12月19日~12月21日

12月19日(火) 22:39


【虎怪人が痙攣する。突然、身体の皮膚が捲れ、花弁のように広がる。オノさんは躊躇いもせずに腕を突っ込む。探し物をするみたいに、内臓をまさぐっていた。引き抜くと、手に小さな物体があった。モザイクがかかったみたいに、物体としての本質がまったくわからない。目を細めたり、瞬きを繰り返して、ようやくリンゴのような果実に見えた。

オノさんが注意深く赤子を持つような手つきで、果実を両手に持ち胸に抱いた。刹那、眩しさに目を閉じる。目を開けたときには、果実は消えていた。

怪人は、人間の姿に戻っていた。】


「これは、何なんですか」

 声を荒げ、河ヰはオノに詰め寄る。不知不識しらずしらず、身体が動いていた。

「おう、元気そうで」

 オノは、男の服や袖を捲っている。ズボンも捲り上げ、何かを確認しているようだった。

「何してんですか! 茶化さないで。何が起こってるんですか」

「すべては、元通りや」

 オノが指を差す。指示された方向にカメラが旋回する。

「えっ、そんな」

 真っ二つになっていたジャングルジムは、オノの言葉通り、何事もなかったかのように原状復帰していた。

「あの、あの、オノさん」

 振り返ると、オノは公園入口に駐車させていた流線形の大型バイクに跨っていた。

「えっ、ちょっと。帰る気ですか。あの人は、どうするんですか?」

 逃がすまいと、旺盛に走り寄る。

「ほっとけ。そのうち、目覚ます」

 ダストパンクと同じ、漆黒の大型バイクの鍵を回す。ハンドル下の液晶モニターが点灯。

「そのうちって。また、虎になったら、どうするんですか」

右グリップ横のスタータースイッチを押す。けたたましい音をあげて、車体がエンジンに震える。

「それはない」

 グリップを回して空ぶかしする。負けじと怒鳴り声をあげる。

「どうして、わかるんですか」

「あのなぁ」

 うんざりしたように言う。

「はい」

「良い子はお家に帰って、寝る時間や。ほな」

 言うやいなや、轟音をあげて大通りに走り去った。

「いや、あの、ちょっと。一人にしないで!」

 情けない叫びは、オノの背に追いつけなかった。


【クソッ! 何なんだよ! あの人は。勝手すぎる。あぁ、どうしよう。虎の人、まだ倒れてるけど。目を覚ますってことは、気絶してるだけってことだよな。このまま、帰ろうかな。いやいや、ここは起こすべきだろ。情報を引き出すチャンスかもしれない。いや、もし、目を覚ましたとして。また、カメラ取られたり、蹴ったりされたら。あの人、狂暴だもん。太腿蹴られたしな。痛かったなぁ。だったら、スルーで良くないか。いや、どうする。さすがに、しんどい。ただでさえ、情報量に頭が沸いてるのに。あれ、そういえば、なんで身体動いてる? 肩も痛くない。これも、あの人が? オノさんに投げ飛ばされたときにぶつけた右肘は、まだ痛い。どうなってやがる。

あぁ、どうしよう。本当に、虎にならないかな。】


 物音にカメラが振り返る。大木のそばで横になっていた男は、座り込んでいた。


【起きてるぅ!!!

 どうする、どうする。

 よし! ここは、ヤバそうだったら全力で逃げる。】


 おっかなびっくり及び腰で、ゆっくりと歩いていく。

「大丈夫ですか」

「ここは…」

「城東公園」

 男が頭を引きちぎる勢いで掻き毟る。前髪が掻き上げられた拍子に、つぶらな双眸が現れる。幼さの残る面立ちに、土埃がついていた。

 火花が弾けるほどの蹴りを浴びた顔には、傷一つなかった。

 河ヰは一瞬怯んだが、男は気にしていなかった。

「そっすか。あぁ、痒い」

 入浴すらできていなかったことが、容易に窺える。

「どこか、痛いとことか、ない」

 男は、探し物をするように、身体を手で触る。

「あれ、僕、死んでなかったっけ」

「はぁ?」

 素っ頓狂な声に、男は目を丸くした。



【おかしい。現実の現象としては、映ってるけど。虎の姿は、どこにもない。ただの、暴力動画。どうなってんだ。しかも、本人、覚えてないって言ってるし。】


いましがたの喧騒が嘘のように、閑散としていた。

ベンチに隣り合って座っているのか、カメラは男の横顔を映していた。目元を覆う前髪に、表情はわからなかった。手にした水のペットボトルを一気に飲み干した。

「どうなってんですか、これ」

「いや、こっちが聞きたいんだって。信じられんやろうけど、永瀬君が急に虎の怪人になって、俺、襲われて。それで、動画の黒い人が、君を人間に戻したんだけど。何度も聞くけど、本当に覚えてないの?」

