7分50秒小説『吉兵衛さんの瓢』
「じゃあ、そろそろ――」
そう言って吉兵衛さんは立ち上がる。茶代を縁台に置く。
「まだ日差しが強いですよ。もう少し涼んでいったらどうです?」
「いや、ここで油売ってる訳にはいかいないからね」
「ああ、はは、面白いことを言いますね。なるほどね」
「よそで油売らなきゃ銭にならない。じゃあ」
油屋の吉兵衛さん、昼時にはいつも、この茶屋で弁当をつかう。年齢は私と同じくらい、四十がらみといったとこか。生まれは信州らしい、訳あって江戸に来たそうだ。たまにその話をするんだけど、その”訳”ってやつを聴くのを毎度ためらって止める。色黒で痩せている。独り身らしい。身寄りは無いと聞いている。
私?私は茶屋の主です。家族は妻と子供二人。裕福というわけではありませんが、お蔭さまで、なんとか人様並の暮らしはできております。
「いつも済まないね」
「いえいえ、こちらこそ、毎日来ていただいて」
「いやぁ、毎日来てはいるけどね。お茶代だけ払って、手弁当を食ってるだけだ。邪魔っけだろ?いや、いいんだよ世事は。ちょくちょく甘い物や、おかずやなんかを御馳走してもらっちゃってね。ほんとありがたいよ。いつかなんかの形でお返しができればいいんだけどねぇ」
「お返しだなんて言っちゃ嫌ですよ他人行儀な。こうして毎日顔を合わせていると、もう身内のようなもんですから、ここは家の別棟なんだと思って、ご自由に寛いでください」
「ははは、別棟は良かった」
蝉も鳴くを厭う真昼時、湿った風が吹くが、川の面を撫でてきた風だから、それなりに涼しい。遠くを見て、茶をあおる吉兵衛さんの腰で、例の瓢(ふくべ)が揺れる。じっと見てしまう。
「ん?ああ、これかい?」
「あ、いえ」
「はは、これだけだよ私の持ち物は」
中身は薬らしい。朝煎じて詰めて来るそうだ。心臓が悪いらしい。いや、中身なんかどうでもいい。瓢、いい色艶だ。なんとも言えない。渋柿色というか、夕映え色というか、くすんだ色だが、汚くはなく、古い仏像のような、神々しとは言い過ぎかもしれないが、それに近い光沢があって、きっとそれは、吉兵衛さんが油の付いた手で触るもんだから、それが沁み込んでしまったのと、日に当たって、色が変わってしまったのと、またひょっとしたら、中身の薬の色が移ってしまったのと、相まって、いや、私は道具屋でもないし、物の目利きなんてできやしないんだけど、なんというか、男心をくすぐるというか、とにかく、吉兵衛さんの瓢は、私にはとても良い物に見える。
実は、思い余って自分で同じものをこさえようとしたことがある。油を塗って、日に晒して、それを何日も繰り返して――いくつかやってみたが駄目だった。吉兵衛さんから買った油でやってみても駄目だった。あの色艶はどうしても出ない。
「じゃあ、もう行くよ」
立ち上がる。茶代を縁台に置く。いつものように引き留めるが、笑って去ってゆく。考えてみれば、瓢の話になるといつもこうだ。私が物欲しそうに見ているものだから、ばつが悪くなるのだろうか?いや、くれなんて言ったことは無いし、当然そんなつもりもない。ただ、妙に気になって、ついつい目が行ってしまう。
あのなんとも言えない色艶、形、あれに酒を入れて飲んだら、さぞかし気分がいいだろうなと。ちょっと物見遊山の共に腰にぶらさげて、たまにぐびりとやる。傍で見ている人が、「いい瓢ですね」なんて声を掛けて来たら、「いやー、ただの安物ですよ」なんて言って、ふふ。
その日も暑い日だった。
「じゃあ、もう行くよ」
「そうですか。今日も暑いですからね。気を付けてくださいね」
「ああ、ありがとね」
そう言って立ち去ってから暫くして、片づけをしようと吉兵衛さんが座っていた縁台に行ったら、そこにあったんです。瓢が。
「えっ?」
思わず手に取る。嗚呼、手触りも良い。想像通りだ。手にすっぽりと収まる。私の手にぴったりだ。まるで、寸法を合わせて作られたような。
吉兵衛さん、はっきりと自慢こそしやしないが、私が褒めたらまんざらでもない顔をして、気に入っていたのは間違い無いはずなのに、うっかり忘れていくなんて……いや、紐が切れてる。炎天下を毎日歩いているからな。立ち上がった拍子に擦り切れたんだ。
嗚呼、こうして触っていると、何か生き物に触れているな感じさえする。中でちゃぷり、そうか薬が入っているんだっけ。いや、しかしいいなぁ。手に取ってみて更に良い物だと思うようになった。欲しいな。でもくれないだろうな……いや、お願いしたら案外呆気なく手放すんじゃないか?いや、どうだろうか?
