杏子

杏子


「英二? 来てるの?」

 朝か。待てよ。夜か?

 英二は起き上がった。まだ眠たくて、身体がだるい。杏子が部屋のなかに入ってきた。

「来るのはいいけど、授業ちゃんと出なさいよ」

 煙草に火をつけながら、英二はめんどくさそうにこたえた。

「今年の分の単位はもう取ったよ」

 着替える杏子の背中を見つめた。そして立ち上がり、服を着ると玄関に向かった。

「あら帰るの?」

「夜勤明けだろ。また来るよ」

 外を見ると、時間はどうやら昼である。たまには大学に行くかな、と殊勝なことを考えて下宿に戻り、今日の時間割を確かめた。

 フランス語か。まあいい。

 幸い、下宿の女将は今いない。見つかるとまた説教だ。食事もせずに、英二は大学へ向かった。下宿の食事はうまいが、当然のように女将がやってきてあれこれと給仕しながら大学生活を聞いてくる。それが面倒で、食事はもっぱら杏子の部屋で取ることにしている。

 久しぶりに来た大学は、いつもとそう大して変わらなかった。誰もが話しながら、今日の授業や部活の話をしている。あの教授のこんなことやあんなこと、それはとめどなく続いた。

 サークル顔出す? どうしよっかな。部活行くかな。

 部活か……英二は入学と同時に自分を勧誘してきた山本春子という名の学生を思い出していた。

「橘君でしょ」

 その女は自分は二年生だと言った。

「わが校の剣道部に入ってくれない? 高校での活躍は聞いてるわ」

 しかし、英二は差し伸べられた手を握ることもなく、黙って彼女の横を通り過ぎた。

「興味ないんで」

「あら」

 山本春子は振り返った。

「そんなこと言わないで、すり足一緒にしましょうよー」

 その言葉を背中に受けて、英二は桜が舞い散る大学の道をひとり歩いた。剣道か。部活動は単位の内になるから仕方なくやってたけど、しなくていいなら二度としない。だから、大学でも当然のようにやっていない。

 久しぶりのフランス語の授業は身が入らなかった。バイトに明け暮れる生活をしていて、夜型の身体になってしまったので眠い。杏子に起こされなければ、まだ寝ている時間であった。

「よお、橘」

 後ろから彼を小馬鹿にするような、嘲笑を含んだ声がかかってきた。遠藤だ。

「お久しぶりじゃねえか。学部の間じゃ年上の看護師のヒモやってるってもっぱらの噂だぜ」

 それはあながち、嘘ではない。下宿にいる時間と杏子の部屋にいる時間では、圧倒的に後者の方が多い。特に言うこともなかったのでそのまま通り過ぎようとすると、驚いたことに遠藤は自分を追いかけてくる。

「あんた、盆暮れ正月どうしてるんだ。実家には帰らないのかい」

「帰らないよ」

 仕方なしに、英二は言った。

「なんでだよでっかい農場なんだろ。馬とか乗れるじゃねえか」

「面倒だから」

 家族のことは嫌いではなかったが、その距離の近さに圧倒されて息が詰まる。帰れば帰ったでそれは懐かしいのだが、それ以上のものがない。高校から東京にいるわけだし、寂しいとは思わない。移動するのも億劫だ。

「だから看護師のねえちゃんとよろしくやってるのかよ。いいご身分だな」

 からかうように言ってくる遠藤の目は、軽侮の光で笑っている。相手にするまでもない。

「そういうこと」

 言い捨てると、英二は正門に向かって歩き出した。やはり、日が出ている内に起きていると眠い。杏子のところで寝直すか。

「ちっ、からかい甲斐がねえな」

 遠藤は言い捨てると、英二とは反対方向に向かって歩き出した。要領のいい彼でも、今期出なくてはならない授業はいくつもあった。橘は、どういう手を使ったのだろうか。もう二年生の分の単位は取ってしまったと言って、ろくに大学にやってこない。羨ましい限りであった。

 杏子の部屋に行くと、彼女はもう起きていた。

「寝なかったの」

「寝たわよ。でもなんか目が冴えて、すぐ起きちゃった」

 冷蔵庫から麦茶を出して、杏子の分もグラスに注いだ。それを飲みながら、彼女はぶつくさ言った。

「主任たらひどいの。シフトがかぶるのはしょうがないから、神崎さん代わりに出てくれないなんてよく言うわよ」

「出るの」

「仕方ないから出るけど、なんでこう貧乏くじばっか引くのかしら。お祓いでも行こうかなあ」

 夕方になったので食事の支度をしていると、杏子は楽しそうに台所にやって来た。

「自炊も堂に入って来たわねえ。結構結構」

 そして二人で夕食を食べた後、流れで英二は杏子を抱いた。なんてことのない、毎日の暮らしの中の一ページ。

 日が落ちて暗くなってきた。英二は起き上がって煙草に火をつけ、服を着ると立ち上がった。

「バイト?」

 横になったまま、杏子が後ろからけだるげに聞いてきた。

「そう」

 とだけこたえて、英二はアパートを出た。

 夜の新宿を歩くと、色々な声が飛び交っている。カラオケに誘う客引き、夜のお仕事してみない、と呼び掛ける若者、同伴に行く途中のホスト。それらを躱しながら、英二は

<le ciel>に向かった。天国、という名のこのバーは、二丁目を行ったところにある。裏口から入って厨房に行くと、そのまま店のなかに入った。馴染みのある顔が彼に挨拶してくる。それらに受け答えしながら、英二はカウンターに行く。すると、それを狙っていたかのように注文がいくつも入った。それらにいちいちうなづきながら、彼は無心にカクテルをつくっていった。

