第7話 魔物とスケベ話
7.魔物とスケベ話
扉の開いたエレベータには誰も乗っていなかった。何も言わない望に声を掛けた
「紫さんが紫式部で
桃香さんが和泉式部
そして
みくりさんが清少納言
ならば望の恋は女流平安作家勢揃いね」
軽い冗談のつもりだった。有美が聞いた事の無い低い声で
「”ゆかり”っていう名前なんだ」
私は霊感がないが、このエレベータに妖気が立ちこめるのが分かった
「そう”久保紫”、僕の大恩人だ」
望も同様に低い声で答えた。”久保紫”。私が5月に逢った人と同じ名前だ。そして間違いなく同一人物だ
「私には一切名前を言わなかったけど、菫には話すのね」
「菫さんはこの件に係わっても問題ないから」
「どういうこと?」
私は、どういう言葉を用意すればいいのか分からなかった。望は見たことの無いほど真剣な表情だった。私は何も知らなかったとはいえ、望に迷惑をかけて申し訳ないと思った。でも、謝るにしても何について謝れば良いか分からない
「菫さんはこれ以上紫さんに係わらないからです。一つの例外を除いて」
むしろ、望に私の失言を咎めてもらった方がどんなに気が楽だろう。エレベータが私たちの位置エネルギーをなくすと
「あれ、菫。髪の毛が乱れているよ。直した方がいいんじゃない」
人払いと直ぐに分かった。望が間髪入れず会話をねじ込んだ
「菫さんがこれ以上かわいくなったら、また誘っちゃうかもしれないな」
望は学食で話しかけた時のような笑顔だった。笑顔の方が私は辛い。今の状態で考えられる精一杯の言葉を返した
「フランス料理のフルコース、おごってもらおうかな」
「Apprivoisis」
「なにそれ?」
「今思い出したフランス語。この話は菫さんには、今は話せないかな。碧(みどり)色の想い出」
望の意図は分かる、紫の話を有美にできなかったように、私にも話せない話があることを私に伝えている。私はこの状況でも可能な限り望を助けたいと思った
「女ね!」
「フルコースご馳走させたくなるくらい、念入りに直してきなよ、10~15分くらい掛けて」
「ワインも飲んじゃおうかな」
「あれ、菫さん19歳でしたよね」
「会計、覚悟しておいて」
望はずっと笑顔だった。私の為だけの笑顔。 私は申し訳ない気持ちを抱きながら、2人に背を向けて化粧室に向かった。その笑顔を携えて。
「菫さんの後ろ姿、最高だな。今晩、ソロ活動でお世話になろうかな」
「まだ望には余裕がありそうね」
私の耳には2人の会話が届く。通路を曲がって2人が見えないことを確認した上で足を止めた
「いいよ、有美さんの望んでいることは全部飲むよ」
望は図書室で会ったときの口調と同じだった
「アインシュタインをペテン師という女泣かせの男は、菫の前では、ずいぶん平凡な男ね」
「なんですか?その通り名。
フフフ、残念ながら、菫さんに抱きついて警察のお世話になるくらいしか対案が思いつかなかったので、無条件降伏ですね」
「あら、今まで隠していたのに随分素直じゃない」
2人の顔を見てみたい気持ちを一所懸命にこらえた。私の超・特殊聴覚は、この距離ならば鮮明に聞き取ることが出来る。それが救いだ。
2人の会話は特殊だ。これは学食の時にも感じていた。一般の人ならば会話の飛躍についていくのは難しいだろう。そういえば、図書室で有美と交わした会話と似ている。有美との会話は不思議な爽快感があった。よく考えれば、私はいつも相手の能力に合わせて言葉を選んでいる。大人が子供に話すように、でも、望や有美に対しては変換の必要がない。
今はそんな考察をしている場合ではない、考えるべきは望が紫のことをいままで有美になぜ話さなかったということだ
「学校一の美人に頼まれて断る男はいないさ」
「ふーん、私には名前さえ言わなかったね”久保紫”」
「有美さんに言えば必ず会いたいと言うでしょうから」
「やはり、望が渉に話した未来から来た人は紫なのね」
そんな話は、小説か冗談で済まされた筈である。人払いした2人の会話でなければ
