ブルームーン

星野祈里

1

「ねぇ、死ぬ前にバイトしない?」


驚いて目を開けると、隣に女性が座っていた。直人は、危うく腰掛けている場所から転落しそうになった。


10階建ビルの屋上−。


人は飛び降りるつもりでいても、いざ他人にそのタイミングを決められそうになると本能的に阻止する動きをとってしまうものなのだな、と崩しかけた体勢を整えながら直人は思った。


直人は今日、死のうと思ったのだ。


生きることが苦しくて、23年でもう限界だった。新卒で入った会社はブラックで、たまらず退職したものの転職先は見つからない。親は離婚し一家離散状態、つまり帰る実家もなし。誰も助けてはくれない。


街行く皆は、こんな世の中を五十年も六十年もどうして生きていられるのか不思議でならなかった。


直人はもう何もかも投げ出すことにしたのだ。死ぬのにほどよいビルを探し、屋上に出てその縁に腰掛けた。そして、目を瞑って最後の風に当たっていたわけだった。


その最後の時間が突然、中断させられたのだ。


いつの間に隣に座ったのか、その女性の気配も音も何一つ感じなかった。


その人は、肩甲骨あたりまで伸びた深い黒髪に猫のような目、通った鼻筋、分厚くも薄くもない何とも魅惑的な唇、彫刻のようにシャープなフェイスラインを持っていて、その小さな顔の中に全てのパーツが完璧なバランスで配置されていた。


年齢は不詳だ。直人より歳上であることは間違いなさそうだが、十歳くらい上なのか、もっとなのか、もう少し若いと言われたらそんな気がしてくる。とにかく直人が今まで見た中の誰よりも、いや何よりも美しかった。


顔に見惚れて、その人が発した言葉を脳で受け止めるまでに時間がかかった。死ぬ前に−


「バイト...?あの、あなた誰ですか?」


謎の美女は、その綺麗な唇の両端をキュッと上げた。


「君、死にたいんでしょ。でもその前に、お願いがあるの。人殺すの手伝って」


直人の質問は華麗に無視して、彼女は言った。


「人を殺す?何言ってるんですか」


「手伝ってくれたら、衣食住は私が保証する。どうせ捨てる命なら、私にくれてもいいじゃない」


「僕は死にたいけど、人を殺したいわけじゃない。むしろ罪を犯して警察に捕まるなんて最悪。そうなったら死刑になるまで死にたくても死ねないじゃないか」

直人は少し苛立っていた。


「捕まりそうになったら、その時は私が君を殺してあげる」


彼女は顎を引いて、まっすぐ直人を見つめてきた。その目力のあまりの強さに圧倒され、直人は目を逸らした。


自分は死にたいのであって他人に殺されたいわけじゃない、と言いかけたが、この美人に殺してもらえるのならそれも悪くないという気がしてきた。


すると、心の揺らぎを見透かしたように、彼女は身体の間隔を詰めてきた。


「君、人間でいるのが嫌になったんじゃないの?私が飼ってあげるから。私の猫になってよ」


「猫?普通そういう時、犬っていいませんか」


「私、猫派なの」


変な人だな、と思いながらも、徐々に相手のペースにのまれつつあることに直人は気づいていた。


「勿論、君は直接手を下さなくていいんだよ。下調べとか、事前準備とか、ターゲットを誘き出すとかそういうことだけしてくれればいいの。いざとなったら、シラを切ればいいわ」


彼女は前を向いて言った。その横顔があまりに美しく、現実味のない話と相まって全てが夢なのではないかと思えた。


「ただし、条件が二つ」


彼女はこちらに顔を向け、二本指を立てた。


「何をするにも決して理由を聞かないこと。言われたこと以上のことをやろうとしないこと。...わかった?」


まだ引き受けると言った覚えはなかったが、彼女の中ではすでに直人を飼うことが決まっているようだった。

そのうちにもうどうにでもなれという気持ちになってきて、直人は目の前の美しい顔をぼんやりと眺めながら頷いていた。

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