事故

 珍しく下宿で涼んでいると、女将がやってきた。

「ご実家から電話よ」

 またか、と思いながら、英二は階下に行った。昭和の名残りを残す黒電話が、この下宿では大活躍している。

「ああ英二? お母さん。今度の休みは帰ってくるの? 晃が寂しがってるわよ。え? バイト? 休めないの? ……そう。なら仕方ないわね。そうそう、今度家族でフランスに行くのよ。買ってきてほしいものある? あと、うちの牧場を買いたいってひとがいるんだけど、まさか売るわけにもいかないし困ってるのよねえ。そういえば、この間仔馬が生まれたのよ。あんた経済学部なんだから大学卒業したら戻って来てくれて経営を手伝ってくれたらなんてお父さんは言ってるのよ。え? あ、そう。じゃあね」

 自分は本当にこの母から生まれたのだろうかと、英二は母と電話で話すたびに思う。それくらい母はよくしゃべる。兄もそうだ。きっと兄は母に似たのだ。じゃあ自分は父に似たのかな、と思いをめぐらせると、そうでもないような気がする。父は不器用な方だが、英二は手先が器用だった。誰に似たんだろう、家族と話すたびにそう感じる。

 英二は家族のなかでは異端児だった。

 無口で、兄ともそんなに話す方ではない。距離の近い家族といると息がつまりそうで、高校進学から上京しそのまま大学に進んだ。飛行機で帰るその距離を移動するのが面倒で、一度しか帰郷していない。大学三年の夏、同級生たちが就職活動を始め、次々と内定をもらってくるなか、英二はひとり、まるでそんなことは知らないとでも言いたげになにもしていなかった。

 無口で愛想笑いもできない自分が、社会に出てうまくやっていけるとは思わない。彼は黙々と<le ciel>で働いた。三年生に必要な単位は、既に取ってしまった。大学に行く用事など、食事をする以外にはなにも見当たらなかった。

 いつものように仕事を終えて夜中に杏子の部屋へ行き、一晩を明かした。夜中でも、夏は暑い。シャワーでも浴びるかな、そんなことを考えていた。夕方のニュースをぼーっと見ながら煙草を吸っていると、アナウンサーが緊迫した表情で飛行機事故を告げた。それを見るともなしに見て、杏子が帰ってきたのと入れ違いに<le ciel>に向かった。

「橘君、卒業したらほんとにうちで働かない?」

「そのつもりです」

「いやーん嬉しい」

 店長とそんな会話を交わし、また杏子の部屋に帰った。明日は卒論のことで教授に会わねばならない。杏子のパソコンを使っていたので、下宿に帰る必要はなかった。

 大学に行くと、就職活動のために髪を切り揃えた同級生たちの姿がちらほらと見られた。 よう橘。お前まだそんな髪してるのかよ。切った方がいいんじゃない。就職に不利だぜ。

 お前女にもてるけど、なんで誰にも関心がないんだ? もしかして、男がいいとか?  それらの声を躱して掲示板を見ていたら、気になる貼り紙があった。『経済学部 橘英二 教務課へ』。英二は教務課へ行った。

「すぐにご家族に連絡を取って下さいとのことです」

 なんだろう。確か、旅行に行くとか言っていた。旅行先に連絡するとなると、携帯にかけなければならない。どこにいてもすぐに捉まるこの文明の利器を、英二は嫌った。だから携帯は持っていない。なければないで、どうとでもなる。母親の携帯にかけたが、留守中である。兄も携帯を持っているはずだが、そこまで兄と親しくはない。結局家族と連絡はつかず、教授に会って卒論のことを話して、英二は久しぶりに下宿に戻った。

「橘君、どこに行ってたの」

 帰ると、女将が飛んできた。

「大変よ」

 その表情は、いつになく緊張して青ざめているようである。なにかあったんですか、携帯にかけても出なくてと言おうとした彼に、女将は畳みかけるように言った。

「ご家族が飛行機事故に遭われたって……」

 昨日のニュースでやっていたあれか。頭が真っ白になった。そういう時、どこに連絡すればいいのだろう。立ち尽くす彼に、女将は言った。

「ネットで乗客の名前が発表されてるはずよ」

 英二は二階に上がって自分のパソコンで検索した。飛行機事故。どのくらいの事故だ。 『小型機 フランスで墜落 乗客全十五名、生存者は確認取れず』。記事にはこう書かれていた。煙草を取り出そうとして手が止まってしまったのにも気がつかず、英二は茫然とその文字を目で追っていた。そこには、片仮名で両親と兄の名前が載っていた。

「――」

 親戚、というほどのものはない。祖父母はとうに亡くなっているし、両親ともに一人っ子だ。こういう時、誰に相談すればいいのかわからなかった。女将にそれとなく言うと、「まずは外務省かしら」

 と彼女は言った。とりあえず、今日のバイトは休んだ方がいいだろう。英二は

<le ciel>に行って家族が事故に遭ったので、と断りを入れた。翌日、大学に行って忌引き届けを出した。

 そうこうする内に役人と連絡がとれて、家族の生存は絶望的だと知らされた。その訃報を、英二は淡々と受け入れた。

 遺体が飛行機で帰ってきて、英二はそれと共に何年かぶりで実家の土地を踏んだ。喪服など持っていなかったので買い揃え、葬式を手配し、斎場から遺骨を抱えて家に戻ってきた彼は、突然一人になってしまったということがどういうことなのかをじっと考えていた。

 すると、玄関で呼び鈴が鳴った。また弔問か。うんざりしながら玄関に向かった。狭い町内での突然の悲劇に、近隣の人間がひっきりなしにやって来ていた。

「やあ、橘さんの息子さん?」

 客は一人だった。葬式で見たような気もするが、誰だったかまではわからない。男はご焼香させてもらえないかね、と言って上がり込んで焼香し、お茶も出さずにそれを見守っていた英二と向かい合った。

 線香の煙が部屋にたゆたっている。

「実は、今日はご焼香にだけ来たわけじゃないんだ」

 男は岡田と名乗った。

「私は、君のお父さんに牧場を譲って頂けないかとずっとお願いしていたんだよ」

 母が言っていたあれか。

「橘さんは乗り気じゃないようだったが、考えてみてくれないか。君一人で牧場をやっていくのは不可能だろうし、悪い話ではないと思うんだ」

 名刺を置いて、岡田は帰って行った。

 岡田が帰ると、やることがなくなった。自分の暮らしは、ここにはない。英二は東京に戻った。

 そして何事もなかったかのように<le ciel>でいつものように働き、杏子の部屋へ帰って行った。しかし、頭では岡田に言われたことがずっと渦巻いていた。両親の持っていた牧場。自分は、それを維持していくことなどとても出来ない。それに、牧場の経営になど興味のかけらもなかった。

 決断は早かった。

 もらった名刺の電話番号に電話をかけ、同じ従業員をそのまま雇うのならという条件つきで岡田に牧場売却の意思を告げた。

 四十九日を終え、弁護士と共に権利書のやりとりをすること数回、季節は秋になっていた。

 大学に行くと、誰もが彼を見た。突然降って湧いたような家族の悲劇に戸惑い、誰も英二に話しかけようとしなかった。それでいい、と思った。腫れ物に触るかのようにぎこちなく弔意を述べられるのに嫌気が差していた。大学に行かなくてもいいのでいよいよやることがなくなって<le ciel>で働いて時間をつぶし、杏子の部屋に通った。

 こうして英二は天涯孤独の身となった。

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