6分30秒小説『No brake』
俺は今高速道路を滑っている。パトカーに追いかけられながら、高速道路を滑っている。法を犯すつもりも逃げる気もない。でも止まらない。誰か止めてくれ!
「いい話がある」古い友人からそんな電話があった。「直接会って話したい」と言われ、指定のカフェに向かう。
「久しぶりだなぁ。あ、先に言っておくぞ。ネットワークビジネスとか宗教の勧誘ならお断りだ」
「バカを言うな!そんなんじゃない。お前、今期調子よくないな」
「ああ、そうだな。絶不調だ。脚がどうも……な」
「不動の1番バッター、自慢の脚を使った走塁による出塁率の高さがお前のウリだ。違うか?」
「その通りだ」
「辛いな」
「ああ、辛い。俺ももうすぐ40だ。実は引退を考えている」
「引退?お前が?」
「ああ、”猪突猛進”が俺の座右の銘だったが、いつまでも突き進んでゆけるわけじゃない。人生にはブレーキも必要だ」
「お前らしくないな。なんか悲しいな」
「ま、人生そういうもんだろ?」
「どうかな……引退を決意する前に、俺の話を聞いてくれ。お前の走塁の映像を分析したが、去年と比べて決定的に違うことがある」
「なんだ?」
「すいません。アイスコーヒーください」
「焦らすなよ。言えよ早く」
「スライディングだ」
「スライディング?」
「去年よりかなりスピードダウンしている。あれじゃあブレーキを掛けているようなもんだ」
「……なるほどな。ま、仕方が無いな。何しろ昨シーズンの終盤に、スライディングで怪我をしたからな。強く踏み込めていないのだろう。そんな話をしたくて俺を呼んだのか?”いい話”を聞かせてくれるんじゃなかったのか?」
ことり
テーブルにスプレー缶を置き、友人は眼鏡を押し上げ、アイスコーヒーを啜る。
「なんだこれは?」
「お前を助ける秘密道具だ」
「秘密道具?お前、腹にポケットでも付いてるのか?」
「ポケットは無いが、大学に研究室を持っている。それは俺が開発したスプレー、摩擦係数を限りなくゼロに近づけるスプレーだ」
「摩擦係数を?ほー、相変わらず変な研究をしてるな。『40までのノーベル物理学賞を獲る』なんて息巻いていたが、この様子じゃ夢のまた夢だな」
「お前、このスプレーの凄さが分かっていないな?」
「分からんね。そのスプレーの凄さも、それが俺の不調とどう関係があるのかも」
友人はグラスを持ち上げ、底に目掛けてスプレーを吹きかけた「見てろ」
グラスをテーブルに置いた。”置いた”だけだ。それなのにグラスは、音もなくテーブルを滑り、床に落ちる。「あっ」割れると思ったが、グラスは我もせず、テーブルを滑った勢いそのままに、床を滑り、自動ドアを開いて、雑踏に消えて行った。
「なんだ今のは?」
「本題に入ろう。次の試合の前に、お前のシューズの側面とユニフォームのズボンに、このスプレーを吹きかけろ。そうすればお前のスライディングは、メジャーの一流選手すら目じゃないくらい格段に速くなる。出塁率も間違いなく大幅に上がる」
「……凄い。すまんお前の研究を愚弄して、いいのか?これを使わせてもらって?もしこれで俺が復調できたら、どうお礼をすれば――」
「構わないよ。お前は学生時代からの友人だ。気にするな。打算もある。お前が結果を出してくれれば、俺の研究のいい宣伝になる。ノーベル物理学賞が現実になるかもしれない」
「いや、きっとそうなるさ。有難う」
「そこの……そこの……背番号8番のユニフォームを着た男性!高速道路へは徒歩……徒歩?……車両以外での侵入は禁止されている。速やかに停止しなさい」
「1番、バッター木場、背番号8」
場内アナウンス、歓声、そしてブーイング。打席に立つ。シューズを見る。たっぷりとスプレーを吹き掛けている。見てろ!今日の俺のスライディングは一味違うぜ。
初球、いきなりセーフティーバンドを狙う。水平に構えたバットにコツンとボールが当たって、三塁方向に向かって転がってゆく。俺は全力で走る。両腕をぶっ飛んで行くほど強く振り、腿を夜空に突き刺すように振り上げ、一塁へ猛進する。手前3メートルで、思いっきり塁に向かってスライディングをする。「滑れ!」シューズの横っ面と、ユニフォームにたっぷりと沁み込ませたスプレーの成分が、地面との摩擦を減らし、俺のスライディングは減速することなく、一塁へ届く――そのはずだった。いや、実際にそうなったのだが、それだけに留まらなかった。
一塁に足が届いた。一塁手のミットは空っぽを抱えたまま固定されている。俺の視界はそれを見上げながら通り過ぎ、一塁線の延長上をなぞって、減速することなくぐんぐんと進んでゆく。
「ぶつかる!」
フェンス直前で、脚を挙げると、俺の体はフェンスを這うように滑り、弧を描いて大きく跳ねた。球場が眼下に見える。ホームランボールも同じ景色を見ているのだろうか?――なんて悠長に考えていたら、球場を飛び出してしまった「場外ホームランだ」
球場の外の路面に着地する。衝撃で骨折でもするかと思ったが、あのカフェで見たグラスのように、俺の体は何のダメージも受けることなく、そのまま滑り続ける。マズイ!このままでは車に跳ねられる!そう思った瞬間、背中に衝撃が走った。案の定車にぶつけられた――が、摩擦が無いせいか痛みは殆どなく。車の衝突により、俺の体は更に加速し、ぐんぐんと滑ってゆく。
「嗚呼」
「背番号8番!最後の警告だ!今すぐ停止しなさい!」
俺は苦笑いを浮かべる。ブレーキが付いてないんだ。海にでも辿り着かない限り、俺は止まらないだろう。いや、ひょっとしたら海の上を滑って、何処までも進んでゆくかもしれない。ホバークラフトのように。もしもこのまま突き進んで、国境を越えてしまったら、俺は射殺されるのだろうか?
「クソっ!パスポートを持ってくるべきだった」
あれから何時間経っただろうか?いつの間にか眠っていた。パトカーは振り切ったようだ。辺りは暗い。ここは?水上?海だ……「マジかよ」
友人の笑顔が浮かぶ。右手にトロフィーを大きく掲げ、英語でスピーチをしている。左手には遺影を抱えている――白黒の枠に収まった俺の笑顔。
減速すれば海に沈む。立ち止まったらすべてが終わってしまうんだ!俺の人生はまだ続く!せめて娘の成長を見届けたい――立ち止まる訳にはいかない!
「行け!俺よ!どこまでも突き進めー!」
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