8分30秒小説『裸一貫』
「へいらっしゃーい」
暖簾を潜るなり、頬を張られたと錯覚するほど勢威のいい声が飛んできました。
カウンターに全裸の大将がいました。はい、それが最初の出会いです。部長の方を見たのですが、何事もなくカウンターに座りました。僕も座りました。店内の客は、僕と部長だけでした。
部長と大将は談笑を始めました。お互いの近況報告といった内容でした。全裸には一切触れません。一瞬これは悪い冗談?――つまり、部長が大将を唆して、僕を担ごうとしているのではないかと、思いました。ですが暖簾に書かれた『裸一貫』という屋号を思い出し、そういうことなのかなとも思いました……え?「”そういうこと”とはどういうことか?」って……そういわれましても、答えに困るのですが――その時は、何でもいいから、自分を納得させる答えが欲しかったのだと思います。
大将ですか?40代ぐらいの小太りなおじさんで、ごく普通の雰囲気でした――裸である点を除けば。
「ナニを握りましょうか?」
全裸で聞いて来ました。カウンター越し、大将の大将がチラチラと見切れています。
「あの……その……」
見かねて部長が――。
「君初めてだったな。ここはね、ナニ頼んでも旨いぞぉ。さ、好きなもの頼みなさい」
僕は、為す術なく注文をしました。
「中トロください」
「へぇい」
淀みなくお寿司を握る動作、美しいと思いました。
「おまちぃ!」
大将の手がカウンター越しに伸びてきて、中トロが僕の前に出されました。僕は躊躇しました。ええ、衛生的にちょっとどうかと思いまして。
「遠慮しないでやりたまえ」
部長に促され、腹をくくり。
「……頂きます」
大将が全裸で握った中トロを僕は摘みます。大将の中トロがチラチラ見えるんですが、できるだけ見ないようにしながら、口に放り込みました。
「こ……これは?!」
思わず口に出した僕を見て、部長は身を乗り出し。
「なっ!最高だろ?」
確かに最高の味、今まで食べた寿司の味が全て霞んでしまうほどの味でした。(これが寿司だっていうんなら、今まで食べてきた寿司は一体なんだったんだ?)グルメ漫画に出てきそうなフレーズさえ浮かびました。
大将は、部長とゴルフの話で盛り上がっています。気のせいか、大将の大将が先ほどより若干大きくなっているように見えました。若干ですよ本当に若干です。
僕は次々に寿司を注文しました。大将の握る寿司はどれも絶品で、感動しました。料理で感動したのは初めてかもしれません。
この段になって僕は、大将が裸である事と寿司の味について、何らかの関連性があると思い始めました。まぁ、先ほどの話を聞いた後では、そうとも言い切れないという印象ですが……。
お店の雰囲気ですか?こじんまりとして、凛と張り詰めたような緊張感があって、でも、何故か心が和む。鏡のように拭き込まれたカウンター、簡素で風情のある活花、寺社にも通じる静けさ、様々な因子が空間を演出していました。大将の裸体もその中の一つの因子となっていることは疑いようがありません、でもそれが、具体的にどういった因子なのかと問われると、答えようはありませんが。
部長と一緒に店を出ました。
「どうだった?旨かっただろ?」
「はい、今日はごちそうして頂いて、有難うございます」
結局上司は大将の全裸問題に一切触れることなく帰って行きました。僕は聞く機会を完全に逸してしまいました。
次にお店に行ったのは、その一週間後です。一人です。正直、僕の給料ではちょっと厳しめのお値段ですが、大将の寿司には、金額以上の価値があると、思っていました。
その時です。常連客の山本さんと初めて会ったのは。下の名前は知りません。
「山ちゃん久しぶり」
”山ちゃん”と大将に呼ばれた男性、年齢は、大将と同年代に見えました。ですから40代くらいでしょうか。
「ご無沙汰しちゃったね大将」
挨拶を返すと、おもむろに服を脱ぎ始めました。
