6分40秒小説『詭計』

 インボイス制度のせいで、経理課は混乱状態、残業続きだ。若い私と、古株のおばさん二人というフォーメーションで、連日伝票と戦っている。混乱の度合いが増すたびに、怒りの矛先がどんどん大きなものへと向かっていく。今やこの制度を作った国家が、私の心の敵だ!


「大野さんちょっと暑くない?」

「そうですねぇ……ちょっと暑いかもですね」

 飛田さんが話しかけてきたので、無難に応えた。目線はモニター、指はキーを叩き続けたままで。

 私の机の右斜め前に飛田さんの机、その向かいに山岸さんの机がある。上から見ると、私の机がカブトムシの頭の部分で、二人の席が翅のようになっている――例え分かりにくい?


 飛田さんが立ち上がり、壁に埋め込まれたエアコンの調節パネルに向かう。「うーん」と唸って、ピッと三回鳴らす。どういう操作をしたのか、ここからは見えない。飛田さんが席に戻る。冷たい風が天井から吹き下ろしてくる。トイレに行くついでに、設定を確認する。”ドライ26℃弱風”よく分からない設定だ。用を足し、事務所に入ろうとした瞬間、違和感を感じる。空気が変わっている。文字通り、空気が変わっている。調節パネルを見る。”暖房19℃風量自動”これまたよく分からない設定た。椅子に座ろうとした瞬間、飛田さんと目があった。顎をくいっ前に付きだし、山岸さんの方を指す。嗚呼、また始まってしまった。


 エアコン戦争。私はそう呼んでいる。経理課のお局様二人によるエアコンの設定争い。私がトイレに行っている間に、起こった出来事、想像に難くない。きっと、飛田さんが行った設定を、山岸さんが無言で変えたのだ。それに対して飛田さんは、静かな怒りを燃やしている。嗚呼、まじで勘弁し欲しい。更年期障害で体温調節がままならない二人の初老女性それぞれが、それぞれの基準で空調をいじりまわすのだからたまったもんじゃない。室温は乱高下する。ひょっとして、この気温の激変がエルニーニョ現象の一因となっているのではなかろうか?

 その日は、3ターン程だった無言の攻防。明日もきっと同じことが起こる。


 先に仕掛けたのは山岸さんだ。

「ねぇ、ちょっと寒くない?」

 何故一回私をバウンドさせるだろうか?無言で勝手に開戦して欲しい。仕方なく「そうですね」と応え。目線はモニター、指はキー。

「嗚呼、寒い寒い」

 そう言って調節パネルの前に立ち、ぴを5つ程並べ、部屋を出ていく。飛田さんが立ち上がる。

「なんであの人、私には聞かないの?ねぇ、おかしいと思わない?」

 思わない。だって貴女も山岸さんに確認せずにかってに設定を変えまくっているから。でも「そうですよねぇ」とやり過ごす。ぴが2回。嗚呼この音嫌い!ノイローゼになりそう!

 飛田さんが席に戻ろうとしたその背後に、山岸さんが突如現れた。私はぞっとした。トレイに行ったにしては戻りが早すぎる。ひょっとしたら、いや多分間違いなく、廊下で中の様子を伺っていたに違いない!事務所に入るなり、パネルに触れ、7回ほどぴを連ね。席に戻る。天井から熱波が吹き下ろしてくる。確かタクラマカン砂漠も同様に寒暖差が激しいと聞いたことがある。私の脳裏に、水牛の頭蓋骨を這うサソリの映像。

 山岸さんが椅子に座るか座らないかのタイミングで、飛田さんがずんずんと地面を踏み鳴らして、パネルに向かった。こんなに早い切り返しは初めてだ。私の鼓動が一オクターブ上がる。ぴがやたらと鳴って、天井から吹雪が吹き下ろしてくる。確かK2の山頂付近は、平均気温が-10℃らしい。がたん、椅子が跳ね飛ぶ音、猛然と立ち上がった山岸女子の膝裏が、椅子を蹴り飛ばしたのだ!ヤバい!


「飛田さん。ちょっといいかしら?」

「あら、何か御用?」

「大野さんが寒がってらっしゃるから、もう少し温度を上げてくださる?」

「大野さんが?寒がってる?そんなことないわよね?大野さんは暑がりなのよ。貴女と違って若くて代謝が高いから、体温も高いの。ご存じないの?」

「そんなことないわよね?大野さんは冷え性で困ってるっていつも言ってるもの。それなのに飛田さんがむやみに温度を下げるから、迷惑しているのよ。ね?大野さんっ!」

 私のターン?困った。

「冷え性は、冷え性です」

 自分でも良く分からない返しをしてしまった。

「大野さん、いいのよ、山岸さんに気を使わなくても。山岸さんが部屋から出て行ったあと、いつも二人で嗤ってるものね。”あの人自分勝手よね”って」

 巻き込むな!

「嘘よ嘘!大野さんは、飛田さんに話しかけられてもモニターから目も離さずに迷惑そうに返事してるのよ。私の席からよく見えるのそれが。その度に可哀そうだなぁって。飛田さんに合わせる気苦労が、私にはひしひしと伝わって来るわ」

「いい加減なこと言わないで頂戴!大野は私の可愛い後輩よ!」

「いいえ!私の後輩よ!」

 頭の中に、河合奈保子の『けんかをやめて』のイントロが掛かる。事実今、二人が私をめぐって言い争っている状況。

「不毛だわ!ねぇ、山岸さん、こうしましょう。今後は、大野さんの意見を聞いて、その通りに空調を設定するの。どう?」

「大野さんの?いいわよ。そうしましょう。さ、大野さん。何℃に設定する?」

「”冷房16℃急風”よね?」

「”暖房28℃弱風”よね?」

 北風と太陽?私はシャツの胸元をはだけ。

「見てください。私、いつも鎖帷子を着込んでいるので、それに合わせて頂けると助かります?」

 二人が絶句する。

「鎖?」

「帷子?」

「はい、なので、それにあった温度設定でお願いします。あ、すいません。私用の電話ですが出ても構いませんか?」

「え、あ、どうぞ」

「もしもし……あ、はい……はい。そうです。マキビシのLとクナイのアソートを3セットずつ……あ、その件でしたら脈を確認したので間違いありません……はい、いずれにしてもあの出血量では……はい、じゃあ宜しくお伝えください」

 電話を切る。そして二人を交互に眺め。

「で?なんの話でしたっけ?」

「え?いや」

「えーと……あ、そうね。今後は私たちは空調パネルに触れないことにしましょう。ね?大野さんにすべて任せましょう」

「そうね……それがいいかもしれないわね」


 以来、飛田さんと山岸さんは、言い争いをしなくなった。それどころか、以前よりも親密な関係になったように見える。しかしその分、私に対して距離を取るようになった。ま、それは一向に構わない。ともかく、私が望んだにほぼ近い結果を得られて、私は満足だ。


 私の詭計に、二人はまんまと嵌ってしまったのだ。

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