「学食で菫が話しかけてきた時から違和感があったけど、菫には随分素直じゃない」
「有美さんにも素直に接しているつもりですよ、まあ、気をつかったことは無いですけど」
「意外、あれが望の標準?渉より気を遣ってくれるのは”素”なんだ。
でも菫には随分気を遣っているよね」
「有美さんは凄いな、そういうことも分かるんだ」
「誤解されると心外だから言っておくけど、菫に危害を加えると脅迫して聞き出すつもりは最初から無かったからな」
「懐かしいな、僕は小学生の頃、そういう手口を使う工作員の少女に嫌がらせを受けたっけな。本人は自分が工作員に育てられたって気付いていなかったけど、とにかく。
僕の知っている有美さんは絶対そんなことはしない。
そして、そういう有美さんを尊敬している」
「随分惚れ込んでいるみたいね、あのポニーテールに」
私の呼称が”ポニーテール”に戻ったようだ。
「有美さん、人が見ますよ」
「いいじゃない、手ぐらい。元々望は人の目なんか気にしないくせに」
「渉師匠が葬儀で帰省しているときですよ」
「和泉式部が好きなんでしょう」
「内裏の梅のひとえだ、まだ盗んできていませんが」
「おお、我らが祖、車持国子君(くるまもちのくにこのきみ)の令嬢、与志古娘(よしこのいらつめ)よ、心貧しき物書きどもに教えてやりたい。藤原保昌という者がいたことを」
「みくりさんに使おうと思ったのにここで使っちゃった。 誇り高き我が一門は蓬莱の玉を偽造しませんって」
「望まだ、みくりの名字を教えてなかったな、
日野みくり
が奴の俗名だ」
「同胞か、日野は…確か北家真夏流ですね。勧修寺家同様名家(めいか)の血統か”内裏の梅のひとえだ”が使えないな。その前に自称”清少納言”様に和泉式部の引用をするのも御法度か・・・」
「そんなこと知っている人なんてほとんどいないわよ」
「美人で頭脳明晰、しかも藤原名家の御血筋の御令嬢と末流の手前が手を繋いでいるなんて恐れ多きことだ」
「からかわないで、昭和の時代になってそんなこと気にしている人なんていない」
「お嬢様、お戯れも程々にされた方が宜しいかと」
「Apprivoisis! (フランス語:飼い慣らす) 望は誰に飼い慣らされたのかしら?」
「やはり、有美さんはなにもかもが凄いな」
「でも、私よりポニーテールの方がいいんでしょう」
次の言葉を聞きたくない。このまま2人の前に飛び出そうと思った。でも身体が動かない
「彼氏持ちの人達にからかわれるのも気分良いですよ。
菫さんや有美さんのような魅力的な人ならば。
夢でもこんな素敵な場面に出会(でくわ)せないでしょうね」
鼓動が早くなっている。
望が有美より先に私の名前を言ってくれただけなのに
「有美さんに今日、嘘を吐きました」
「多分初めてよね、私に嘘を吐くの。ポニーテールの事ね」
「菫さんのお尻の話、実は初めて会ったときから意識していたんです」
「はあ~渉は巨乳好きで、望は美尻好き、なんで私の周りには異常性癖の奴が集まるかね」
「菫さんは腰回りだけではなく、髪型以外は全て理想なんです」
・・・
「望、物怖じなんかしないよね、なんで、ポニーテールに行かずに、ショートカット(小夜)に行ったの?」
「4月に佐々木菫さんは存在しなかったんです。5月になって絶世の腰回りを持つかわいい女性が現れたんです」
「ポニーテールが、休んでいたとかじゃないよね」
「奈緒さんには4月の菫さんの記憶があるのです。僕だけ無い。あんな一目で分かる絶世の腰回り見落とす筈がありません」
「それはお前がマクスウエルの魔物とスケベ話していて、その話に夢中で気付かなかったんじゃないか?」
「ははは、それは傑作ですね。スケベ話に夢中で”観測”を忘れたマクスウエルの魔物。ΔU=q、エネルギ-=熱では菫さんは探せませんね。熱力学の第一法則にするにはωすなわち仕事が必要ですから。
