くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて

四谷軒

01 蕩児ナブリオ

 くだらない。

 何もかもが……すべてが。

 くだらない。

 ナブリオは酒精アルコールのこもった息を吐き出すと、隣ですうすうと寝ている女の髪に軽くキスをして、ベッドから起き上がった。

 鳥の鳴き声が聞こえない。

 道ゆく馬車だの兵隊だのの喧騒が響いて、聞こえないからだ。

 つまり、もう朝ではない。

 昼日中だ。


「くそっ」


 ナブリオはと毒づきながら、卓上に残っていた葡萄酒を飲み干す。

 女に溺れるのは、自分の悪い癖だ。修正しなくてはと思いつつ、また、やってしまった。

 こんな時刻では、もはや本日の務めに……。

 そこまで考えたところで、ナブリオは思い出した。


「……そうだ、僕は予備役だった」


 つまりは真面目に務める必要はない。

 であればこの名も知れぬ女ともう一戦しても、問題あるまい。

 何しろ、金銭かねは払っているはずだ。

 記憶はないが。

 いずれにしろ、このナブリオーネ・ディ・ブオナパルテが時刻を心得ないくらいなのだ、この女にも、まだ夜か早朝だと思わせておけば……。

 そこまで考えたところで、無粋なノック音がすべてを台無しにした。

 さすがにそういう商売の女だけあって、ノック音には耳聡く、さっさと衣服を身につけ、さよならオールヴォワールの一言を残して、開いたドアから出て行ってしまった。


「何だ何だ、せっかくと思っていたのに」


 ナブリオは舌打ちしながら毒づいた。

 開いたドアの向こうに立っていたのが、痩せぎすの、貧相な小男となれば、なおさらだった。

 小男が言う。


「あのような女は、そうしたを上回る金銭をふんだくるぞ」


 だのだのとのたまってな、と小男は酷くつまらなさそうな表情をした。

 そしてナブリオの最近の名乗りを口にして、懐中から一通の書状を取り出した。


「総裁政府、ポール・バラス国内軍総司令官からの書簡しょかんだ」


 ナブリオがその書状を何気なく受け取ると、たしかにポール・バラスとの署名があった。


「バラス!」


 ナブリオは、いかにも馬鹿馬鹿しいといいたげに、その書状を卓に打ちつけた。


「あの悪徳の士が! あの港の戦いで僕は勝った。勝ったけれど怪我をした。そして奴は、僕が伏せっている時に、捕虜を殺したんだ。殺して金銭かね……」


「知っている」


 小男は眉一つ動かさずに、ナブリオの言を肯定した。

 そんなことより、召喚命令に応じるのかと、むしろそちらの問いに表情を動かしていた。

 凍った視線で、覗き込むような表情に。


「……何だあんた、バラスといるのか? だったらちょうどいい。やっこさんにこう伝えといてくれ。バラス、あんたは熱月テルミドール九日のクーデターでうまくやったかもしれない。だが、あんたをトゥーロンで勝たせてやったこの僕は予備役の体たらくだ。革命に邁進し! 郷土を解放しようとしたが逆に! ついにはあんたがクーデターをおこしたせいで、つまり革命に邁進したのがとなって、予備役だ! くだらない! 今、くだらないことのすべてが、僕の頭上にある! バラス、そのあんたが何のゆえをもって僕を……」


「その書簡を読め、ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ」


 いや最近名乗りを変えたのだったなとこぼしながら、小男は改めて言い直すと、卓上の書簡を手に取り、ナブリオに開いてみせた。

 ナブリオは怪訝そうな表情をして、その書面に目を走らせた。

 一秒後、「ほお」と呟き、いっそ芝居がかった仕草で書簡をつかみ、小男の掌中から取る、いや、奪った。


「……これはこれは! ポール・バラス国内軍総司令官閣下におかれましては、未曾有の窮地に追い込まれていらっしゃる!」


 ナブリオは意地の悪い笑顔を浮かべながら、書簡をひらひらとさせた。

 その書簡に述べられていることは、まず、パリにおいて、革命政府──当時は熱月テルミドール派と呼ばれるクーデターで政権を奪取した者たちの政府──に反抗する王党派の蜂起が間近であること。

 次いで、熱月テルミドール派の有力者であるバラスが国内軍総司令官(全軍の司令官ではなく、国内治安維持の軍の総司令官)に任じられたものの、打つ手がなく、かつ、現場を知る有能な指揮官に欠けるため、立ち往生していることが述べられていた。


「……フン、バラスめ、それでようやく借りを返す気になったか」


 今や、胸を揺らすことのすべてがここにあるといいたげに、ナブリオは書簡を頭上でくるくると回し始めた。

 小男はその様子を笑うでもなく呆れるでもなく、ただウイノンかを問うた。


ウイ! いいだろう、バラス。一度、もう一度だ、助けてやろう。助けてやろうではないか! そして今度こそ、この僕にくだらないことのすべてを押しつけるなどという真似は許さん。それだけは……それだけは伝えておけ」


 まるで皇帝ランペルールのように小男を睥睨へいげいするナブリオ。

 だが小男――ジョゼフ・フーシェは、その視線を逆に感心したように受けとめた。


「よかろう。ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ、ではなく」


 フーシェは何度目のことか、ナブリオの――このコルシカ風の名前から、最近フランス風に名前に変えた男の、新たな名乗りを朗々と言った。


「……ナポレオン・ボナパルト」


 時に、西暦一七九五年十月。

 革命歴(共和暦)四年、葡萄月ヴァンデミエール

 ヴァンデミエールの叛乱、と呼ばれる王党派の蜂起があった。

 それを制圧すべく、革命政府は有力者ポール・バラスを国内軍総司令官に任命。

 そのバラスは鎮圧の指揮を、自身の知る稀代の軍人に託した。

 その名をナポレオン・ボナパルト。

 これは――ナポレオンが、「ヴァンデミエール将軍」と称せられるに至る、その挿話である。

 

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