むすんで、あいして

淀江ユキ

むすんで、あいして

「それでね、昨日は生徒会で頑張ったから、すっごく褒められたんだよ!」

 初夏の日差しが照り付ける通学路。太陽にも負けない元気さで、志宇しうは生徒会での活躍を身振り手振りで説明し始めた。

「すごいじゃん。さすが私の妹」

「えへへ」

 栗色でふわふわな髪をわしゃわしゃと撫でてやると、気持ちよさそうに頭を擦り付けてくる。まるで、人懐っこい犬みたいだ。

 私の自慢の妹、志宇。勉強も運動もそつなくこなし、周りの子よりも一回り小さな体で人一倍働く、健気でかわいらしい子。

「それじゃあ、また後でね」

「うん。またね、お姉ちゃん!」

 階段で志宇と別れ、各々の教室へと向かう。私は二階で、志宇は三階だ。

「おはよー、恵梨香えりか

「おはよう」

「今日も妹ちゃんと登校? 朝からお熱いことですねぇ」

「もう、やめてよ」

 茶化してくる顔も分からないクラスメイトを軽く流しながら、席に着く。すぐに予鈴が鳴り、いつも通り授業が始まる。どれも退屈で眠くなるけれど、志宇も頑張っていることだし、今日もとりあえずは四限まで頑張ろう。そうすれば、至福のひと時が待っている。

 そうして、眠気と格闘しながらなんとか四限まで乗り切った。終礼が鳴り、クラスメイト達が学食へ向かったころ。教室のドアの方から、私を呼ぶ声がした。

「あっ、桐島先輩! 一緒にお昼食べましょう!」

 学食に向かう流れに逆らい、志宇と一緒に生徒会室へと向かう。

 扉を開け、中に入ると、くっつけた長机二つと六個の椅子が置かれている。二人で右側の席に座り、机の上に散らばったプリントを片付ける。その中の一枚が目に付く。

「お姉ちゃん? どうしたの?」

「ん? あぁ、いや、なんでもないよ。それよりもお弁当食べよっか。お腹空いてるでしょ?」

「うん! もうお腹ぺこぺこ!」

 片付いた机の上に志宇が持ってきた二人分のお弁当を広げる。

「今日のおかずは?」

「えーっとね、まず卵焼き、それからタコさんウィンナーでしょ、あと……」

 そんな具合で、一個ずつ箸で指しながら説明してくれる。そんなうきうきとした様子を見ていると、自然と頬が緩んでくる。

「お姉ちゃん? 聞いてる?」

「え? あぁ、ごめん」

「もう。せっかく説明してあげてるのに!」

 そう言って、志宇は頬を膨らませた。怒った姿を見せたいのだろうけど、むしろ逆効果だ。なんだか意地悪したくなってきたので、頬をつねってみる。

「ごめんごめん。志宇が可愛くって、つい」

「もー! うれひいへど、はなひてー!」

 そんなこんなで、ちょっかいを出し合いながら昼食を済ませると、昼休み終わりの鐘が鳴った。これで帰りまで志宇に会えないと思うと、ちょっぴり寂しい。

 ――なので、

「ひゃっ! おねえちゃん? どうしたの?」

 後ろから志宇に抱き着いた。ふわふわで、撫で心地最高の髪を撫でまわし、ちょっと暑苦しいかもしれないけど、頬ずりをする。

「午後も頑張るために、妹成分を補給しておこうと思ってね」

「もう! ……ちょっとだけだからね?」


 愛妹弁当と妹成分の力もあって、驚異的な集中力で午後の授業を乗り切ることができた。いつも通り、教室で自習をして志宇を待つ。今日は生徒会の集まりがあるらしく、閉校時間ギリギリまで続くとのことだった。

 空が夕暮れに染まったあたりで、志宇が教室にやってきた。

「あっ、おねえちゃ……じゃなくて、桐島先輩!」

「お疲れ様。っていうか、もう学校終わったんだから、お姉ちゃんでもいいのに」

「ほんとはそう呼びたいんだけど、学校の風習があるし……」

 形骸化しつつある学校の風習すらもしっかりと守る。

「志宇は真面目だね」

 また頭を撫でてやる。今度は恥ずかしそうにしながらも、控えめに甘えてきた。

 今日は買い物の予定があるので、志宇とはスーパーの前で別れた。

いくつかの冷食と牛乳、線香を買い物かごに放り込み、レジを通してから帰路に就く。十分ほど歩いたところで家に着いた。鍵を開け、玄関とリビングの電気をつける。テーブルにレジ袋を置き、買ってきた線香を仏壇に供える。すると、仏壇に置いた写真立てのうち、片方に映った人と目が合う。

