5分20秒小説『車椅子に乗った蝶』
むかしむかし、或る柊の葉の裏で、一匹の雌の蝶が羽化しました。殻を破り、春目掛けて這い出すと、空見上げ、温かな風を浴び、楽しい毎日の予感に胸躍らせ、力いっぱい翅を伸ばしました。「こんにちはセカイ!」。
しかしセカイは無言でした。蝶は狼狽えます。首を曲げ、背中を見ると、そこに有るべき翅が、有りませんでした。蝶には生まれつき翅が無かったのです。
それから蝶は、”毎日”に怯えて暮らします。日が昇り、一日が始まると、柊の葉の裏に身を縮こまらせ、誰にも見つからないように、ただ呼吸をするだけ――そうやって時間をやり過ごしていました。その繰り返しが、自分の一生なんだと――蝶は思っていました。でも、喉も乾くし、お腹も減ります。
「食べ物を探さないと――」蝶は、羽化した柊から離れる決意をします。翅が無いので、枝を伝い幹を伝い、地面に降りて、這うように歩きます。「何処かに花が咲いてないかしら――」湿った地面には、小石や枯れ枝が埋もれていて、蝶の柔らかいお腹は傷だらけになり、透明な液を漏らしました。それでも、何か食べないと死んでしまうので、体を引きずりながら花を探します。
「君は何だ?」
蟻が訪ねました。
「私は蝶です」
「蝶?」
「はい」
蟻は嗤いました。
「翅が無い蝶なんて初めて見たよ。おい、皆来いよ!面白い物が見えるぞ」
蟻の声を聞いて、色んな虫が集まって来ました。そして蝶を見て嗤いました。
「なんて惨めな姿なんだ」
「不気味ね。化け物みたいだわ」
蝶は悲しみました。でも嘲笑を掻き分け、進みます。ツツジの幹に張り付き、呼吸を整え「この幹を登ればきっとその先に、花が咲いている」。
空から見渡せばすぐに見つかるはずですが、蝶には、それが出来ません。幹に取り付き、昇り始めます。登って確認するしかないのです。
仲間の蝶が何羽も集まって来て、ひらひらと周りを飛びながら――。
「ねぇ、この先に、花が咲いているかどうか、見て来てあげましょう?」
「ええ、お願いします」
「見てきたわよ」
「どうでした?」
「満開だったわ」
「よかった」
「じゃあ、頑張ってね」
皆でクスクス笑いました。蝶の胸部に、暗い予感が灯りました。それでも幹を登り切り、見渡すと――そこに、花は有りませんでした。
蝶は心が消えていくのを感じました。このまま地面に墜ちてしまおうかと考えました。自分はきっと、生まれてはいけない存在だったのだ――引き返す力は、もう残っていません。
蝶は笑いました。自分の背中を見て、笑いました。「ワタシはちゃんと生まれることができなかった。だから、さようなら、セカイ」枝の先端から身を乗り出した瞬間、強い風が吹きつけて、蝶の体を押し戻しました。仲間の蝶の羽ばたきでした。雄の蝶です。とても立派な翅を持っています。周りには沢山の雌の蝶がいます。さっき嘘を言った蝶もいます。
「気を付けなよ。落ちるとこだったじゃないか!」
「そのつもりだったの。邪魔をしないで」
「え?まさかキミは、飛び降りて死ぬつもりなのかい?」
「そうよ」
「どうして?」
蝶は悲しそうに笑いました。
「アナタもワタシを馬鹿にするの?その質問は、ワタシを深く傷つける」
二人の会話を聞いていた雌の蝶たちが、割って入ります。
「ねぇ貴方、ほっといてあげましょうよ」
「そうよそうよ。死にたいっていうのなら、死なせてあげればいいじゃない?」
「そうね。私だって、あんな体に生まれたらきっと死にたいって思うもの」
雄の蝶は、静かに言いました。
「君たちは何処かに飛んで行きなよ。ボクは、この子と話があるから」
雌の蝶たちは、驚き、怒り、失望しました。でも雄の蝶が、強い目で睨んだので、傷心して皆何処かへ飛んでいきました。
ツツジの頂上に、翅の無い雌の蝶と、立派な翅を持つ雄の蝶が居ます。暮れかかる橙色の空に、二人の影が濃く浮かび――。
「死んではいけない」
「アナタにそれを言う権利はない」
「ボクと結婚してくれ」
「どれだけ私を傷つければ気が済むの?」
「本気だ」
「嘘を吐かないで」
「本気だ」
「じゃあ言ってみて。翅も無い、空も飛べない、そんなワタシのどこに、アナタは惹かれたというの?」
「翅だよ」
「翅?いい加減にしてワタシは――」
「透明な翅が、ボクには見える。どの蝶よりも大きく、どの花よりも美しい。透明だけど、ボクには、見えるんだ」
「嘘よ嘘よ……でも有難う、こんなにも信じたい嘘を言ってくれて……」
雌の蝶は涙を流しました。雄の蝶が体を寄せます。
「まだ陽は沈んでいない。一緒に飛ぼう!」
「え?」
「力を抜いて」
返事をする間もありませんでした。雄の蝶は、雌の蝶を脚で抱きかかえ、ツツジの葉から飛び降りました。雌の蝶が叫びます。雄の蝶はにっこりと微笑み、力いっぱい羽ばたきました。二匹の体は、ぐんぐんと空に昇って、何処かへ消えていきました――とさ。
********************
「ねぇママ、その後、蝶々さんたちはどうなったの?」
傾いた陽が、部屋に陰影を作っています。光の中で声がします。
「蝶々さんたちはね、結婚したの。そして、可愛い赤ちゃん――そう、アナタみたいな可愛い子が生まれて、今は皆で幸せに暮らしているわ」
車椅子に座った女性が、優しい瞳で、娘に微笑みかけました。光の中で、蝶のように。
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