦めて弁当を開けて、白米をすくう。


―――ピーンポーンパーンポーーン……。


『生徒の皆さんに連絡します。本日、午後に予測される大雨の影響で午後は休校となります。天気が悪くなる前に、帰宅しましょう』


 それを口に運ぼうとしたところで流れた校内放送に、周りから歓声が上がる。確かに昨日のホームルームで、そんなこと言ってたような気がする。


(……あれ、じゃあもしかしてさっきのって)


「島野くん」


「ハ、はい」


 変に声が裏返ってしまった。


「ごはん、食べ終わったら来てね」


 大間さんはこちらをほとんど見ずに、カバンを背負って僕の隣を離れた。

 僕は慌てて、時々喉に詰まらせながらも、何とか弁当を完食する。


「こーた、今日の夜空いてるか? いつもの、しようぜー」


 廊下に出たところ、隣のクラスの友人に声をかけられて急く足を止めた。こーた、というのは僕に対する呼び名で、いつもの、というのはオンラインゲームのことだ。


「ああ、多分いける」


「おっけー、また連絡してくれー」


 おう、とほぼ独り言のようにつぶやいて、僕は小走りで階段を下る。


 中学二年生になって早数週間、中学校から同じ校舎に通い出し、この四月から同じ教室に席を並べるようになった大間さんのことを、僕はまだ何も知らない。

 逆に、向こうは僕のことをどう思ってるんだろう。昨日までは授業の後に、チャイムが鳴ったかどうかの確認をするだけの、よくわからない関係だったけど。

 その解像度が、今日ほんの少しビビットになるのかもしれない。


「あ、島野くん。早かったね」


 昇降口に着くと、大間さんはまさに、僕の下駄箱の前で待っていた。

 僕がそこに向かって歩き出すと、大間さんはおもむろに僕の下駄箱を開けて、スニーカーを取り出して床に置いた。


「はい」


「……え、ありがとう」


「……行こ」


 大間さんは僕をよそに歩き出してしまった。


(わざわざ靴出してくれるなんて、一体何されるんだろう……)


 小学校五年生ごろに国語の教科書で読んだ、ある物語を想像しながら、僕はかかとを潰して靴を履いて大間さんの背中を追った。



*****



「……」


(気まずい……にしても、どこまで行くんだろう)


 かれこれ十分ほど、僕にとっては帰路とは間反対の方に歩いているけど、大間さんは一度もこちらに目を向けることなく歩き続けている。頭一つ分ないぐらいの身長差で揺れる肩口にかかった黒髪は、湿気にやられることもなくふわふわと揺れている。肩に少しチョークの粉がついているのは、今日の授業中に、問題の答えを黒板に書きに行ったからだろう。

 ……もちろん、っていうのはよくないけど、大間さんはその時も寝ていた。教卓から怒号を飛ばす教師の勢いに圧倒され、慌てて、半ば無理やり大間さんを起こした。その後にスタスタ黒板の元に行き、サクッと計算を終わらせた姿は少しかっこよかった。その後は懲りずに机に突っ伏したのには、先生は呆れてものも言えていなかった。


(授業中あんな感じなのに、結構賢いんだよなぁ)


 頭の片隅でそんなことを考えながら歩いていると、おもむろに足を止めた大間さんにぶつかりそうになる。


「あ、ごめっ」


「いた」


(やばっ、どこかケガしたんじゃ)


「くろころー」


 大間さんは焦るこちらをよそに、横断歩道を渡って公園の中に入っていった。浅めの深呼吸をしてから後に続いて入ると、黒猫が奥で鎮座しているのが見えた。招き猫の様に、こちらを引き寄せているような……。

 大間さんはカバンから袋とお椀を取り出し、お椀に袋からばらばらと、茶色の粒を流し入れた。黒猫はそれをなめるように確かめてから、口に含む。


「キャットフード?」


「うん。うちの猫の分、取ってきた」


「へぇー、猫、飼ってるんだ」


「……」


 大間さんはしゃがんで、猫との空間に入り込んでしまったようだ。


(癒されてる、のかな)


 僕は丸まった背中を眺め、教室で寝ている時の姿と重ねて見てしまう。歩くときは背筋がピンと伸びていたことを鑑みると、メリハリはきちんとつけられる人なのかもしれない。いや、そんな人が授業中に寝ないか。


「……」


「……」


 何分経っただろう。目の前で繰り広げられる大間さんと猫のじゃれ合いは終わる気配がない。


(僕は何役なの? まさか、僕にも猫のことを知ってほしかっただけ、とか。いや、そんなことはないと思う。第一、大事な場所に自分以外を入れたいと思わないだろうし……)