 椅子に座った女の人と、その肩に手を置く男の人。

 二人がいなくなってから、どうなるかと思いましたけど、なんだかんだ、生きられるものですね。きっと心配でしょうけど、安心してください。もうあの時みたいにはなりません。だって、今の私には志宇がいるんですから。

 あの子さえいれば――この糸さえ繋がっててくれるのなら、命なんて惜しくもない。

 小指に結ばれた蝶を見て、思わず笑みがこぼれる。

 運命の糸。私だけが見える、。繋がりといっても、その構成要素は色々だ。好意に敵意、あと好奇心とか関心とか、疑いからもつながりは生まれ、糸として私には見える。

 誰しもが、いろんな糸に絡まれて生きている。でも、私に必要なのはこの一本だけ。朱い、紅い、動脈を流れる血のように赤いこの一本だけ。

 すると、チン、という電子音が響く。出来上がったハンバーグをさっさと腹に押し込み、風呂に入る。体を入念に洗ってから、ゆっくりと湯船につかる。

「痛っ……」

 右の小指に痛みが走ったかと思うと、あふれ出た血が湯船に斑模様を描き出す。志宇の思いに比例して、糸の締め付けはより一層強くなる。だからこそ、この痛みすらも私は愛しく思える。

「……もう、志宇ってば、しょうがないなぁ」

 また明日も会えるのに、こんなにも私のことを想ってくれるなんて。このままだと、湯船が真っ赤に染まってしまうかも。そんなことを想像しながら風呂から上がる。寝間着に着替え、スキンケアを済ませたころにはもう時計の針は十二時を回っていた。目覚ましをかけて、ベッドに体を放り投げる。小指の痛みはまだ続いている。 それどころか、さっきよりも増している気がする。

「……」

 大丈夫。この痛みは偽りじゃない。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと目を閉じた。

 

 低いバイブレーション音。

 手を伸ばして何とかスマホを手に取ると、

「あ、おはよ! お姉ちゃん!」

 聞こえてきたのは志宇の元気いっぱいな声。

「うぅ……あぁ、おはよ……しう……」

「大丈夫? 今にも死んじゃいそうな感じだけど……」

「んぅ……まぁ、なんとか、ってかんじかな……」

「頑張って! お姉ちゃん! いま二度寝したら絶対遅刻しちゃうからね? それじゃ、家の前で待ってるね!」

「……はぁい」

 正直、あと五分でもいいから寝てたい。でも、志宇を待たせるわけにもいかない。重い体に鞭を打ち、大急ぎでリビングへと向かう。朝ごはんを食べる余裕もないので、すぐに洗顔と髪のセットを済ませる。すると、インターホンが鳴った。

 慌てて玄関へと向かい、ドアを開けるとそこには志宇がいた。

「おはよ! お姉ちゃん!」

「おはよ。志宇」

 髪はしっかりと整えられていて、制服にはしわ一つない。流石は優等生、朝から抜かりない。

「あーごめん、ちょっと待ってて。 もうちょっとで準備終わるから」

「うん、わかった」

 もうこれ以上は待たせられない。駆け足で制服に着替えて外に出る。

「ごめん、お待たせ」

「ううん、大丈夫! じゃ、行こ!」

 昨日と同じく、志宇は生徒会での活躍と、英語の小テストで満点を取れたことについて話してくれた。もちろん、かわいらしい身振り手振りも交えて。

 校門を過ぎると、体育館の入り口に大量のパイプ椅子が重ねて置かれているのが見えた。あれだけの量が必要ってことは、体育館で何かイベントでもあるのだろうか。

「あれ? 今日って何かあったっけ?」

「今日? 今日は追悼式の日だよ。糸野葛子いとのかずらこさんの」

「あぁ……そういえばそうだっけ」

 聞かなきゃよかった。

「あ、ごめんね、お姉ちゃん。私、このあと準備があるから行かなきゃ」

「ん、朝から大変だね。いってらしゃい」

「うん! いってきます!」

 そう言って、志宇は昇降口へ向かっていった。

 そして、いつも通り教室に入って、授業を受ける。何ら変わったことなんてない。そうでしょ?

