第8話 ボルツマン分布
8.ボルツマン分布
腕を組むついでに有美よりさらに寂しい胸とお尻を自分からあざとく望の身体にこすりつけた。
「菫さんかわいいな、このままずっと腕を組んでいたい」
私の中で何かが壊れた
「特別、アルヌールまでこのままでいいよ」
望は笑顔で
「倥(ぬか)ったな名探偵。断ると思ったろう。菫さんと腕組んでいることを学校中に見せびらかしてやる」
「ああ、望むところだ」
有美が笑っている
「じゃあ私は右手の方に腕くんじゃおうかな」
有美が望の右手に腕を絡ませた
「何その捕まった宇宙人みたいな絵面」
3人で笑った。
「えっ?」
小夜の声を超・特殊聴覚が捉えた。直ぐに靴音が階段を上った。
「あ〜あ、”ノゾミ・ハーレム”をショートカットに見~られちゃった
ウォ、ウォ、ウォ」
有美がからかうように言った
「人をオットセイみたいに言わないで下さい。さっきの小夜さんだったのか、小夜さんも何も言わず逃げていく人なんだな」
「それ、桃香の話?私と腕を組んでいるのに他の女の話をするなんて最低」
有美は望の右腕から離れた。
ここで、腕を放したら私の負けだ。私は望の左手を引き寄せた。有美は2人と向かい合う位置に移動して首をかしげ片目を閉じ
「今日の飲み会、修羅場になりそうね」
「有美さんも参加します?同期の男達は歓びますよ」
「辞めとく、望と菫が仲睦まじい状況が話題の中心だろうから、邪魔しちゃわるいわ。
それに、あのおっぱい女がショックで倒れちゃうかもしれないし」
私のことをポニーテールでなく菫と読んでくれた事が嬉しかった。照れ隠しで的外れなことを聞いた
「望、倒れちゃうってどういうこと?」
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだぁれ?」
なるほどと思った。有美が口を挟む
「その質問の望の答えは?」
「菫さんと有美さんかな」
「すけこましが」
有美が怒ったような口調で言った
「望はよくすらすらとそういうことが言えるね」
「僕は自分より頭のいい女性に嘘を吐かない主義だから」
「主義ねぇ」
「望、私のこと好き?」
会話を自分に戻すのに、意図しない言葉が勝手に出た
「好きですよ」
望は息を吐くように答えた。有美は笑いを堪えながら言った
「アルヌール、行きましょうか」
「望はなんでそんなに簡単に“好き”とか言うのよ」
望と腕を組んで歩いている自分に今更ながら違和感が襲った
「なんて、言って欲しかったんだよ?頭のいい女性に嘘を吐いても直ぐバレるから無駄なことしないの!」
望の言っていることは的を射ているが、何かがおかしい。
「でも有美さんの前で簡単に言われるのはどうかと」
私の最初の質問を私自身が棚に上げている。しかし、思いつく言葉もだらしない。
「私だけに言って欲しかったのか?ごめん、小夜の件が片づいたらもっと気の利いた言葉を考えるから、今は許して」
どんどん私は窮地に追い込まれている。有美は2人の前に進み出て
「望、私のこと好き?」
私は有美の行動に気を失いそうになった
「好きですよ」
当然の如く望はさらっと答えた
「ははは、望の”好き”にボルツマン分布は当てはまらないの。
菫は男に自分のこと好きかと聞くタイプか?」
ボルツマン分布が何を意図しているかは分からないし、説明を聞くのも嫌だし、そういうことはしないと否定するのも癪だ
「今日は特別かな」
有美の目は完全に私をからかっている
「ショートカットにノゾミ・ハーレムを見られたからな、
”私は望に好きと言われました”
って堂々と言える切り札を手にした訳だ、菫もなかなかやるな!」
なんと答えるのが最善なのだろう。答えないのが一番悪い
「小夜さんは望と私が腕を組んでいたことは話題にしないと思う」
「なぜ、そう思う」
「小夜さんは人生に不器用だから」
私は人として最低だ。こんなことを直言できる立場にないことは分かっている。それでも望が小夜のことを好きなことが現時点でも納得がいかない。その気持ち、私の心の汚れた部分が結集して言葉になったような気がする。望に聞かれるのは辛い、辛いことは喋る前から分かっていたのに
「そうだね、不器用は同感だ。ももちんと一緒だ。肝心ところで勝負を挑まなければ、仕合わせは引き寄せられない。いや、これは僕のうぬぼれだ。彼女にはもっと良いカードが来るかもしれないから・・・
姫様、役不足とは存じますが、アルヌールまでこのままでお願い頂けないでしょうか?」
「うむ、苦しゅうない」
勢いでそう答えてしまった。望が私に気を遣っているならそれが一番辛い。望に最低な女と思われるのはもっと辛い。有美を見たが直ぐに目線を逸らされてしまった。彼女はかなりの恋愛巧者だと感じた。
道行く人の視線が集まる。眼鏡を取った有美と腕組む2人。望は機嫌よさそうな顔をしている。緊張していないのか?望は会話を投げてくれる
「実は僕も中学までは仲間外れにされていたんだ」
「なんとなく分かる」
「バカでデブだったからな、今でもバカだけど」
「私も高校時代は太っていたの」
自分から言わないつもりだった。言う必要も無い。太っていた頃に浴びせられた男達の視線が再生される。ビデオのように上書きしてけすことができない。きっと条件が変われば望は腕を組んではくれないだろう。太っていることがこんなに辛いとは思わなかった。刹那、夢の中で私を見る望の映像が蘇った
