第7話


 今年初めて肌で実感した秋風が、忘れていた秋の郷愁を思い起こさせてくれた。一昨日の運動会の日はまだまだ暑い夏が続くと思っていたのに、二日経てばもうこんなにも涼しくなるのか。毎年この季節になると、いつから制服を秋仕様にしようかと迷いだす。どうやらみんな同じ気持ちのようで、「いつから変える?」と女子も男子も友達と確かめ合っていた。ただ半袖のワイシャツの上にニットベストを重ねるだけなのに、一大イベントみたいに身構えてしまうから、年頃の男女はめんどくさい。


 二年七組の教室へは、昼休みにお弁当を食べ終わってから訪れた。放課後では捕まらないかもと思ったし、早いとこ彼女にお礼を伝えておきたかった。高校生なので昼休みに外に出る人はごく少数で、大抵の人間は教室にいる。友達とダラダラと、失われつつある青春の時間を無駄遣いしていた。


 七組の教室を覗くと、すぐに松葉実里の姿を発見した。というのも、彼女がすでにニットベストを着ていたからだ。クラスでただ一人、紺色のベストに身を包む彼女は周りから浮いているように見える。こういう現象を回避するために、俺たちはみんなで足並みを揃えてベストを着ようとしていた。


 彼女は自分の席について、静かに本を読んでいた。カバーが掛けられているので、何の本なのか分からない。俺は小さく「失礼します」と呟いて、恐る恐る七組の教室に足を踏み入れた。誰も俺のことなど見ていない。昼休みには他クラスの人間がいろんな教室に入り混じっているので、俺もその一人に過ぎなかった。


「松葉さん」


 読書に没頭している彼女に悪いと思いつつ、俺は彼女の名前を呼んだ。彼女ははっと顔を斜め上に傾ける。ちょうど彼女の真上に俺がいるような構図になって、なんだか急に恥ずかしくなった。


「えっと、五十嵐くん?」


 きょとんとした顔の彼女は、なぜ今俺が自分の前に立っているのか理解できない様子で首を傾げた。


「ああ。この間、運動会の日、俺が熱中症で危なかったところを保健室まで運んでくれてありがとう。なんというか、すごい助かった」


まさか今日お礼を言われると思っていなかったのか、彼女は「あっ」と、ようやく一昨日の出来事を思い出したようだった。


「いや、あれぐらいは全然。目の前で倒れられたのに放っておく方が難しいよ」


「そ、そっか。確かにそうだよなー……」


 あまり俺と会話したくないと思っているのか、松葉実里はそのまま読んでいた本に再び視線を落とした。これで終わりか。まあそうだよな。普通、運動会でちょっと話して保健室に運んだだけの相手に、これ以上関わろうとは思わない。ふと、自分が彼女ともう少し話をしたいということに気づいた。なんで俺、期待してたんだろう。なんで運動会で熱中症から救ってくれた彼女にお礼を伝えただけで、それ以上の見返りを求めようとしてるんだ。


「体調はもう、大丈夫?」


「第二章」と書かれたページの手前で栞を挟んだ彼女が、再び俺と視線を合わせてきた。不意の出来事に俺はドギマギしてしまう。


「……大丈夫。おかげさまでこの通り」


「それなら良かった。ちょっと心配してたから」


 会話自体は落ち着いているのに、彼女の口から溢れてくる自分への気遣いに、俺の中である一つの情動がぶわっと湧き上がるのを感じた。その正体が何なのか、わざわざ考えるまでもない。

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