いかん!返しにいかないと……でももう随分時間が経ってしまった。今から追いかけても追いつかないし、帰りにでも寄るだろう。これは大事に仕舞って預かっておこう。
日暮れになっても、吉兵衛さんは来なかった。次の日――。
「聞いたかい?」
「何をですか?」
「吉兵衛さんのこと」
「え?何かあったんですか?」
「何かあったんですかじゃないよ。本当に聞いてないのかい?昨日亡くなったんだよ」
「え?……まさか」
「いや、そのまさかさ。あんなに元気そうだったのにねぇ」
「どうして死んじゃったんですか?」
「心臓だよ。心臓が止まって倒れちゃったらしい。もともと弱かったらしいね」
「嗚呼……そういえばそんなことを言ってました」
「いい人だったのにねぇ。可哀そうにねぇ」
蝉の声が途絶えた。昼間なのに、辺りが真っ暗になった。
心臓……ひょっとして、薬を飲み忘れたからか……瓢をここに忘れてしまったから、薬が飲めずに亡くなっちゃったのか?……いや、そんなことはないだろう。
「どこで、倒れてたんですか?」
「近くだよ。ここに来る途中だったんじゃないか?」
また真っ暗になる。やっぱりだ……瓢を取りに戻る途中だったんだ。なんてことだ。もしあの時、私がすぐに後を追いかけていれば、吉兵衛さんは、死ななかったかもしれない。いや、そうとも言い切れない……薬を飲みそびれたくらいで、流石に死にはしないだろう……でも……。
「おいどうした?ぶつぶつ独り言なんて言っちゃって。顔色が悪いけど大丈夫かい?」
「いえ、なんでもありません。ちょっとすいません。おい、お前、代わっておくれ、厠に行くから」
私は、仕舞ってあった瓢をこっそりと懐に入れ、吉兵衛さんが亡くなったと思われる辺りまで走った。
「たぶん、この辺りだろう」
日差しが強く、坂がきつい。心臓が弱い人には、堪える場所だ。
私は、瓢の栓を抜き、中の薬を空けた。そうして、手を合わようとして気付く。道端に、花が供えてある。嗚呼、やっぱりここだったんだな。
「吉兵衛さん、済まないことをした」
一通り拝んでから、私は――。
「あの瓢なんだが……私にくれないか?」
返事が無いのは分かっている。でも思わず口から出てしまった。風がひゅうと鳴った――いや、そんな気がしただけなのかもしれない。
私は、自分に呆れた。少し驚いた。あんなことがあってもまだ。この瓢を自分の物にしたいと願っている。私はひょっとしたら……瓢を届けなければ、吉兵衛さんは心臓の病で倒れてしまうかもしれない……そうしたら、この瓢を自分のものに出来ると……いや、そんな酷いことは……思っていないはずだ。そう願いたいよ。
夜。灯りに瓢を翳す。嗚呼、はやり良い品だ。天に二つと無い。
そうして幾日か経った。瓢は誰にも言わずに、隠してある。たまに出して眺める。
何か月か後、瓢はすっかりと色が変わってしまった。暗い押入れの中で日にも風にも当たらなかったからだろう。押入れの中の饐えた闇が滲んだような色になってしまった。それは私の心も同じだった。
私も瓢も、もう二度と元の色には戻れやしないのだ。それでも私は、吉兵衛さんの瓢を手放さずにいる。いや、手放せずにいる。
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