 男——永瀬は、天を仰ぐと、だしぬけに苦笑した。

「生まれ変わったら、動物になりたいって思ってたけど。まさか、本当にねぇ。僕、狂ってたんですかね。これって、何かの病気ですか。夢遊病みたいな」

 他人事のように、素っ気ない。

「わからない。君が、怪人になることは、ないって言ってたけど」

「……今日って、何日ですか」

 顔を捻って、河ヰを見据えていた。ノートの記載にあったように、垂れた前髪が鉄格子のようだった。

「十九日の二十三時半だね」

「一週間。記憶がないですね。ヤバいっすね」

 頬が引き攣り、慄いているようだった。

「じゃあ、この一週間、虎の…なんていうか、人格に支配されてたのかな」

「多分」

 河ヰの軽挙妄動を咎めもせず、しっかりと頷いた。

「さっき、死んだみたいに言ってたけど」

「それも、多分なんですよね。夢だったのかな。自分の部屋のドアにタオルをかけて、首を吊ったんですけど」

 あっけらかんと、とんでもないことを言う。

「いやいや、テンションおかしいから。そんな、明るく言うこっちゃないから」

「僕、生きてますよね?」

「俺、霊感ないから」

 永瀬は安堵した様子だった。

「なんで、その、死のうと思ったの」

「いろいろ、あったんすよ。つまんない話っすよ」

「さっきも言ったように、俺は、この現象の謎を追いかけたいと思ってる。元々は、あの人を取材するつもりだったんだけど。乗りかかった舟。いや、もう乗っちゃってる。だから、聞かせてくれないかな」

 決意のこもった真剣さに、永瀬は頷いた。




「僕、県外の大学を卒業して、こっちに帰って来て。医療器具メーカーの営業職に就いたんんです。最初は、同期たちと楽しくできてたんですけど。この四年で、気付いたら、成績最下位になってて。

 そこに嫌な上司がいるんですよ。いっつも、僕だけ、小言もらって。一枚の書類に一文字でも誤字があるだけで、三十分は説教ですからね。そんなだから、お客様からもクレームもらっちゃって。その内、同僚が請け負ったお客様のクレームまで対応させられて。それがエスカレートして、同僚の仕事も全部回されて。

 自分では、コミュスキルは、普通以上にあると思ってたんですけど。友達も多いですし。向いてなかったんでしょうね。毎日、残業に、休日出勤まで。それを、給料泥棒みたいに言われて。こっちからしたら、他人の仕事まで押し付けられてんのに。定時で帰れって、無理ですよ。

 このままじゃ、いけないと思って。営業成績のいい同僚に聞いてみたんですよ。どうしたら、いいのかって。そしたら、そいつ、営業の本質は、根回しと味のしない菓子折りだって言うんですよ。もう、自分がどれだけ子供だったのか。馬鹿みたいですよ。

 毎日、毎日、書類にクレームに大忙しで。自分の営業にまで、手が回んなくなって。

 彼女とも、別れたんですよ。ストレスですかね。勃たなくなって。そういうのもあって、別れました。

 毎日、死にたい。人間やめたいって思って。

 たまに、ニュースで過労死とかイジメ自殺の報道があるでしょ。そういうのを目にするたびに、いたたまれなくなって。僕は、この人たちの苦しみに比べたら、まだマシだって思ってたんですけど。

 そうやって、意固地になると、感覚が麻痺するんですよ。これが普通だって。

 休みに、家で横になってると、起きれなくなるんです。もう、すべてがどうでもいい。何にもする気が起きない。涙も出てきて。その内、曜日や時間感覚もなくなって。ご飯もおいしくなくなって。

 この間、人事考課があったんですけど。嫌な上司が、やる気が見えないとか、自分の強みがわかってないから、契約に結び付かないんだって言われて。もう、昭和の精神論ですよ。だから、聞いたんですよ。僕の強みは、何でしょうかって。口開けて、驚いてましたけど。永瀬君の強みは、お客様からヘイトを頂くことだよ。そうすれば、同僚は、ストレスなく働けるから。立派な君の能力だよって。