 三限の授業が終わり、トイレに向かう。そして真っ先に洗面台へ。少し汚い鏡には、いつも通りの私の顔が写っている。

 うん、大丈夫。どこからどう見ても、いつも通り。いつも通りの私だ。でも、少し笑顔が不自然かな? 少し強張った頬をほぐそうとすると、

「……え?」

 絵の具で塗ったように、頬が真っ赤に染まった私が、写っていた。

「なに……これ……」

 その赤は頬だけでなく手にもこびりついていて、まるでプラスチックのりを肌に直接塗り込まれたような気持ち悪さがする。あの時みたいな、気持ち悪さが。

 これじゃ、まるで——

「なんで……こんな……」

 真っ先に蛇口をひねり、死に物狂いで手をこする。何度石鹸を足しても泡が真っ赤になっていくだけで、一向に落ちる気配がない。

 どうして? もう忘れられたはずじゃないの? 私はまだ、あの事を後悔しているとでもいうの?

「違う……違う、私は……」

 赤い液体がどろりと指の隙間からこぼれ落ちた。そして、どんどんと制服が赤く染められいく。じんわりと、人肌のような温かさが私の正気を徐々に奪って——

「私は……違う!」

 はっと気づいた時には、すでに赤色は消えてなくなっていた。何もかもがいつも通り。

 思わず壁にへたたれこむ。

 あぁ、ダメだな。こんな調子じゃ。

 開会時間が間近に迫っている。体育館に行かないと。


 クラスメイトたちの列に何とか滑りこみ、開会時間には間に合った。広くも狭くもない体育館では、後輩たちが既に座って待っていた。

 ふと壇上を見上げると、せっせと働く志宇の姿が見えた。だけど手を振る気にもなれなかった。糸野葛子の——天井に吊るされた遺影と目が合ったから。その視線があまりにも痛いので、目を逸らす。まるで、「志宇を見るな」とでも言わんばかりに。

「かわいそうだよねぇ。葛子さん」

「ね。高二の、しかも大晦日に殺されちゃうなんて、私やだなぁ」

 後ろの方から、クラスメイト二人の話し声が聞こえてくる。

「それもだけど、私はあんな死に方の方が嫌だけどね」

「もう誰かわからなくなるぐらいまで、刺されたんだっけ?」

「そう。神社のはずれにあるトイレの個室で、めった刺しにされたんだってよ」

「もう……二人ともやめなさいよ。式典の前に」

「でもさぁ、怖くない? まだ犯人捕まってないんだよ?」

「まぁ……それは怖いけど……」

「それに、死体からは小指が切り取られてたんだってよ? なんか意味深で怖いよね」

 ふと、小指がズキリと痛む。

「分かるけど……追悼式前にそれを話すのはどうかと思う……」

 教頭が壇上へ上がり、会話はそこでぷつりと途切れた。

 こうして始まった追悼式は滞りなく進んでいく。糸野葛子という名前が読み上げられる度に胸が苦しくなるけど、何とか平静を保つ。そして再び教頭が壇上に上がり、式は幕を閉じた。

「あ、お姉ちゃん、お疲れ様! 座りっぱなしは疲れたでしょ?」

 列から離れたところで休んでいると、志宇が近づいて来た。よく見ると、少し目が腫れている。

「まぁ、多少ね。それより志宇の方こそ、大丈夫?」

「え? あー、えっと……おかしいよね。赤の他人なのに、死んじゃったことがこんなにも悲しいの……」

「……志宇は優しいんだね」

 撫でてあげようかなと思ったけど、今は無理だ。この子が汚れちゃう。

「そんなことないよ。それに、もし死んじゃったのがお姉ちゃんだったら、って想像したら、涙が止まらなくって。そうなったら、私も一緒に死んじゃうかもしれないなぁ……なんてね」