「今のすみれさんはとても綺麗だよ。がんばった甲斐があったね。僕が隣じゃ不足だろうけど」
望も太っていて、辛い経験をしているのだろう。この言葉は私が聞きたい100点満点の言葉である筈なのに。嬉しい気持ちが湧いてこない
「望はなんで痩せたの?」
「太っている人は、自分に甘い人だと思われるから痩せた方がいいって言われた」
私は望の言葉に感謝できない理由が分かった。小夜や紫に私が嫉妬しているからだ、醜い小夜を優しい目で見る望が悔しい。紫の思い出話をする望が悔しい。
有美が口を挟んだ
「紫だろう」
「そう、紫さんはバカでデブの僕に話し掛けてくれただけでなく、僕を助けてくれた」
「菫は、なんで痩せようと思ったんだ」
「なんでだろう?昨年の冬、突然痩せようと思ったんだ」
「男とかじゃないのか?今更隠すことでもないだろう」
すれ違う人の視線を感じる。でも、太っていた頃の視線と違う、今向けられているのは、嫉妬や羨望の視線だ
「私、女子校だったし、最大で68 kgあったから、侮辱や蔑む視線に耐えられなくなったのが動機だと思う。今でも男の視線が怖い時がある」
「ごめん、腕を組むの辞めてもいいよ」
「いいよ、ここで止めたら、フランス料理を逃しそうだから」
「1年半でここまで来たのか。尊敬します。ボーア博士位。僕なんか何回も挫折しそうになったなあ」
望は私の気持ちを読み取って話を自分に引き取るつもりなのだろう。かなり手慣れている。ここまでの手練(しゅれん)が何故小夜なのだろう。ともあれ望の好意はありがたいが、私も私の気持ちに素直でいたい
「確かに私も何度も負けそうになった。でもあんな目で見られるのはもっと嫌」
「すごい精神力だね。残念なことに、いい女には必ず彼氏がいるのが、世の中の公理であり摂理である。彼氏と別れたら告白するから、その時は教えてよ」
「私は、すんすん以下なのね」
少しだけ覚悟はあった。でも今は有美の脚本の演者であることを忘れていない。
「小夜さんのこときれいにしないとね。小夜さんをももちんみたいにさせる訳にいかない」
少しの沈黙のあと、有美が口を開けた
「根性無しの望は、どうやってダイエットに成功したんだ?」
望が言っていた有美が気を遣う人だということを納得した
「ああ、僕は菫さんみたいに精神力強くないから、達成したときのご褒美を設定して達成したんだ」
私は、会話に踏み込んだ
「どんなご褒美?」
「言わなきゃダメ?」
有美が即答で
「ダメ」
望は、軽い溜め息を吐くと
「目標体重に達成したら女の子に声を掛けようと決めたんだ」
「紫か?」
「師匠に手を出す弟子はいません」
今度は私が望に聞いた
「どんな人?」
有美が笑いながら
「菫、声が怖いぞ、昔の女だ、許してやれ」
「そんなつもりじゃ…」
望は、笑いながら
「何を話せばいい?容姿は有美さんや菫さんに遠く及ばないかな」
私は精一杯の笑顔を作って
「その人のどこが好きだったの?」
有美がこんどは望をからかう
「菫にそんな顔をさせるなんて、望は罪な男だねぇ」
望は空を見上げて
「自分の気持ちに正直な人かと思ったんですけどね」
望の声は寂しそうだった
「お前のがデカすぎて泣かれちゃった娘か?」
さすがの望でも動揺しているのがわかった
「渉師匠はそんな話までするのですか」
「付き合っていれば、そういう話もするだろう、小学生のお付き合いじゃないのだから」
「酔っていたといえ、渉師匠に話してしまったのは僕の責任です」
有美はいやらしい顔をして
「泣いている女の子に無理矢理しないのが望らしいよね」
「それで別の男に寝取られるんだから、情けないですよね」
有美は笑っている。私は有美が恐ろしいと思った。しかし、どう反応して良いか分からない
「今でも恨んでいる?」
「それはないです」
「あら、今日は随分素直じゃない、渉には一切話さなかったくせに」
「僕は性格が悪いので、僕を選ばなかったことを後悔させてやろうと思いました。
ももちんが、碧さんに直接事情を聞くまでは・・・」
有美が真剣な顔に変わった
「桃香はその人に直接聞きに行ったんだ、望がそんな女を捕まえないなんてあり得ないと思うが・・・。
むらさき、みどり、もも・・・望の恋には法則があるな、なんで次が小夜なんだ?」
「彼氏のいる女性には声を掛けませんから」
有美は笑って、口を手で押さえながら
「望の嘘つき!」
「ああ、アルヌールに着いちゃったよ。楽しい時間はあっという間だ」
望の手から離れると望の正面に立った
「どうして小夜さんを好きになったの?」
もう、有美の前でも望が化学薬品過敏症であることを告げるのかと固唾を呑んで言葉を待った
「小夜さんは量子論に詳しそうでしたし、藤原秀郷の末裔らしいことと・・・、
一番は中学の時の僕に似ているからかな。あのとき僕は紫さんに声を掛けられて助けてもらった。そのことを今でも忘れず感謝している。紫さんには何の恩返しもできなかったけど。
あとはさっき菫さんと誰にも話さない約束でした内容」
そうきたかと思った。”恩返しが出来なかった”と過去完了形になっていることが気になったが、直ぐに確認する話であるとは思えなかった。
有美は望の返答に興味がなさそうだった
「中、入ろうか?」
<つづく>
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