 なんか、もう、力抜けちゃって。もう、どうでもいいやって。思い知ったんですよ。自分の無能さを。無力さを。自分は、必要のない人間なんだって。

 こんなに、弱い人間だとは知らなった」

 出されたカンペを読むように、平坦な話し方だった。

 カメラは足元を映していて、永瀬が足で砂をかいていた。

「相談できる人はいなかったの」

 震える声に、永瀬は顔をあげる。

「えっ、なんで、泣いてるんですか」

「いや、まぁ、ちょっと、ごめん」

 画角が右往左往していた。ビニールを開ける音がする。

「ああああああ、アルコールが目に染みるぅぅぅぅぅ」

 おそらく、昼間にコンビニでおにぎりを買ったときにもらったおしぼりで涙を拭いたのだろう。

「大丈夫ですか」

「うん、大丈夫。あああああ、目がスースーする」

 服の袖で拭う気配がする。

 本当に何やってんだ、この人は。

「目、赤くなってますよ」

「気にしないで。大丈夫だから。話を戻そう」

「えっと、あぁ、相談できる人は、いたはいましたけど。みんな、引いちゃって。そりゃ、そうですよね。みんな、自分のことで精いっぱいなのに。他人の愚痴や悩みなんか、聞いてる暇ないですよ。

 人はいても、結局、一人なんですよ。あれだけ、友達って言ってたのに。河ヰさんだけですよ。聞いてくれたのは…」

 河ヰの涙が誘い水になったのか、永瀬は鼻をぐずらせ、服の袖で目元を拭った。

「辛いなんて、一言じゃ言えないけど。俺もさ、昔、似たようなことがあったんだ」


【介護のクズに、すべて吐き出した。永瀬君の話を聞いていると、胸が苦しくなる。思い出したくもない、トラウマ。クズに蹂躙された心は、生きながらに殺される。だが、一番のクズは俺だった。だから、介護をやめた。逃げた。作品に昇華させることで、やっと乗り越えることができた。】


「お互い、大変でしたね」

「あぁいう、パワハラする上司ってさ。パワハラにギリならない絶妙なラインを狙ってくるでしょ」

「わかります」

 永瀬は強く頷く。

「俺、介護やってたんだけど。そのときの、パワハラ事案の役員だったのが、嫌な上司でさ。本人にされたことを、本人に伝えるわけにもいかんし。どこに言えばええんやってなって。みんな、ここに正義はないって言うとった」

「うちも、うちもです」

 河ヰが「うぇーい」と両手を掲げると、永瀬が両手を重ねて、渇いた音を立てた。

「俺も、似たような感じだったな。死にたいって思ってた。剃刀の刃を手首に当てるのが限界だったけど。昔、友達がいてね。一緒のコンビニでバイトしてたんだけど。俺が介護を始めて、少しして、ホストになったんだ。無駄にイケメンだったからね。彼も介護時代の俺と一緒で、死にたいって口癖みたいに言ってて。その彼が、死んだんだ。突然。友達やコンビニの同僚に、誰にも知られることなく。事故だったんだけど。いくつも。何度も。たくさんの、後悔でいっぱいだった。俺が死にたいって思ってた気持ちなんて、所詮は虚仮威しこけおど。自分の傷を慰めるだけの、道具だった。だけど、彼は違う。どうして、助けてあげられなかったのか。どうして、連絡の一本もあげなかったのか。もし、永瀬君が本当に死んでたら。誰か一人くらいは、そう思う友達がいたと思う。だから、もう、死ぬんじゃないよ。俺と君には、もう縁ができたんだから」

 二人して、声をあげて泣いた。お互いのためを思っての、優しい涙だったのだと思う。

「ところでさ、なんで、虎なんだろ。阪神好きとか」

「野球は興味ないんで。単純に、強いって思ったからでしょうかね。孤高に生きてる感じがして」

「きっと、つまんないよ。こうやって、話せる相手がいないと」

「ですね。なんか、不思議と気分がいいんですよ。胸のつかえが取れたみたいな。もう、虎にはなりたくないですね」

 髪をかき上げ、しっかりと双眸で天を仰ぎ見る。

「一応、病院行って検査してもらいな」

「それも、そうですね。あっ、会社! まっ、いっか。どうせ無断欠勤してますしね」

 永瀬は、屈託のない笑みを浮かべていた。



12月20日(水) 18:00


【散々歩いて、収穫はない。どこにいるんだ。また日曜までは待てない。結局、またここに来ていた。一番可能性が高いのは、城東公園。】


 入口脇のベンチに座り、煙草を吸っていた。足元を映した画角に、紫煙が漂う。ときおり、遠くから車が行き交う音や、人の話し声がする。街灯の下にいるのか、カメラに明瞭に映っていた。