 そう言って、志宇は少し照れくさそうに笑って見せた。それに私は、作り笑いで答えることしかできなかった。

「あ、、もう少しで片付け始まるよ」

「はーい。それじゃあ、お姉ちゃん、また明日ね!」

「うん。またね」

 体育館へと走り去る志宇を見送り、正門へ向けて歩き出す。住宅街を通り過ぎて、近所のスーパーを過ぎて、コインランドリーを通り過ぎて、神社を通り過ぎて、ようやく家にたどり着いた。

 鍵を開けて、誰もいないリビングの電気をつけて、荷物を全部下ろして、仏壇に線香を供える。

「……うっ」

 不意に仏壇の写真と目が合って、あの時の光景が生々しく蘇る

 トイレの個室の中、足元に転がっているのはズタズタになった、かつて人だったモノ。顔は刺し傷と切り傷だらけで、浴衣も、所々赤黒く染まっている。

 思わず台所に駆け込んで、シンクに胃の中身をぶちまける。昼食を戻したところで全身の力が抜けて、床にへたり込む。すえた匂いでまた戻しかけるが、何とかこらえる。

「……ほんと、バカな話ですよね? 葛子さん」

 仏壇の上で微笑む彼女は、何も喋らない。

 大晦日のあの日――あの日は確かに満足できてたっていうのに。

 あの子を手に入れるためなら、どんなことでもすると。そう覚悟を決めていたのに、ついぞ私の心はのしかかる罪悪感に白旗を上げた。

 なんて惨めで、救いようがないことだろう。こんなんじゃ、あの子の姉なんて務まるはずがない。務められるはずもない。

 あぁ、今までずっと誤魔化してきたけど、所詮は私の自己満足――姉妹ごっこをしていただけに過ぎなかったんだ。だって、あの子の目に映っているのは私じゃなく、糸野葛子なのだから。

「――っ!」

小指に激痛が走る。志宇の思いを受けた糸がより強く締め上げてくる。

 痛い。

 痛いのに、あの子を感じられない。痛みだけが、指を通じて伝わってくる。

 なんで。どうして。

 とっさに台所へと走って、包丁を取り出す。あんなにも愛おしかった赤い糸が、今では患部に絡みつく蛭のように見えてしまう。包丁を握った手に力が入る。小指にあてがった刃先が少し食い込む。

 できることなら今すぐにでも、切り落としてしまいたい。膿のようにたまった罪悪感と一緒に切り離してしまいたい。でも、刃先がそれ以上食い込むことはなかった。あぁ、だめだ。この糸がなくなってしまったら、志宇との関係は、もう元には戻らなくなってしまう。それがなによりも怖い。

 こわ、い?

 なんで、こわいんだろう。

 どうして、志宇を失うことが怖いんだろう。

 学校への道、静かな生徒会室でのお昼ご飯、夕暮れ時の帰り道。そこにはいつでも、あの子がいて欲しいと思うのは、何故なんだろう。

 思わず乾いた笑いが漏れた。あぁ、そうだ。結局はあきらめきれないままなんだ。どれほどの罪悪感が積み重なっても、私はあの子が好きなんだ。絶望感と罪悪感に支配された、永遠にも思える時間が過ぎていく。

 やがて、空っぽになった頭は一つの結論を導き出した。

 もう終わりにしよう。

 明日で、なにもかも終わりにしよう、と。

 吹っ切れたせいか、なんだか急に眠たくなってきて、私はそのまま意識を手放した。


 吐瀉物のすえた匂いで目を覚ます。台所は昨日の惨状のまま。スマホとバッグが無造作に放り捨てられていた。カーテンからは僅かな明かりが差し込んできている。

 スマホを開く。時刻は午前九時。通知欄には志宇からの不在着信がいくつも表示されている。けれどもう、掛けなおす気にもなれなかった。

 シンクを片付け、制服に着替える。最低限必要な物をバッグに詰め込み、学校へと向かう。

 教室についたころには、既に授業が始まっていた。先生には寝坊しましたと伝えて、自分の席に着く。

 メモぐらいは取ろうとノートを取り出したが、それすらも無意味に感じて、やめた。ふと、小指の糸の先をたどってみる。志宇が校庭で体育の授業をしていた。楽しげな表情で、クラスメイト達とボール投げの飛距離を競い合っているのが見えた。相変わらずその姿に憐みも、罪悪感も、愛しさも感じなかった。何もかも。だって、あの子は、糸野志宇なのだから。