「島野くん」


 ようやく大間さんはこちらを振り返り、手招きする。僕は意を決して隣にしゃがむ。


「かわいいよね。くろころ」


「くろころ?」


「この子の名前。黒くて、ころって寝るから」


「そ、そうなんだ」


「島野くんにも、知っててほしくて」


「え」


「嫌だった? あ、もしかしてアレルギーとか」


「い、いや、そういうわけじゃ……なくて」


(本当にそれだけだったんだ……)


「……まあいいけど」


 大間さんは僕の言葉を遮るように言葉を通した。

 表情は変わっていないけれども、怒らせてしまったのだろう。


「……みゃあお」


 気まずい沈黙を終わらせる一言を探していると、くろころがこちらに近づいてきた。猫の鳴き声は久々に聞いたような気がして、少し驚いてしまった。

 撫でていいのだろうか。野良猫だったらさすがに汚いだろうか。


「……ふふっ」


 水面にかすかに波紋を作るような笑みが聞こえた。


「やっぱり島野くんには懐くと思った」


 ためらいもなく、大間さんはくろころの頭を撫でる。

 その優しいまなざしの中に何かが濁って見えたのは、きっと気のせい。


(……気のせい…………じゃない)


「大間さん。何かあった?」


「え?」


「なんか、その、悲しそうだなって」


「……」


「僕がくろころ、とっちゃったから?」


「……ううん。それもあるけど」


「ご、ごめん」


「それは別にいいよ」


 ちょっとだけ表情が明るくなったような、気がした。


「……ふふ、やっぱり、私へたくそだな」


 初めて見る大間さんの笑顔は寂しさが混じって見えた。


「猫の世話?」


「違うけど、そうかも」


 今度は馬鹿にしたような笑みを漏らした。


(ちょっとは気の利いたジョークを言えたのかも、僕)


「……私の家の猫ね、死んじゃったんだ」


「えっ……」


 浮かれた心がきゅっと引き締まる。


「老衰、だと思う。私と同じ年に生まれたらしくて、物心ついたときからずっと一緒だったんだけどね。一か月前くらいかな。あんまり動かなくなっちゃって。どうしようどうしようって慌ててたけど、二週間前ぐらいにどこか行っちゃった」


 大間さんの目元にかかる前髪の影がだんだん濃くなっていくような気がした。


(『猫は死ぬ前に飼い主の前からいなくなる』って聞いたことがあるけど、まさか本当にそうなのか)


「でもね、普通、猫はもっと長く生きてもいいんだって。だからきっと、私の世話がへたくそだったんだよ」


「そ、そんなこと……」


 慰めの言葉が出かかって、喉に詰まる。

 たどたどしくも紡がれる、大間さんの言葉に見合う言葉かどうか、僕にはわからない。吟味するにはもっと時間がいる。


「心から愛していたんだけどね。私、あんまりそういうの伝えるのが苦手みたいだから」


 わからない表情のまま、大間さんは僕の膝に手を置く。そしてもう片方の手でくろころの背中を撫でる。軽く足を浮かせて、こちらに体を寄せる。


「動物って、心の優しい人には近づくって、言うじゃん? 島野くんはこんな口下手な私でも、こうやって付き合ってくれたから、くろころも懐いたんだと思う。ねー」


 くろころは大間さんの声に反応せず、ただただ気持ちよさそうに喉を鳴らしている。まるで嫌な気を避けるように、まるで自分の世界に浸っているように。


「大間さん」


「ん?」


 目鼻立ちの整った丸顔が狭くなった視界を埋め尽くし、初めてその距離の近さを意識する。


「あ、あの、大間さんも優しいよ。だってさっき、今日は短縮授業だって、教えてくれようとしてたでしょ?」


「え?」


「ほら、お昼ごはんの時に、予定がどうって話で」


「……」


(あれ、あまりピンと来てなさそう……)


「別にそういう意図はなかったんだけど、まさか忘れてたの?」


「え」


「……ふーん、そうなんだ」


「ごめん」


「なんで謝るの? 別にいいじゃん。私よりお得そう」


「それは……まあ、そうだけど」


 ふふっ、と笑う大間さんの手から、くろころがするりと抜ける。


「あ、くろころ……って、やばい」


「どうしたの?」


「だって、これから大雨が」


 ポツン、という音が聞こえてくるくらい大きな水滴が、その言葉を遮るように大間さんの鼻先に当たった。


「……あ、雨!」


 僕たちは立ち上がって、一目散に公園の出口に向かった。

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