18話 ご存じでしょうか?

 ある日、僕は新しいスケッチブックを買うために町の画材屋を訪れた。

 蒸し暑い夏の空の下を抜けて、少し古びた木の扉をそっと開く。狭い店内にからころと乾いた鈴の音が響いた。


「こんにちは、おじさん」

「おや、また来たのかいシウル君?」


 数年間通い続けて画材屋の店主とはすっかり顔なじみになっていた。制服を着て行ったことは一度もないけれど、僕がメルイーシャ工房の工房生であることは当たり前のように知られていた。

「シウル君は招来術師しょうらいじゅつしじゃなくて、もしかして画家志望だったのかな?」

「あはっ、それも良いかもしれませんね」

 他の工房生たちとは絶対にできないような軽口で店主のおじさんと笑い合う。


 招来術しょうらいじゅつ工房の工房生といえば領主の推薦を受けたエリートで、貴族の血筋の人もそれなりに多かったけれど。平民出の現工房長の方針のせいか、メルイーシャ工房は町の人たちとかなり気安く接する気風があった。

 年の若い僕は特に、にこにこしていれば色々な人たちから優しくしてもらえた。


 店主のおじさんから一粒の飴をおまけしてもらうと、僕は軽い足取りで画材屋を出た。

 見上げた空には厚く雲がかかり、すぐにでも雨が降り出しそうな気配だった。

 今日は寄り道しないで早めに工房に戻った方が良いかもしれない。僕はスケッチブックを抱え直すと急ぎ足で道を歩いた。


「……あ」


 そんな僕の目の前で、店から出てきたばかりの女の人がつまずいて荷物を地面にばらまいてしまった。ちょうど辺りには誰もいなくて、彼女を助ける姿はない。

 僕はおろおろと品物を集める女の人に駆けよって声をかけた。

「拾うの、手伝いますよ」

「ああ、すみません、ご親切に」


 荷物は干した果物や胡桃くるみなんかの包みで、それほど重いものではないけれど、一人で運ぶには少しかさばる量だった。

「あの、もし良かったら僕も半分持ちますよ。お家は近いんですか?」

 亜麻色の髪を三つ編みに結わえた女の人は大きく目を見張って僕の顔を見た。

「西区の方です。よろしいんですか?」

「はい。ちょうど途中まで同じ道ですから」

「ああ、ありがとうございます。助かります」

 そう言って何度も頭を下げる女の人と共に、僕は荷物を抱えて曇り空の下を歩きだした。


 片手にスケッチブックを、もう片方の手に荷物の半分を抱えた僕は重いものじゃなくて良かったと内心胸をなで下ろしていた。手伝いますと声をかけて、僕の方が先に参ってしまったらちょっと、いやかなり情けない。


「こちらです。この先を右に行けばすぐに……」

 前を行く女の人が細い道を指差して言う。


 そこは僕が入ったことのない裏道だった。

 ただでさえ一雨来そうな曇り空の下、薄暗い道には僕たちの他に人の姿は全くない。辺りを見回す僕の前で、不意に女の人がぴたりと足を止めた。

「あなたは、シウル・フィーリス様ですね?」

「はい、そうですけど?」

 どこかで会った人だろうか。首をかしげた僕の前で女の人が振り返る。

 榛色はしばみいろの瞳が真っ直ぐに僕をとらえた。


「カドウス・サライ・アル・リディアンという名を、ご存じでしょうか?」


 僕は息を止める。

 さっきまで穏やかな笑顔だった女の人は、まばたき一つせずに僕の言動をうかがっている。その視線には見覚えがあった。

 義父上やハルビオが、僕がシウル・フィーリスになれているかどうかを見定めていた時の視線だ。


「いいえ?」

 僕は小さく笑って答えた。


「リディアン、ということはリディア領にゆかりのある方ですか? アルということは、もしかして領主さまとか?」

 女の人は僕の顔を静かに眺めながら口を開いた。

「では、シエリア・フアナという名は?」

「すみません、聞いたことがないです」

 軽く首を振ると、僕は抱えていた荷物を彼女に差し出しながら言った。

「もし誰か探しているのなら、広場の掲示板に張り紙をされてみてはどうですか?」

 そう言って、小さく首をかしげてみせる。

 

 彼女は僕をしばらく眺めた後で、小さく笑いながら頷いた。

「そうですね。本当に、何から何までご親切に」

 丁寧な一礼をした彼女は、ふと思い出したように受け取った荷物を探った。

「そうだ、どうぞこちらをお持ちください」

 差し出されたのは麻で編まれた包み袋だった。

「いえ、お礼なんてべつに……」

「ぜひ、お受け取りを」

 強引に包みを押しつけると、彼女は僕の耳元にぐっと顔を寄せた。


「受け取っていただければ二度と干渉はいたしません。不要であれば燃やすようにと、カドウス様からのお言葉です」


 囁かれた小さな言葉。

 肩を震わせた僕のそばから彼女が離れてゆく。はっと目で追ったけれど、その姿はあっという間に路地の陰へと消えてしまった。

 心臓が、思い出したようにどきどきと鳴り響く。

 背中に嫌な汗がじわりと伝っていった。

 路地に立ちつくした僕の頬にぼたりと一粒、生ぬるい雨の雫が当たった。

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