「まだ、おったんかいな」

 振り返ると、見下ろしている男がいた。

「どちら様ですか」

「俺や。ダストパンクや」

「オノさんですかっ」

 向こうから声をかけてくれたのは、僥倖。河ヰは、大声をあげていた。

「うるっさいのう。デカい声出すな」

 オノは、上下グレイのスウェットに、スポーツバッグを肩に担いでいた。隣に座ると、バッグを地面に置いた。

「何やってんですか」

「仕事帰りや。お前こそ、何してんねん」

「んなこたぁ、どうでもいいんですよ。教えてくださいよ。昨日の、あれは、なんだったんですか」

 鼻息荒く詰問する。

「勘違いすんなや。声かけたんは、もう、うろつかれたくないからや。これは、忠告や。半端に、部外者に入ってこられたないんや」

 噛んで含めるように言う。坊主頭を撫で、金壺眼に潰れた大きな鼻は鷹を連想させる。

「嫌です。こんな、わけのわからない状況のまま、帰れません」

「お前なぁ、昨日、殺されかけてたんやぞ」

「助けてもらったことは、感謝してます。あの後、永瀬君と話したんですよ。虎の怪人の彼です。とても、いい子で。だから、そんな彼を狂暴にした原因を知りたいじゃないですか」

 オノは、まなじりを決した。

「喋ったんか。虎になってたこと」

「映像も見せましたよ。映ってなかったですけど」

「アホ。お前がしたことは、ただの自己満やぞ」

 無骨な顔が、険しくなる。

「どういうことですか? あのまま、放っとく方が、よっぽど無責任ですよ」

「ええか。俺ができるのは、化け物から人間に戻すだけや。そっから先は、責任持てん。お前、よく考えろよ。自分が、突然化け物になって人を襲っていました。あの男が、そんな現実を知ったら、どうなると思う」

 悲惨な末路になるのは、想像に難くない。

「世の中には、忘れた方がええこともある」

「死ぬほど悩んで苦しんで、そんな自分を忘れてしまったら、また同じことの繰り返しじゃないですか。いつか、乗り越えないと。俺だって、いろいろあって、ここにいるんですから」

 オノが、素早く間合いを詰め、河ヰの胸倉を掴む。

「乗り越えられん奴は、おるんや。ただの悪夢で済むなら、それでいい。道徳の授業ちゃうんやぞ。こっちは、命賭けてやってんねん。お前みたいな遊びちゃうわ。お前がやったことは、傷口に塩を塗っただけや。自分の欲のためにな」

「こっちだって、本気でやってますよ」

 鼻を鳴らして、手を離した。

「ほんまか。ずぅっと、フラフラして。どうせ、無職やろ。ええ年して、恥ずかしくないんか」

「関係ないでしょ」

「取材させてくれって、俺のことも、面白おかしく書くつもりやったんやろ。マジで迷惑」

 取り付く島もない。河ヰはスマホの画面を向けた。

「そんな、つもりないです。これ、俺が書いた作品です。カクヨム、介護のクズで検索してください。読んでもらえば、わかってもらえると」

 スマホを握る河ヰの手は払いのけられた。

「あぁ、もう、やめや。言うだけ無駄やったわ」

「待ってください」

 オノは立ち上がると、スポーツバッグを肩にかけた。

「お前、囚われんなよ」

 河ヰは、拒絶を背に歩き去るオノを見送るしかなかった。



12月21日(木)18:52


【疲れていたのか。今日は、寝て終わった。もう、取材は無理かもしれない。でも、諦めるわけにもいかない。どっちつかずのまま。モヤモヤしていた。御鍵に相談してみるのもいいかも。まぁ、信じられないと思うけど。

はりまや橋の交差点前。片側三車線、中央には、とさでん交通電車軌道が反対側と隔てていた。右手にパチンコの123のビルがあった。通りがかったときに、うっすらと糸のようなものが靡いているのが見えた。夜なのに、はっきりと見えた。吊り広告の切れ端にしては、違和感がある。