でも菫さんは完全に僕の理想状態なんです。例えば、もっと目が大きい方がいいとか、もっと痩せていた方がいいとか必ずある理想と現実の差が髪型以外はないんです。まるで菫さんは高校の理科で扱うような神話的な現象、理論値と実測値が誤差のない状況なんです」
「菫は望が作った幻想ってこと?いや、これは”観測”の問題だな、隠れた関数とかベルの不等式とか・・・なるほど、それでマクスウエルの魔物という訳か」
「僕が菫さんが作った幻想かもしれません。多分菫さんにも4月の僕の記憶はないんじゃないですか」
2人の話についていけない。予習無しにいきなりこれは無理だ。ただ、望の言うとおり私にも4月の望の記憶は無い。私の場合は望の容姿に特に惹かれるものはないが・・・
「もしかしたら菫さんはΨ、もう一つの自分かもしれない」
「量子もつれの関係ってこと」
「人間って男も女も体や考え方は違うけど同じ人間だよね。こんなこと考えたらボーア博士に叱られそうだが」
「そうか、量子もつれは同じ形状と考えていた。
”観測”前の形状は人類は見ることが出来ない。これは例外なく想像の世界ってことか。ボーア博士の意図が分かったよ」
「この観測者は誰だろう?この実験の準備をしたのは誰だろう?」
「もしかして?」
「理想の女性に髪型だけ理想にしないのは紫さんの手口に似ています」
・・・
「お前、まさか、紫にポニーテールを会わせろと言うつもりじゃないだろうな」
「このあとする桃香さんの話で紫さんが出てきます。
・・・僕はもう思い残すこともないです。
僕がいなくなった後も菫さんと仲良くしてください」
「バカ教師を見返すんじゃなかったのか、早まるな」
「菫さんの髪、綺麗だった。丹念に手入れをしなければあの髪は維持できない。あんな美しいものをこの世から無くす訳にいかない。僕はこれでも写真部だ。職人気質を貫きたい」
「格好付けるな、量子もつれの話が当てはまるのはお前の仮説に過ぎないだろう」
「菫さんが現れる時期に連動して、紫さんとの消えていた記憶が蘇ったのです。
そして、この話は複雑で、菫さんが帰ってくるまでに説明できる話ではないです」
2人の会話は遠すぎる。今の私では理解できない。有美には敵わない。
「場所を変えて話そう」
「だめですよ、菫さんが戻ってくる」
「2人で話がしたい。今日は私の家に来い」
「今日は飲み会で、小夜にカタをつけないと」
「ショートカットなんてどうでもいいんだろう」
「だめですよ、小夜さんに惚れていたのは消せない事実です。惚れた女性に何もせず終わりにするのは僕の主義と異なります」
「私が渉と別れてお前と付き合うと言ってもか?」
望も魔物であるが、有美も魔物である。2人は同属だと思った。私はとてつもない大物に恋心を抱いてしまったようだ
「小夜さんとカタが付くまで待ってもらいます」
「なあ、望。紫とはきっちり断ち切れたのか?」
「ええ、向こうが切ってきました。・・・僕のために」
「紫の話をしたがらない望の事情はそういうことか。お前の全ての根源は紫なんだな。
やはりじっくり話す必要があるな、明日はどうだ」
「明日は、バイトです」
「バイトなんか休め」
「だめですよ、菫さんにフランス料理を奢らされるので稼がないと」
「お前は、いつ消えてしまうか分からないのにバイトなんかしている場合ではないだろう」
「5月の時点で覚悟は出来ています。いまさら特別なことしても仕方ないでしょう。だからいつもと変わらない日常のままその時を迎えようかと」
「なら、バイトが終わったら来い、私の手料理をもてなしてやるから」
「遠慮なく御馳走を賜ります。
不思議ですね。僕にはもうあまり時間がないかもしれないと気付いた時から、自分の気持ちに正直に向かい合えるようになりました。
でも、それも怪しいですね、紫さんと一緒にいた頃から自分の気持ちに正直でした。お陰で、高校も予備校も大学も楽しかった」
望が同期には感じない器の大きさや、親切さが身に染みる。望は余命が短いことを覚悟しているのか?
