第2話 フランソワーズ・アルヌール
フランソワーズ・アルヌール
メイクはやや強めにしたが、服は普段学校に行くのと同じものにした。ポニーテールで学校に行くのは4回目だったと思う。シュシュを選ぶのに15分も掛けてしまった。
お弁当を作る時間はメイクに充てられた。サンドイッチになるはずだったパンを焼いて、ブルーベリージャムを塗りたくりルージュを気にしながら口に運んだ。
太っていた頃の減量対策でお弁当は自分で作るようにしていた。体重が目標値に達した今でもこの習慣は続いていて、日常生活に溶け込んでいる。
困った事に、今の食事量では学食を残してしまう。私の利己主義で食べ物を捨てるのは気が引ける。かといって全部食べてまた太るのは嫌だ。
私が一番醜い頃を思い出した。もう、太るなんて嫌だ。あんな蔑んだ目で人から見られるだけでなく、あからさまに冷遇されるのはもうたくさんだ。
泣きたくなった、でもここで泣いたら折角のメイクが台無しだ。束ねた髪に櫛を入れて呼吸を整えた。
なんで、こんなことになったのだろう?…みんな今朝の変な夢のせいだ。今日は奈緒と望を力いっぱいからかってやろう。朝の疲労を徒労に変えるのは悲しすぎる
「恋愛か」
1人寂しく呟くと、市販のカフェ・オ・レをストローで流し込み1口飲んだ後、逆に息を吹き込んでブクブクと音を立てた
「昔はモテたなぁ」
またブクブクと息を吹き込む
「男って、なんで浮気すんのかな」
勢い余った泡が紙容器から溢れ出す。
私はマリアナ海溝よりも深いため息をついて、こぼしたカフェ・オ・レを拭き取った
「紫め」
望の肩を叩いたときの澄まし顔が急に癪に障った。
望に絶対私のことをかわいいと言わせてやる。そうでなければ気が済まない。
こうして、飲み会にマイルストーンを設置できた。人生はちっぽけな目的を達成する快感がないと生きることが辛くなる。私はそう信じて止まない
「今日の飲み会は楽しくなりそうだ」
全身鏡に身体を映して微笑んだ
「結構かわいいな、私」
”別に誰かに言って欲しいとも思わないが”、と続けようとしたが、声は出なかった。
「いってきます」
誰も居ない部屋に声を掛けた。
授業ではいつものように望は独りで座っている。夏休み前に愛美と揉め事を起こしてから望自身は同期の人達と距離を置くようにしている。
発端となった愛美と望の会話は、私の超・聴覚能力で聞き耳を立てていたので会話の一部始終を知っている。
愛美はよく私に話しかけてきた。愛美の話題はいつも男の話ばかりで、会話を合わせることが苦痛だった。
正直面倒な女だと思っていた。愛美も変な喋り方をする私を格下とみていたらしく、会話にしばしば見下す表現が含まれていた。
一方、愛美にとって奈緒は格上と認識しているらしく、私に対する話し方と明らかに違っていた。
愛美は学校一の容姿端麗、鏑木渉と会話をするきっかけを探していて、望が時々渉と会話していることに気付いて、望を介して渉に接近しようとしていた。
既に小夜の一件で望の観察をしていたので、望の会話から渉と有美が付き合っていることを知っていた。愛美には渉と有美が付き合っているらしいと伝え、学校の噂の通り渉は誰とも話したがらない人だから、係わらない方がいいと助言したが、望と渉がしばしば話ているから、きっかけさえ有れば、分かり合えると言っていた。
大学生になってまで、世の中の問題が話し合いで完結すると思っているのだろうか?理系の進路を選択したにもかかわらず演繹的に物事が見られない未熟な女だと思った。
私は言葉を選んで望にその話をするのを止めさせようとしたが
「菫さんがこの計画を盗んで望君に近づこうとしているんじゃないの」
と強い声で返されてしまった
「格好いい人は飽きたら浮気するから嫌いだよぉ~」
「それはちゃんと会話していないからだよ」
思慮の浅いおめでたい女だと思った。少なくとも恋に泣いたことの無い人なのだろう。
もしかしたら愛美は交際経験が無いのかもしれない。最初に付き合う男の理想が高すぎる
「望君は小夜さん狙いみたいだから、小夜情報をちらつかせれば多分協力してくれる筈」
十分な科学力がないのにロケット開発を進めてしまった風景が連想された。暴走した愛美を制御することはできないだろうと感じた
「望君、頑固なところがあるから気を付けた方がいいよぉ~」
愛美は驚いた顔をして
「あれれ、随分望君のこと詳しいね」
「会話したことはないんだけど、奈緒ちゃんがそんなこと言ってたぁ~」
「ああ、奈緒か、奈緒には相談できないな」
愛美も、奈緒が望を好きなことは気付いているようだ。そういう観察力があるなら、もっと客観的に自分自身を評価するべきだと思った。愛美は自分の名前ではないが「愛」や「夢」に騙されているのではないだろうか。
愛美は私に宣言した通り、授業の後、教室で望に話しかけた。