 御鍵との約束の時間まで、余裕はないが、何か気になった。原付のエンジンを切って、横断歩道を反対に渡る。エンジンをかけると、ビルの裏道に走った。

 裏通りに入ると、ビルの中程に、千切れたような数本の糸が靡いていた。驚いたことに、道行く人にも、付いていた。本人は気付いてないだろうけど。

 糸を辿っていくに従い、糸は束になり、まるで老女の白髪のようだった。】


カメラの画角に、ライトアップされた円形状の建物があった。高知市文化プラザかるぽーと。

 

“高知市文化プラザかるぽーとは、市民の文化活動と生涯学習の拠点として、高知市の文化を創造・発信する複合文化施設です。(HPより抜粋)”


「やっぱり、映ってない」


【かるぽーとには無数の糸が絡まりあって、綱と呼ぶレベルに達していた。建物全体を覆って、謎の生物の繭のようにも見えた。糸の出発点は、ここで間違いないだろう。】


「はぁ、これって。そういうことだよな。行きたくないなぁ。オノさん、来ないかな。あぁ、駄目だ。人を当てにするんじゃない。自分でやるんだろ。ョッシャ!」

 自分を鼓舞するために、掛け声を叫ぶ。

 辺りに人影はなく、かるぽーとの内部に照明が灯っていた。まるで、ケーキみたい。


【去年、大林さんのコンサートで来たとき以来だ。まさか、こんなことで、また来ることになるとは。】


 正面入り口横に、いくつかのライトアップされた縦長の箱が並列していた。中身は、掲示板になっている。

 正面に階段があり、その脇に一階入り口があった。階段をゆっくり、一段ずつ踏みしめる。二階外には、フロアに至る出入口と自販機、喫煙所が併設されていた。そのさらに、上。

今は止まっているエスカレーター横に『まんが館』の看板が支柱で折れ曲がっていた。


【おいおい、ヤバいって。看板、糸で曲がってるって。エスカレーターにも糸が。】


 河ヰは空中を手で払ってから、エスカレーターを上がっていく。


【ベタベタして気持ち悪い。】


三階に到着する。エスカレーター前にフェンスがあり『ただいまの時間、ご利用いただけません』の標識が垂れ下がっていた。

 全面、ガラス張りになっていて、コンクリートの梁が硬質な印象を与える。天井を見上げ

ると、二十メートルはあるだろう高さだった。

 宙に、人が浮いていた。

 息を呑む。


【天井一面に、綱になった糸が、網目状になっていた。まるで、蜘蛛の巣だ。絡めとられた虫みたいに、人が縛り付けられていた。】


 突然、ライン着信の音色が響き渡る。

 音に反応して、縛り付けられた一人の女性が顔をこちらに向けた。

「助けてぇ」

 ヒステリックな叫びに、身体が震える。

「いったい、どうなってる」

 フェンスに足をかけて、三階外に降りた。

「助けてぇ」

「おいっ、警察、消防、なんでもいい。助けてくれ」

 女性の呼び声が誘い水になって、サラリーマン風の男性、OL風の女性が一斉に絶叫する。

喉を掻き毟るような、悲痛な叫びに、背筋に寒気が伝播する。

「騒々しい。静かにしたまえ」

 物陰から、一人の紳士が現れた。身ぎれいにスーツを着こなし、七三分けにした白髪交じりの髪、整った面立ちはモデルのようだった。

 天井に向かって、口元に人差し指を当てた。皆、怯えて一言も発しない。

「あの、あの、これは」

 紳士は動じた様子もなく、鋭利な視線を向ける。

「ほほう、驚いた。君は、見えるのか。どうだい、素晴らしいと思わないかい」

「ふざけないでください。あなたがやったんですか」

「それは、カメラかな。この素晴らしい光景を録画できないのは残念だ」

 怜悧な印象から欲望丸出しの下卑た顔になった。 


【永瀬君は、虎に支配されていたとき、自我を失っていた。なのに、なんでこの人は、普通に喋れる。言ってることは、まともじゃないけど。】


「警察に通報します」

 スマホを取り出す。

 地震を疑うほどの、炸裂音が轟いた。

「よくないなぁ。そういうのは」

 人差し指を立てて、左右に振る。

 河ヰの足元に、血だまりができていた。源泉を辿ると、肉塊があった。四肢や頭が飛び散って、辺りに肉か骨かわからない残骸があった。性別の区別もわからない。

 声にならない悲鳴をあげ、後ずさって尻もちをつく。

「落としたのか。人を。殺した」

 思いついた単語を羅列することしかできない。

「君がいけないんだよ。余計なことを、しようとするから」

 紳士は右手を頭上に掲げた。


【きた。はじまった。右手から伸びた糸が、この人を包みこんでる。怪人になるんだ。逃げたい。でも、まだ捕まってる人が。どうする。どうすればいい。答えは出ない。普通の人間の自分にできることはない。