「安心しろ私が助けてやるから」
この言葉は私が望に言いたい。やはり今飛び出そう。でも体が動かない
「有美さん、関わらない方がいいです。
有美さんは親切な方ということを知っています。
それは有美さんに危害が及ぶことを示唆しています」
「こんな面白い題材、見過ごす愚者ではない」
「明日、包み隠さず全てを話します。話を聞いて危険を感じたら遠慮なく逃げて下さい」
「分かった、望の配慮を裏切らない。御馳走を用意して待っているから楽しみにしておけ」
「せめて明日まで観測されたくないな」
「ポニーテールが戻るまで、整理しておこう、望はコペンハーゲン解釈の支持者…」
「あれ、望と有美さんじゃない」
感情を整理できない。こんな時に、聞き覚えのある声が耳に届いた、奈緒だ。強制的にこちらの会話に超・特殊聴力が切り替わった。恐らく私の心の中に現実から逃げたい感情がそうさせた。私という観測者は都合の良い方の音を選ぶ
「手を繋いでいるね」
この声は小夜だ
「有美さん、渉さんが故郷に帰っているときに随分大胆なことするね。しかも、恋人繋ぎじゃない。望は菫にちょっかい出しながら、有美さんにも手を出していたんだ」
「望君は愛美さんの一件依頼、同期と距離を置いて渉さんや有美さんと一緒にいたからね」
「愛美の一件がなければ、小夜の目もあったんだろうけど・・・、あんな浮気男係わらなくて良かったんじゃない」
「・・・ごめん奈緒、図書室先に行っていて、トイレに寄ってから行くから」
私は慌ててトイレに向かった。奈緒の声を潜めた独り言が聞こえた
「望でかしたぞ、計画が短縮できた。菫がでてきたときはどうしようと思ったが、こんなあっさり望と有美がくっついてくれるとは良い方の予定外だ、でも小夜には申し訳なかったな、すっかり利用してしまった。なにかで償おう」
トイレの個室に駆け込むとまもなく足音が聞こえた。小夜に違いない。直ぐに泣き声が聞こえた。きっと私より先に望のことが好きになったのだろう。小夜はあれだけの好機に恵まれながら望の気持ちに応えなかった。それでも、有美の話が本当ならば、今日の飲み会で望は小夜に話してこの涙が報われることになる。
やはり私は望の3番目だ。望が信念を破って小夜を切ったとしても、私ではなく有美を選ぶ筈だ。みくりが有美に変わっただけの話である。でも、望は私を理想状態だと言っていた。私の腰回りが絶世だと有美に宣言してくれた。私の無理なお願いを笑顔で応えてくれた。デートに誘ってくれた。紫の話を私だけにしてくれた。失言した私を決して責めなかった。
逃がしたくない、有美の言う通りこんな男はそうは現れない。私が優位になる点だってある。そう私に出来ることは全て望にぶつけよう。望はきっと、和泉式部のような激しい女性を望んでいる筈だ。それに賭けてみよう。
小夜が個室に入る音を確認して、個室をでた。
戻ると、2人は手を繋いでいなかった
「望、どう?」
ゆっくり時計回りに一回転した
「菫さん、一段とかわいい」
「望、フランス料理じゃなくてもいいよ」
「そいつは助かる」
有美は着けている眼鏡を鞄に収めた
「菫さんがいつもと違う喋り方をしているのに、この眼鏡は失礼よね
さあ、アルヌールに行きましょうか」
有美はいつもの喋り方と違うことをいつ知ったのだろう。
眼鏡を取った有美は美しかった。有美に不釣り合いな赤い縁の眼鏡は、きっと私の喋り方と同じ意味だと思った。
先に歩き出した望の背を追って望の左手に腕を回した。
<つづく>
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