望は頑なに仲介を拒否した。
愛美は何故かと執拗に食い下がった。
望は言葉少なに渉が人嫌いだと告げた。
愛美は何故望が会話できるのかと聞いた。
望は自分も人嫌いだからと言った。
愛美は話せばきっと分かり合えると強い口調で言った。
望は笑って、愛美さんは「コーラン」も「聖書」も読んだ事ないですねと言った。
愛美は当たり前じゃないのと怒ったことが解る口調で言った。
私は、望の巧みな表現に感心した。私も2大宗教が分かり合うことはないと思った。恐らく望が伝えたかったのは、思想背景が強すぎて分かり合えないことだと解釈した。
つまり望は世の中にはどうしても分かち合えないことがあることを婉曲に語ったのだと思う。
愛美は関係の無いことを言うなと怒った口調で言った。
私は、望も愛美の階級(ヒエラルキー)では格下に位置づけられているのだろうと思った。
望は、君が思うほど渉師匠は簡単な人ではないと告げた。
愛美は、人は平等で、同じく権利がある筈だからせめて会話をさせて欲しいと懇願した
望は怒鳴りつけるような声で、大学生にもなって、そんなことを言う人がいるなんて信じられないと吐き捨てた。
愛美は怒鳴られた事に泣きそうな声で、私の言っている事の何がまちがっているというのと問い詰めた。
望は動じることなく、愛美さんは仕合わせは国や政府や神様が運んでくると思っているのかい?と言葉を和らげて言った。
愛美は、当たり前じゃない。国や政府は市民の幸せのために存在しているものよと答えた。
望はまた怒鳴るような口調で、簡単なことだ、問題が解決できないのはたいていの場合定義が間違っていると冷たく言い放った。
愛美は、私が言っていることの何が間違っているというのと泣き声で語った後、望の悪口を重ねて、あなたが皆から何て言われているか知っている?と捨て台詞を吐いた。
望は興味無いねと吐き捨て、僕も渉師匠も右利きなので、左手で箸を持って食事をすることは通常あり得ないと結んだ。
愛美は泣きながら教室を去った。翌日から愛美は学校に来なくなった。
この1件以来、望は同期から距離を置かれるようになった。ただ、奈緒だけはこの事件後も孤立した以前と変わらぬ対応を続けた。
恐らく今回の飲み会も無理矢理望を引っ張り出したのは奈緒だ。一方望も、奈緒以外の同期と話さなくなったが、涼しい顔で意に介さない様子だった。それでも渉や有美と一緒にいるところを見かける頻度が高くなっていた。
私は、望と愛美の会話を聞いて、望の考え方に自分も近いことを自覚している。しかも中学の時、村八分にされていた経験があるので望には同情的だ。かといって奈緒みたいに話しかける事も無い。もともと望と会話らしい会話をしたことがなかった。
中学の時はいつも家で泣いていた。私も望みたいに気丈に振る舞ったただ、望の方があの頃の私よりずっと平然としているように思える。望には渉や有美もいるし、サークルの仲間もいる。クラスに拠り所がなくても、きちんと学校には居場所を確保している。
あの頃の私とは違う。私は私の苦しみを誰にも相談できず、独りで消化してきたのだ。
「望に私が努力したことを同情して欲しいのかな?」
望は未だに、小夜を見つめている。奈緒との交流が継続しているから、奈緒の親友(あるいは恋人)である小夜へ繫がる道を諦めていないのだろうか。
だとしたら、望も恋愛に対して幼稚であるとしか言えない。
望は独り言を吐いた
「まっ、礼儀だな。小夜さんにとっては僕は悪い条件じゃないだろうに、奈緒さんや菫さんくらい自分が美人だと思っているのだろうか。まあ、愛美さんとの一件もあるし、引き際だな」
なんという偶然なのだろうか?あるいは望は私の心が読めるのではないかとさえ疑った。同時に望に対して憎悪が芽生えた。私のことをモノのように”美人”と簡単に表現する客観性が気に入らない。こいつは女だったら誰でも良くて
こいつのせいで下着を汚した私がひどく恥ずかしくて悔しくなった。朝の疲労を全部望に返してもらいたい気分だ
「奈緒さんに気を使っているのかな」
望のその言葉に仮説が破れた。望が奈緒の気持ちに気付いているならば、話が変わってくる。これは難題だ、名探偵ビオラの名に掛けてこの謎は解かねばならない。
授業が始まると、小夜のことは口にしなかった。そもそも、望の授業態度は真面目である。
同期に距離を置かれてからは、教室の一番前で授業を受けている。教授の言葉に何度もうなずき、授業が終われば教授のところに質問に行き、談笑している場面も何度か見ている。
同期に村八分にされることは望の学生生活に何ら支障の無いようにもみえる。
望は学食で昼食を取っている。私はいつもお弁当を持ってきているが、朝の1件で今日は作るどころではなかった。望に話しかけようとしたが、勧修寺有美と一緒の席だったので遠慮した。一瞬、望と目があった。望は笑顔で返した。私は逃げるように望に背を向けた