 糸が解けると、醜悪な怪人が立っていた。

 人型の蜘蛛だ。顔に付いた四つの黒い目がこちらを向き、口は裂け、牙が獲物を誘うように前後に動く。奇妙に膨れ上がった身体に、産毛が蠢動していた。尻の部分を後ろに突き出し、背中から蜘蛛の細長い脚が左右四脚ずつ生えていた。頭と腰に、しめ縄のように太い糸が巻かれ、紙垂が蓑のようにぐるりを覆って垂れ下がっていた。】


「あんたは、何なんだ」

「私は、愛の企業戦士。スパイダーマ——」

 右手を横に、左手を前に突き出して、足を屈伸させる。

「んなこたぁ、聞いてねぇよ。なんで、化け物になれるんだって聞いてんだよ」

「いかんなぁ。人の話を遮るのは。どんな教育を受けたんだね」

 河ヰは、ゆっくりと立ち上がる。

「質問に答えろっ」

「まぁ、いいだろう。卒爾な態度には目を瞑るとして。答えだが、私も知らん。最初は驚いたが、この現象を神からのギフトとして享受することにした。どうだ、いいだろう」

「気持ちわりぃんだよ」

 河ヰは、殴りかかったが、紳士は素早くスウェーし、宙に逆さまに舞い上がった。拳は空を切る。同時に、宙に浮いていた人間すべてが、落下した。まるで、つるべ落としだ。

 声をあげる間もなく、地面に叩きつけられ破裂音が響き渡る。

「なに、やってんだよ!」

 金きり声をあげる。


【こいつは、人の命をなんだと思ってる。人の一生を、勝手に終わらせて。】


「君がいけないんだよ。暴力を振るうから」

「人のせいにすんなっ。下りてこいっ」

 言い終わると、すでに目の前に立っていた。紳士が手を振り上げる。

 画角が、上下左右関係なく暴力的に、入り乱れた。


【なんて、力だ。ちょっと、腕を振っただけで、フェンスをぶち破って二階まで吹き飛ばされた。したたかに後頭部を打った。そう認識すると、唸りを漏らして、左右に転がる。遅れてきた痛みにじっとしていられない。息が苦しい。】


「君のせいで、新しい人間を調達しなきゃいけなくなった。私の能力、ミスター・ハラスメントは、相手の人生を覗くことができるんだ。人には言えない秘密を知る快感は、一度知ったら癖になる。特に、若い女が好みでね。クールぶってるが、レイプされた過去を持つ女、職場では真面目な顔をして、裏では風俗や援交で金を稼ぐ女、不倫、浮気、収賄。女の裸どころか、人生すべてを丸裸にして、しゃぶりつくすのはセックスより気持ちいいぞ」

 紳士は、高笑いをして、股間を弄る。

「変態。薄汚い虫ケラ」

 か弱い声で、呟く。

「失礼な。貴様のような学のない人間に理解できないだろう。毎日、血反吐を吐いて厳しいノルマをこなし、部下の不始末の尻ぬぐいをさせられる。この能力があったからこそ、人を蹴落とし、会社の業績も伸ばし、今の地位を築けた。私は、会社にとっての益虫なんだよ!」

 河ヰの身体が、宙に浮いた。


【痛っ。そう思ったときには、蜘蛛の脚が背中に刺さっていた。吊り上げられると、錐をねじ込まれる痛みに戦慄する。】


「あああああ」

 苦痛の叫びが、漏れる。

「男は趣味じゃないから、嫌いなんだが。まぁ、いいだろう。私が見える人間には、実に興味がある」


【蜘蛛の糸が額を貫通した。痛みはない。ただ、内臓を攪拌されるような不快感に襲われた。ポリグラフ検査の針に似た動きで、蜘蛛の脚が紙垂に文字を書き込んでいく。】


「俺の人生に興味を持つな。キモい」


【全身を蜘蛛が這いまわっている感覚に襲われる。頭を打ったからか、首筋に液体が流れているのがわかる。確認したくないけど。吐きそう。】


「最近の、若者は他人に興味を持たない。だから、敬意も払えない。なのに、向上心だけは一丁前にある。自己啓発本だの、金を稼ぐ方法だのをネットで読み漁る。灯台下暗し。自分が伸し上がるための情報は、周りにたくさんあるじゃないか。他人への興味は、尽きないね」


