<le ciel>
新宿の大学に通っていると、遊ぶ場所も新宿であることが多い。都会だし、なんでもあるからだ。食事をしてお茶か、或いは酒でも飲むかという話になれば、新宿ほど便利な場所はない。だから、大学に入ってからもなんとなく新宿で生活した。晴れて成人して飲酒が解禁となったとき、それまでも大人の目をかすめてちびりちびりとやっていたのがよかったのか悪かったのか、いくら飲んでも酔わなかった。なんとなく断るのが面倒な飲みに誘われて仕方がないからついて行った店の内の一つに、<le ciel>はあった。
新宿では、客と従業員の距離が近い店などいくらでもある。客の名前をちゃん付けで呼び、肩を叩き、身体をすり寄せる。それは、英二が家族に感じている距離感のなさとまったく同じものであった。
<le ciel>には、それがない。
馴れ馴れしく呼んできたりしないし、ひとりで飲んでいる客は放っておく。それでいて、こちらが注文しようと顔を上げると、さっとやってくるのだ。
英二は酒を飲みたくなると<le ciel>に行った。その内、店長と顔見知りになった。三度四度と回を重ねて通う内、酒の名前を覚えた。店長はいいとこの大学行ってると、こんなことも覚えちゃうのねえと笑った。
ある晩、客が大勢でやってきた。タイミングの悪いことに、従業員が風邪をひいて休んている日であった。店長は一人で店を切り盛りしていたが、てんてこ舞いである。ああ、こちら注文ね。もう少々お待ちください。あちらカクテルね。はいはい。お水? お待ちになって。
額に汗を浮かべて立ち働く様は、同情を誘った。
気がついたら、カウンターに入って酒をつくっていた。
あらお客さん? 店長が驚いてこちらを見ている。いいから早くあっちのテーブルを拭いて下さい。こっちでは注文待ちです。さあ行って。
店長一人ではこなせない数の客であった。英二は黙々と酒をつくり続けた。
「やあん助かったわお礼にキスしちゃう」
それはいいですと丁重に断り、英二は勘定しようとした。だが、店長はお金なんてもらえないわ、と言った。
「こんなに働いてもらったのにお金もらうなんて間違ってるもの。その代わり今度また手伝いにきてちょうだい」
こうして英二は<le ciel>で働くことになった。そして杏子と出会ったのである。
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