 もう、全部がどうでもよくなって、茫然自失としたまま座っていると、いつの間にか下校時刻が過ぎていた。教室には私一人。窓の外は夕焼けに染まっている。

 ふと、小指に痛みが走る。赤い糸は、教室のドアの先へと伸びていた。

 ゆっくりとドアを開けると、そこには座ったまま、壁に寄りかかって寝ている志宇の姿があった。

「……志宇」

「ん……あ、お姉ちゃん」

 志宇は目を覚ますと、うんと伸びをした。

「もう、心配したんだよ? 朝、電話しても出ないし、学校でもずーっとぼうっとしてるんだもん。体調が悪いなら、無理しちゃだめだよ?」

 志宇は心配そうにこちらを見やる。それなのに、ちっとも嬉しくなかった。いや、そう思う権利なんて、私にはない。

「……お姉ちゃん? 大丈夫……?」

 もういいんだ。これ以上この子を付き合わせるわけにはいかない。

「志宇」

「なに?」

「話したいことがあるんだ」


 立ち入り禁止とは名ばかりに、屋上へのドアはいとも容易く開いた。空の色は朱く、どこまでも朱く染まっていた。

「お姉ちゃん……話って、なに?」

 志宇は怪訝そうにこちらを見ている。

「志宇はさ、私がお姉ちゃんじゃないって言ったら、どうする?」

「え……急に、どうして? もしかして、また誰かに何か言われたの?」

 ……あぁ、そういえば、そんなこともあったっけ。

 やけに疑われたけど、糸を切ってしまえば、いとも簡単に関心を無くさせられた。そうやって、騙し騙しやってきた。

「もう、そんなの気にしちゃだめだよ! 確かに住んでる家も違うし、苗字も違うけど、私たちはちゃんとした姉妹なの。でしょ?」

「……そうだね」

 前だったら、その言葉がどれだけ嬉しかったことだろう。でも今は、ただの呪詛にしか聞こえない。

「追悼式の時にさ、志宇は言ってたよね。赤の他人なのに、葛子さんが死んじゃったことがこんなにも悲しいの、って」

「うん……言ったけど……」

「どうして、そう思うの?」

「どうしてって……なんとなく、だけど……」

「じゃあ、こうしたらどう?」

 そして、私は小指の蝶をゆっくりとほどいた。

 志宇はしばらく茫然とした後、

「え……恵梨香さん?」

 糸野さんに戻った。

「な、なんでここに恵梨香さんが……それより、お姉ちゃんは……?」

「もういないよ」

「え……じゃあ、さっきまでいたお姉ちゃんは……恵梨香さん、だったんですか……?」

「うん。そうだよ」

「え……なんで、私、葛子お姉ちゃんのことを……」

 さぁ、種明かしの時間だ。どうやって、キミのことを騙していたのか、教えてあげる。それで、私のことを嫌いになってくれれば、あと残りなく終わらせられる。

「君には見えないだろうけど、人と人の間には運命の糸が通ってるんだ。もちろん、君と葛子さんの間にもね」

 糸野さんは何も言わない。ただ茫然として、仄暗い色の瞳をこちらに向けている。

「それで、君の糸を私のと結び付けたんだ。葛子さんのと切り離してね。そしたら、君は私のことをお姉ちゃんだと思ってくれるようになったんだよ。……簡単すぎて、思わず笑っちゃったよ。血すら繋がってないのにね」