【蜘蛛怪人は、腰の紙垂を引きちぎった。】


「ほう、君の両親は聴覚障碍者。おまけに知能レベルにも障害の疑いがあるだと。簡単な計算、読み書き、一般的な社会常識が欠如している。祖母は宗教にハマり、祖父は酒、煙草、女、ギャンブルで身を持ち崩して、家族に迷惑をかけていた。

 家族仲は、相当悪かったみたいだね。喧嘩が絶えない。罵声と暴力の毎日。祖母の唯一の生きがいは、君を大学に入学させること。なぜなら、君以外の孫は、全員大学に入学しているから。そのために、塾や家庭教師まで雇ったのに。成績が伸びず。やがて、見放された。『所詮、お前は、あの女の血を引いてるクズだから』

 ほぅ、強烈だね。この言葉を言われたときは、どんな気分だった」

「うるせぇ、ほっとけ」


【蜘蛛の脚が、さらに喰いこむ。】


「口の利き方には、気を付けろよ。これだから、障碍者の子供は。お前の家族、全員底辺じゃねぇか。そして、お前は、無職で少ない貯金を切り崩して生活している。仕事はできない、友達もいない、女もいない。童貞。ウケる。女に相手にされない。パパ活みたいに、貢ぐだけで終わり。マルチに勧誘されたこともある。

『ブサイクだからムリ』

 痛烈ぅぅぅ。これ言われたとき、どんな気分だった。

 お前の人生、終わってんじゃん。もう死んだ方がマシだろ」

 腹を抱えて、爆笑していた。


【嗤われる人生。今まで、たくさんの人間に嗤われてきた。】


「ほう、なるほど。そういうことか」

 このクソ野郎は、一人で宙を見ながら納得していた。


【お前たちは、人を嗤って、楽しいのか。】


「おいっ」

 河ヰが声をかけると、クソ野郎は絶叫をあげた。


【ムカつく。ムカつく。こいつだけは、絶対に許さない。

 蜘蛛の細い脚を身体を捻って掴む。継続する痛みには慣れた。

 掴んだ脚を全力で、捻じ曲げた。引き抜こうとする脚を一対は逃がしたが、掴んでいるコイツだけは絶対に離さない。足が地面についた。重心を下げ、身体を反転。脚を捩じ切った。】


「ああああああああああ」

 クソ野郎は、喚いて後ずさろうとするが、止まる。


【額の糸は切れていた。千切れた脚を掴んで手繰っていく。絶対に離さない。逃がさない。】


「お前、俺を嗤ったか。もっと、嗤えよ」

 少しずつ額にある何かを握って、クソ野郎に近づいていく。画面外からでも、鬼気迫る迫力を感じる。

「おい、離せ。こっちに来るな」

 逃げようとするが、幽霊にでも身体を掴まれているのか、身動きが取れない。


【最悪な家庭だったけど、それでも幸せはあった。悪意を持った部外者が、知ったような口を叩くな。】


 顔が息のかかる距離に詰め寄った。

「障碍って言うのはなぁ、……お前のことだっ!」


【心火を燃やす。

蜘蛛怪人の腹に、全力の拳を叩き込む。柔らかな感触に構わず、貫通させるつもりで全体重をかけた。

奴は、階段下に吹っ飛んだ。咄嗟に出した糸を周辺にあった糸に巻きつけ、勢いを相殺。地面への直撃を防いだ。】


「健気なやっちゃな」

 倒れ込み、階段に転げ落ちそうな身体を、手が支えた。

「オノさん」

 素顔は出して、ダストパンクの装備を着用していた。

「俺は、知ってるんですよ。人間の弱さを。だから、ここにいる。弱さを認めることができたから、一歩を踏み出すことができたんです。もう、当事者なんですよ。どうですか、俺の本気。認めてくれますか?」