「望、目がいやらしいぞ」
有美がからかう
「あいつ、いいケツしてんな、今までずっと気付かなかったけど」
望、死ねと思った
「望がショートカット以外にも興味を示す女性がいるんだ」
有美の言葉に愕然とした。確かにクラスでショートカットは小夜だけだ。でもなんで、あの小夜なのだよという気持ちになった
「僕は唯一、髪の毛の長い女性に自分から声かけた事があるんです。その子は、最高の腰回りで、彼氏がいるのに人前で声をかけちゃいました」
有美はクスクス笑いながら
「望にショートカット以外の性癖があるなんて知らなかった。ケツで女選ぶんだ、望は」
「腰回りは最高でしたけど、本音を言えば、話していたら好きになっちゃいまして、僕は彼女の彼氏より彼女を笑顔にする自信がありましたから」
「へぇ~人前で声を掛けるなんてやるじゃん」
「言わないで後悔するのは僕の主義じゃないですからね」
「私はまだ口説かれてないぞ」
「人妻には手を出しませんので」
「望!発言が矛盾しているぞ」
「有美さんいつも笑っているじゃないですか」
2人は笑った
「菫さんが学食なんて珍しいな」
「さっきのポニーテールか?お昼位は食べるだろう」
「彼女いつもお弁当なんですが、今日はどうしたのかな」
「詳しいな…ああ、そういう事か。豊満なお尻を知る前からポニーテルのあの娘が気になっていたのか」
「彼女は高嶺の花ですよ」
「望なら役不足でもないだろう」
「彼女は多分、有美さんと同じでIQ150超えの女性ですよ。僕が出逢った3人目の人」
2人の会話を聞きながら、今朝の夢を思い出した
”高嶺の花か”
小さな声で呟くと、太っていた頃の私と、モテていた頃の私が蘇った。私はIQを調べたことはない。真偽は分からないが、有美の他にもIQ150超えの女性と交流があることには驚いた。
そして、望の私に対する評価が異常に高いことにも驚いた
「望がそう言うのなら、そうなんだろう。ポニーテールと話してみたいから付き合っちゃえよ」
有美は望の発言を否定しなかった
「僕は化学科の問題児ですから、菫さんを巻き込むつもりはありません」
「IQ150超えなら望の魅力を理解できるだろう、あの残念なショートカットよりはマシだろう」
「小夜さんも、菫さん程ではないですけれど、IQ130超えの女性ですよ」
「ああ、IQ130位の奴がいちばん社会適応性が乏しいんだ。自分のIQをひけらかして、もっと世の中に評価されるべきだと思い上がる連中だ。
IQなんて相手に知られて良いことなんかないんだ、あの分布の大多数はオツムが足らないんだよ」
「まあ、確かに小夜さんは社会適応性に乏しいかもしれないですね」
「当たり前だ、お前を選べないバカ女だ」
望は笑って
「もう潮時は過ぎています。あの愛美さんとの1件以降、明日は生まれないとは思っていましたが…
あのときに声を掛けた腰回りが最高の女性同様、彼女を笑顔にする自信が有ったんですけどね・・・。
今日、クラスの飲み会があるので
「望、人生は慈善事業じゃないぞ。下らん女に気を遣って生きる人生なんてつまらないだろう」
「でしたら、帷が下りたら、”みくり”さんを紹介頂けないでしょうか?」
「みくりは止めておけ、絶対さっきのポニーテールにした方が良い。多分ポニーテールも生きづらさを感じている筈だ。こっちの世界に引き込んでやれ」
「文系専攻で右傾の女性なんてそう簡単に出会えるものではありません。恋愛に発展しなくてもお話してみたい」
「止めておけ」
「あれ、学食?珍しいね」
肝心なところで茶々が入った。私の特殊聴力は聖徳太子のように複数の声を同時に理解することはできない。
声の主は奈緒だった、小夜も一緒である
「学食狭いよね、時間ずらさないと座れない」
2人は前の席に腰を下ろした。私は望と有美の話を聞きたいのに、奈緒にインターセプトされた形だ
「今日は寝坊してお弁当を作れなかったよぉ~」
奈緒が薄笑いを浮かべて
「今日は随分めかし込んでいるね、誰かお目当てでもいるの」
合間に聞こえる有美の声は望が声をかけたショートカット以外の女性の話を聞いているようだ
「どうしたの黙っちゃって、もしかして図星?」
私が聞きたいのは望の話で、そんなことはどうでもいい。私の口から意図しない言葉が漏れた
「のぞみ…」
失言に気付いたときには、奈緒と小夜の表情が凍りついていた。こうなると有美と望の話どころではない
「望くんが小夜ちゃんを好きなこと知っているけどぉ~、小夜ちゃんがその気がないなら望くんとお話位したいなぁ~って」
奈緒が怒りを抑えていることは十分読み取れる。しかし今更後には引けない。
<つづく>
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