第12話あなたの呼吸で息をしていた

 近江からの連絡を受けた大橋によって藤嶺の葬儀は行われた。

 もちろんそれに近江はついては行けない。

 近江のいない葬儀は書道関連の参列者が列をなしていた。もちろん大橋や西条、そして藤嶺が所属していた書道会の会長である天草も参列していた。

 西条はずっと涙を流して座っていた。大橋は赤くなった目元を湿らせては拭いを何度も繰り返していた。天草はいつもの仏頂面で、何を思っているのかは分からない。

 火葬の終わった藤嶺の骨は親族がいないため、大橋と西条を含む書道関係者によって骨壷に収められた。

 墓の手配は大橋がすることになっているため、それは大橋に預けられた。

 大橋は珍しい人物に呼び止められた。天草だ。


「大橋君」

「……なんですか」

「藤嶺の遺産相続人として君が指名されている。手続きがあるから後日時間を作ってくれ」


 今葬儀を終えたばかりだというのに、もうそんな話をするのかと大橋は天草を軽蔑した顔で見る。

 何故この男が任されているのか大橋には理解が出来なかった。


「藤嶺の作品も藤嶺の生家や財産も全て君の所有となる」

「そうですか」

「それと、」

「まだ何か?」


 うんざりとしながら大橋が天草を見ると、大橋は目をこれでもかと見開き驚いた。

 天草が頭を下げていたからだ。


「なんの、まねです」

「ありがとう。藤嶺のそばにいてくれて」

「なんで、なんでアンタがそんなこと」


 会長であるあの天草が頭を下げ、お礼を言っている。

 大橋が目の前で起こったことに混乱していると、天草は眉間に皺を寄せ、藤嶺との関係を語った。


「肩を並べて隣を歩くことをしなかった。俺はそれを選ばなかった。だから、君が藤嶺の支えになってくれていたことにずっと感謝していた」

「もっと大事にしてあげれば良かったじゃないですか」

「そうだな。しかし、それをしていたのなら俺は守りたいものを守れない」


 天草の考えることも、過去も知らない大橋は天草をわかることは無い。ただ、やるせない思いだけが残る。


「連絡先と住所を渡しておく。都合のいい時に連絡してくれ」


 天草はそれだけ伝えると足早に去る。会長である天草は、ひとりの元書道家のために仕事を疎かにすることは出来ない。あのまま仕事に戻るのだろう。

 大橋は渡された連絡先の書かれた紙を見て、お手本のような丁寧な字だなとぼんやりと思った。



「随分小さくなっちゃいましたね、藤嶺さん」


 その言葉に答える声はない。

 大橋は助手席に包まれた骨壷を乗せて車を走らせた。目的地はもちろんあの山にある藤嶺の自宅だ。あそこには藤嶺の帰りを待つ者がいる。


 ――ぱしゃん。


 水の跳ねる音が聞こえる。

 縁側にまで続く水路から、水が跳ねている。そこを目指して大橋は大事に藤嶺を抱えながら歩く。


「近江さん」

「いらっしゃい大橋。……おかえりなさいみどり」


 近江の伸ばされた両手に藤嶺を渡す。白く四角いそれを大事そうに抱きしめた。


「おかえり」


 縁側にふたり腰掛けた。ふたりの間には小さくなった藤嶺。

 懐かしい昔話をした。近江と大橋の共通の話題は藤嶺しかない。まるでそこにまだ藤嶺がいるかのように会話は続いていく。


「……机の引き出しの一番上に手紙が入っているわ。大橋へですって」


 会話の途切れた僅かな時間に近江がそう言った。その言葉で大橋は現実に引き戻された。


 ――ああ、そうだ。藤嶺さんはもう……。


 また泣きそうになるのをぐっと堪えながら教えられたところを開ける。入っていた手紙には大橋くんへ、と達筆で流れるような美しい文字で書かれている。

 この山と自宅を大橋に譲ること。昔住んでいた実家にある作品は全て処分を大橋に任せること。実家を売り払った全ての財産を寄付すること。

 そして最後の一枚にはどうか近江をよろしく頼む、と書かれていた


「ねぇ、いいのよ。私のことは」

「でも、」

「私もきっとすぐにみどりの元へいくわ。ここを譲り受けたのよね、大橋」

「はい」

「……我儘を言ってもいいかしら」

「もちろんです」

「私の最期はみどりとふたりにして」


 近江の目はとても凪いでいた。大橋が見る中で一番穏やかで優しい目をしているのに、明確にこちらを拒絶しているのが分かった。


「できれば、私が死んだ後もみどりから離さないで」


 ぎゅっと腕の中の藤嶺を抱きしめる近江に、大橋は「はい」とだけ返すので精一杯だった。


「大橋、ありがとう。貴方に会えてよかった」

「僕も、近江さんに会えてよかったです」

「さよなら」

「っ、さようなら近江さん」


 大橋は家の中を少しだけ掃除してから、藤嶺から託された手紙を近江に渡した。近江は驚いてから直接渡せば良いのにねと笑った。大橋には近江の手紙を、近江には大橋の手紙を託していたのだから、大橋もその言葉に笑って同意をした。

 大橋は自分に宛てられた手紙を持って帰っていった。

 ひとりになった部屋には、ひとり分の呼吸の音だけが聞こえる。藤嶺の呼吸を探して藤嶺がいつも使っていた机の隣に座って藤嶺を抱きしめる。藤嶺の使っていた白いシーツを頭から被ると藤嶺の匂いに包まれた。


「本当にこんな姿になるのね」

「壺、木の箱、白い布。沢山貴方を覆ってるわ。でも、そうよね。人間は骨があって、肉があって皮膚があって、服を着るんだもの」

「ねぇ、私知ってるのよ」

「人間がつがい……結婚する時、白い服を着るのよね」

「ねぇ。今、私たちふたりとも白い布に覆われてるわ」

「まるで結婚したみたいじゃない?」


 物言わぬ藤嶺に近江はずっと話しかける。

 日が沈んで月が上る。


「ねぇ、今日は満月みたい。とても外が明るいわ」

「きっと、とても綺麗なんでしょうね」

「もしかしたら貴方が照らしてるのかしら、ねぇみどり」


 返らない言葉に寂しくなった近江は手紙へ目を落とす。

 手紙といっても堅苦しいものではなく、日常的な、会話しているかのような言葉遣いと内容だった。

 読んでいるとまるで隣に藤嶺がいるような気持ちになる。死んでもそばにいるのだと言ってくれているように感じて、近江は初めて泣いた。

 手紙がくしゃりと歪む。近江の涙は溶けることなく手紙に落ちていく。初めての涙は苦しかった。苦しくて、溺れてしまいそうだった。

 ここは陸なのに。人が海で溺れてしまうように、息が出来なかった。

 誰もいない部屋で、藤嶺を抱えて何度も手紙を読んで過ごす。


「ねぇ、みどり。あなたの字、わたしすきよ」


 何日も何日も同じように過ごす。

 もう身体はあまり動かない。

 朝日が空に輝く頃、近江は強い眠気に襲われた。それに抗うことなく近江は目を閉じた。

 それでも絶対に藤嶺を落とすまいと腕の中に閉じ込めた。


「きれいなあおいそら……。みどり……おやすみなさい」


 藤嶺を追いかけるように近江は息を引き取った。

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