「お前」

「河ヰです。お前じゃなくて、河ヰです」

 オノは頷く。

「あとは、任せとけ」

 ゆっくりと、丁重に河ヰを地面に座らせる。空中に浮いているクソ野郎に、向き直る。

 クソ野郎は蜘蛛の巣にかかった虫のように、身体全体でもがいていた。

「さっきから、何しとんねん」

「ひぃ、ひぃ、助けて。う、動けん」

「お前、自分の糸の粘着にやられとるやん」

「いきなりで、出す糸間違えたぁ」

「アホか。まぁ、ええわ。そのまま、そこにおれよ」

 左手に持っていたフルフェイスに似た仮面を被る。パチンッと音がして、ロックされたようだ。

「セイソウ」

 呟いて、ちょうど腸骨にあたるベルト右横のトグルスイッチのつまみを指で弾いた。後ろ姿だが、鮮やかな色が、背面にもライン状に縁取られていた。

 ベルトから取り出したパーツをブーツに装着。今度は、ベルトの左横のトグルスイッチのつまみを手で押し上げた。

 電子的な金切り音が、カウントダウンを刻む。助走から疾走。

「トゥ!」

 旭日昇天の勢いで飛び上がり、階下の男に、飛び足刀を叩き込んだ。電撃が爆ぜる音がして、串刺しにされたまま地面に激突した。


【俺は、オノさんの後を追った。

 蜘蛛怪人の身体が、開かれた。腕を突っ込んで、モザイクの果実を取り出す。祈るような仕草で、果実は消滅した。オノさんは、また人間に戻ったヤツの服を捲っていた。背中に刺さったままだった蜘蛛の脚も、身体の痛みも消失していた。俺は、倒れた元蜘蛛怪人の胸倉を掴んだ。】


「おいっ、おいっ」

「やめろ。何してんねん」

 男は、意識を取り戻した。

「あれ、ここは…」

「おいっ、あんた」

「えっ、やめて。怖い」

 怯えて、顔を手で守ろうとする。

「あんた、自分がいざとなったら、人を殺せる人間だって知ってたか! 人の命を奪ったことを後悔しろっ! 自分の弱さに、人を巻き込むな!」

「ええ加減にせぇ!」

 オノが河ヰを突き飛ばした。

「ほら、はよ行け」

 当初の紳士的な態度の面影もない。奇声をあげて、走って行った。

「気が済んだか」

「はい」

 河ヰは、力なく座り込んでいる様子だった。

「こんなことしても、意味がないってわかってます」

 遠くから、人の声がする。

「えっ」

 カメラを向けた。かるぽーとの階段を下りてくる数人の人影があった。

「これが、俺の能力や」

 仮面を外すと、顔に汗の滴ができていた。

「良かった。本当に、良かった」

 鼻を啜り、涙を流しているのだろう。

「いろいろ、悪かったな。言い過ぎたわ」

「こっちこそ。オノさんの気持ちも考えないで。蜘蛛に同じことされて、わかりましたよ」

 河ヰは、右の手の甲をカメラに向ける。皮膚が細かく斑点に裂け、出血していた。

「俺が、治せるのは、あくまでも、化け物——インガにやられた傷だけや」

「すごく、痛かったです。だけど、この痛みは、消えなくてよかった」

 河ヰは立ち上がり、オノを見据えた。

「改めて、取材させてください」

「……そうやな。まぁ、ええやろ。じゃあ早速やけど、タイトル考えようか。俺が主人公やからな」

「一応、リアルライフヒーローに、しようかなって」

「ダッサ。佐藤君、センスないなぁ」

「河ヰですけど」

 オノはまるで聞いていないようで、顎を指で搔いていた。

「よしっ、決めた。田中君が介護のクズなら、こっちは正義のクズや」

「だから、河ヰですって」



同日。


【御鍵と待ち合わせしてた駅前のローソンに走った。当然だが、もういない。コンビニで時計を確認すると、二十二時を回ったところだった。さっきので、スマホがバキバキに粉砕していた。明日、スマホを買い替えるとして。

 怒ってるかな、御鍵。すっぽかしだもんな。

 いや、待て。もし、俺が御鍵に会ったとして。この異常な事態に、巻き込む可能性があるんじゃないか。今日の一件もそうだけど、そこらに怪人がいるかもしれない。せっかく結婚するのに、それはよくない。御鍵には、幸せになってほしい。

 この一件が片付くまで、連絡はやめておこう。ごめんな。】

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