「山崎さん、いつもの水割りでいいですか」

「ああ、頼むよ」

 その客はいつも七時ごろにやってきて、水割りを注文してきた。<le ciel>にどれくらい通っているのか、英二がこの店で働き始めるずっと前より通っているらしい。なにをして暮らしているのかちょっと見にはわからない恰好をしているし、話すこともない。黙々と酒を飲んで、金を払って、そしてどこかに帰って行く。<le ciel>では、客に干渉しないのがルールとなっている。英二はそれが気に入って、ここで働いているようなものだ。 山崎が酒を飲み終わって帰って行くと、英二は一息入れようと煙草に火をつけた。この時間は新宿ではまだまだ宵の口、客はまだまばらだ。

「橘君、大学行ってる?」

 店長がにやにや笑いながらやってきた。

「卒業できる程度には」

 無表情でこたえると、店長はまたもおかしそうに笑った。

「いいわねえ、その無愛想なの。そそられちゃう」

 男でも女でも来るものは拒まず、と言ってはばからないこの男は、いくつになるのだろうか。もう何年も新宿にいるらしく、本名も知らない。英二にとってはそれは、どうでもいいことである。卒業に困らない程度に授業に出て、杏子を抱いて、夜<le ciel>で働く。 このどっちつかずの生活が、英二は気に入っていた。

「卒業したらうちで雇ってあげるわよ。ああそれとも、大学まで出ておいてそんなことするなんて、なんて親御さんが言うかしら」

「親に言わなきゃいいだけの話です」

 ぶっきらぼうに言うと、また店長はううん、そそるう、と身悶えしてそれから入ってきた客の相手にいらっしゃい、と話しかけると、注文を聞きに行ってしまった。

 不夜城新宿の街は、平日でも眠らない。英二は二時過ぎまで<le ciel>にいて、下宿に戻るかどうか少し迷って、杏子の部屋に行った。

 杏子も、<le ciel>の客のひとりであった。杏子の連れの多くが馬鹿騒ぎしているのに彼女はひとりだけ冷静で、そんな連れを覚めた目で見ながら酒を飲んでいた。グラスを片付けている英二に、杏子が声をかけたのだ。

「坊や、いくつ?」

「二十歳です」

 手を休めずに、英二はこたえた。

「八歳下かあ。若いね」

 それにはこたえずに、英二は黙々とテーブルを拭いた。様々な店の立ち並ぶ新宿では、従業員と客の距離が近い店などいくらでもある。そのなかでも<le ciel>は、特に客に干渉しないことで知られている。こんなに客に無愛想でも許されるのは、この店ならではのことであった。

「ねえ、私と遊ばない」

 英二はちらりと杏子を見た。

「君、ちょっとタイプだわ」

 どうやって断ろうか、断るのも面倒だな、思いながら、成り行きで英二は杏子と寝た。 そして特になにも思うことのないまま、杏子の部屋に入り浸りになるようになった。それが半年前のことである。

 たまには下宿にも帰りなさいよと言いながら、翌朝杏子は出勤していった。

 夕方まで寝て、夜になって<le ciel>に行く――そんな生活が、いつまでも続くと思っていた。

 ――あの日までは。


「店長、レッドアイとカシスオレンジです」

 さつきの声で我に返った。曖昧にこたえて、煙草を消して手を洗う。久しぶりの名前を聞いて、すっかり昔を思い出していたようだ。見ると、キョウコと呼ばれていた客はいつの間にかいなくなっている。

 時計をちらりと見た。多くのバーでは客に時間を忘れて飲んでもらうようにとわざと時計を置かないものだが、<Chatoyancy>には時計がある。従業員の二人ともが時計をしていないため、単にその二人が時間がわからないと不便なので、という理由からであるが、そんな客も少なくないため今のところ不満の声はない。

 九時か。夜はこれからだな。

 そういえば食事がまだだった。この分では、夕食は夜半すぎになるだろう。

 帰り際、さつきとタマと歩いていると、公園が見えてきた。するとタマは尻尾を直立にして走り出し、公園の砂場で遊んだり、茂みに隠れたりする。自分が拾われたこの公園を、家のようにしているのである。いつもは茂みで遊んでしばらくしたらさつきの足元にやって来るというのに、今日はすぐに出てきた、と思ったら、タマは毛足の長い黒猫と共に茂みから出てきた。あら、とさつきが足を止める。屈んで黒猫に手を伸ばすと、黒猫はその手にすりすりと顔を押し付けた。

「お友達?」

 タマが一度だけ鳴いた。黒猫は行儀よく座っている。さつきは英二を見上げる。彼は黙って肩をすくめただけであった。さつきはしょうがないなあ、と呟いて立ち上がり、英二と歩き出した。黒猫は、当たり前のようにタマと一緒についてきて、当たり前のように玄関から部屋に入っていった。

「飼われてたんでしょうか。ひとなつこいです」

「さあね」

 英二はそんなことはお構いなしに着替えている。さつきは黒猫にえさをやって、それから着替え、眠った。

 黒猫は、タマと一緒に朝起きてきた。さつきがえさをやると、二匹とも行儀よくそれを食べた。

 さつきは黒猫をシロさんと呼んだ。そのネーミングセンスに、英二は苦笑する。さつきは黄色い首輪を買ってきて、シロにつけてやった。毛が長いので、毎日のブラッシングが欠かせなかった。

 こうして<Chatoyancy>にもう一匹猫がやってきた。



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