痴漢に注意
大学生だった私は、3年生になると研究室に所属するようになった。
だんだんとレベルが上がる講義や多くのレポートをこなしながら、研究室では実験をしなければならない。
それに加えて私は週4でアルバイトをしていたため、当然、大学ではレポートをやる暇がない。
家に持ち帰っても、いまいち進捗状況が良くないので、同じゼミの友達に助けを求めた。
友達は水泳部に所属しており、先輩たちとのつながりがある。
多くの教授は年毎にローテーションでレポートの課題を課すため、数年分のストックがあれば簡単にレポートの模範解答を知ることができた。
友達は、そのストックを先輩から貰い受けている。
該当するレポートを見せてもらうため、アルバイト終わりに、友達のアパートに行って見せてもらう約束をした。
そんな夜の出来事だ。
友達の家はアルバイト先からは徒歩で移動できる距離で、バイトを終えた私は、彼女から送られてきたアパートの住所をスマホで確認しながら歩いていた。
途中、防犯灯が設置されていない暗い路地を通ることになった。
22時を過ぎており、人通りもほとんどない。
私は足早に歩き抜けようとした時、左側に公園が見えた。
古びた黄色い大きな看板が入り口に設置されている。
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
公園内にも、明かりは少なく、公衆トイレが内側から光を漏らして寂しげに佇んでいる。
こんな場所では痴漢が出てもおかしくないだろう。
かく言う私も女だ。
不審者にとっては格好の餌食かもしれない。
怖くなった私は公園の隣の道を小走りで急いだ。
その時私はギョッとした。
進行方向に伸びる道路に沿って、数十個もの四角の黄色い物体が並んでいた。
よく見ると、全て看板だ。
しかも、それはさっき公園の入り口に設置されていたものと同じである。
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
「痴漢に注意!出たら「帰れ」と叫べ!」
やりすぎである。
こんなに並べたらかえって怪しげな雰囲気が増すではないか。
しかし、この看板を設置した人はここまでして注意喚起したかったのか。
あまりに頻発する痴漢にヒステリックになった住民が設置する、そういう光景を想像したらなんだか可笑しくなってきた。
その時、臀部に怖気が走った。
硬い何かが、ジーンズの上から私に触れた感覚だ。
思わず声を上げてしまい、立ち止まる。
振り返ると誰もいない。
逃げたのであれば、何かしらの音はするはずだ。
しかし、誰の気配もそこにはなかった。
私はダッシュで逃げ出した。
直後、今度は耳に湿った生暖かい風が吹いた。
誰かの吐息のようだった。
だが、風の方向には誰もいない。
私は涙目になりながらも走って逃げた。
友達のアパートのインターホンを鳴らすと、呑気な顔が覗いた。
彼女は私の顔を見て、やってしまったという顔をする。
「ごめん、もしかして公園通ってきちゃった?」
息を切らしながら無言で頷く私を見て、友達が謝る。
「あそこね、夜になると痴漢の幽霊が出るの」
「なんで!言って!くれなかったの!」
「ごめんごめん、すっかり忘れてて」
友達は両手を前で合わせながら舌を出した。
「その代わり、今日は泊まっていってもいいから」
友達は私を部屋に入れ、座るように促した。
麦茶をグラスに入れて戻ってきた友達は「そういえば」と言う。
「ちゃんと『帰れ』って言った?」
「え?言ってないと思うけど」
友達の表情が固まる。
「言わなきゃ、ダメなの?」
ピンポーン
アパートのインターホンがなる。
室内のモニターに、部屋の前が映し出される。
そこには、誰も映っていない。
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