 できる限り大げさに、嘲笑するように。まるで道化師だ。

 そう。だから私は君のお姉ちゃんじゃない。

「本当にうれしかったよ。自分が犯したことの重大さを、忘れさせてくれるぐらいにね」

 もう、同情もしないし、する権利もない。

「じゃあ……お姉ちゃんを殺したのは……」

「私だよ。君のお姉ちゃんを――糸野葛子を殺したのは、私」

 それを聞いた糸野さんは力なくへたり込んだ。虚ろげな目をして、何かをぶつぶつと呟いている。これでいい。これでいいんだと自分に言い聞かせる。

「ごめんね。私の姉妹ごっこに付き合わせちゃって」

 ゆっくりと、柵のない方へ歩く。

「ほんとはこのままずっと姉妹でいたかったんだけど……罪悪感からは逃げられないからさ」

 淵までたどり着いて、後ろを振り返る。糸野さんは目を見開いたまま、微動だにしなかった。

「さようなら、志宇」

 屋上の景色が徐々に遠のいて、夕暮れの空へと変わっていく。最後の一歩が驚くほど軽やかに進んだのが、自分でも憎らしく思えてくる。

 糸野さんの姿が、スローモーションのようにゆっくりと遠ざかっていく。視界の隅で、ほどけた糸が風にたなびいているのが見えた。

 小指の痛みも、もう何も感じなくなって——


 意識が、あった。

 感覚が、あった。

 私は、どうなったんだっけ。

 糸をほどいて、屋上から飛び降りたところまでは思い出せた。そこからは、一切の記憶がない。見慣れない天井、規則的な電子音、アルコールのにおい。地獄にしては随分と清潔だな、と思った。地獄であってほしいとさえ思ってもいた。なぜなら――もしそうじゃなかったのなら、私は死にきれない臆病者だったということになる。だけど、そんな願望はすぐに崩れ去ることになった。

 ひどく聞きなれた声によって。

「あ、おはよう、お姉ちゃん」

 ベッド脇で座っていたのは、紛れもなく糸野さんだった。

「な、なんで、ここに……」

「なんでって、妹がお姉ちゃんのお見舞いに来ちゃいけないの?」

「あ、姉って……糸は解いたはずじゃ……」

「あははっ、何言ってるの? 私のお姉ちゃんは、最初から恵梨香お姉ちゃんしかいないでしょ?」

 そう言って、志宇は私の右手を取った。

「ほら。これを見ても、まだ信じられない?」

 恐る恐る見やると、そこには確かに解いたたはずの糸が――鮮血のように真っ赤な糸が志宇と私の小指を繋いでいた。蝶はいなくなっている。あるのは固く結びつけられた糸の玉。志宇の左の小指から伸びる糸と絡み合ってできたもの。

「一体、どうやって……」

「えへへ、教えてあげる。実はね、お姉ちゃんが飛び降りた後、私も糸が見えるようになったの! もうお姉ちゃんを失いたくない、もう一人になるのは嫌だ、って。そしたらね……ほら、こうやって糸が見えるようになったの! それに、触るのもできるんだよ!」

 そう言って、糸野さんは嬉しそうな顔をして糸を弾いた。

「でも、良かった! これでずっと一緒にいられるね、お姉ちゃん!」

「あなたの姉なんて、私に務まるわけが……」

「……今更何言ってるの? お姉ちゃんを殺しておいて、姉妹ごっこにまで付き合わせたくせに」

 だからこそ、なのに。

 君を巻き込んでしまったからこそ、その償いをしようとしたのに。

 すると、糸野さんはテーブルの上にあった鋏を手に取り、

「もう、お姉ちゃんの意気地なし」

 パチン、という音がして、白い掛け布団の上に黒い糸のようなものが落ちた。途端に、体に纏わりついていた倦怠感がふっと軽くなる。

「もう、どこにも行っちゃだめ」

 パチン、パチン。

 今度は緑と、青。いろんな色の糸がパラパラと落ちていくたびに、志宇以外へのすべてに興味が失せてくる。

「私から、目を背けちゃ、だめ」

 パチン、パチン、パチン。

 私の目に映るものが、志宇だけになっていく。

 ——あぁ、私はなんて馬鹿なんだろう。こんなにもかわいい妹の姉であることを拒むだなんて。

「……志宇」

「なぁに? お姉ちゃん」

 志宇は顔を近づけて、返答を待っている。その健気な姿に、思わず笑みがこぼれる。

 志宇の指が、私の指にするりと絡みついてくる。小指の痛みが、どんどんと愛おしさに変わっていく。

「……志宇が、妹でよかった」

 そう言って、彼女の体を抱き寄せる。

「もう、離さないから」

ふふっ、という声が聞こえて、志宇はより強く抱きしめてきた。

 私の右手と志宇の左手が、徐々に赤く染まっていく。痛みなんてもう、どうでも良い。

 志宇さえいるのなら、全部どうでもいい。

 あぁ、私はなんて幸せ者なんだろう。

「……これでずっと一緒だね、お姉ちゃん」

 返答代わりに、口づけを交わす。

 私と志宇の小指は、あふれ出た愛情で真っ赤に染まっていた。

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むすんで、あいして 淀江ユキ @ydeyuki

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