大将の全裸にやっと慣れてきた僕ですが、さすがにこれには引いてしまいました。しかし山本さんは、そんな僕の気持ちに気づくこともなく、するすると脱衣していきます。衣服を丁寧に畳んで足元のカゴに入れました……後で分かったことですが、各椅子の下には、脱衣カゴが備え付けられていました。
「どう?元気にしてた?」
「いやー、参ったよ。実はこないだ健康診断でさぁ――」
ごく普通の会話が始まりました。着衣の僕は、居た堪れなくなりました。この時点で2対1で少数派な訳ですから。その時――。
「いいかい?」
名前は存じ上げませんが、常連の方のようでした。はい、その常連の方も大将と軽い挨拶を交わした後、全裸になりました。
その時僕は、なぜ全裸になる必要がある?僕がおかしい?いや、そもそもの疑問は、なぜ全裸で寿司を握るのか?という所に行き着く――そう思いましたでも、疑問になんとか折り合いをつけ、純粋に大将のお寿司を楽しもうと、そう気持ちを整理できていた――そのはずなのに、カウンターのこちら側のセカイに全裸ルールが適用されるのを目の当たりにして、僕は再び疑念の囚われ人となってしまった訳です。
結局その日、お客さんが何人か入って来ましたが、皆全裸になりました。僕が名前を知っているのは、先ほどの山本さんだけです。他の方は、知りません。
ただ、病院の院長さんと、弁護士さんが居て、何故か、こういう所には、そういう人が意外と来るもんだなぁと納得し――いや、”こういう所”とは具体的にどういう所か?と聞かれても答えようが無いのですが、ともかく、僕意外は全員全裸で、僕だけがドレスコードを知らないか、着衣に執着心のある異常者、という――いえ、そう言われたわけではありません。勝手に自分でそう感じていました。
3回目にお店に行ったのは、数日後――3日後だったと思います。ええ、19日ですかね。はい、その時初めて、僕は全裸になりました。
遅い時間に行ったのですが、既に店内は、全裸の男性客が複数人居ました。はい、心理的抵抗はありませんでした。服をすべて脱いで、脱衣カゴに入れました。でも内心ではどきどきしていました。嗚呼、ついに僕もデビューしたって――いえ、ですから、具体的に何のデビューかと聞かれると、まぁ察してください。ともかくですね、その時僕は気付いたんです。裸で食べると、お寿司の旨みが増すことに。
自分なりに考えた末に出した結論ですが、服を着るという行為は実は、人体に重度の緊張を強いる行為なのではないかと、つまり、裸になって一切のストレスから自由になった状態だと、人の五感は冴えわたり、当然味覚もそうなわけで、お寿司を食べると、いえ、きっとお寿司だけだはありません。食に留まらずあらゆる芸術を全裸で鑑賞すると、着衣の時には感じる事のできない新たな境地が見えてくるのではないかと、こんな場でこういうことを言うのはアレかもしれませんが、たぶんSEXも全裸だから気持ちいいのだと、はい、その時そう思いました。いえ、今でも思っています。そこは揺らぎません。
衛生的な問題……はい、感じたことがあります。ええ、シャリとネタの間から、縮れ毛がコンニチワしている時があったんです。大将に言うと、大将は真顔で「ひじきです」と即答しました。言い慣れてる感じでした。はい、わざとではないと思います。いや、陰毛かどうかは分かりません。いえ、庇っているわけではありません。
ただこれだけは言わせてください。本当にあの空間は、純粋にお寿司を楽しむ為の空間だったんです。少なくとも僕にとっては。
はい、確かに勃起していました。でもそれとこれとは話が違います。いや、あの時は、芸能プロデューサーの方が、「今度アイドルの子を連れて来ようかな」って言ったんです。それで皆あんなことに、だからあの場は、貴方が思っているような、淫らな集まりではないんです。たまたまその場に刑事さんが踏み込んで来られた――それだけです。間が悪かったんです。性的な接触は一切ありませんでした。
はい、それは先ほど別の刑事さんから聞きました。正直ショックです。大将が若い男性にわいせつ行為を働いた容疑で起訴されたって……。
でもまだ心のどこかで、大将のことを信じたいと思っている自分がいます。あのお寿司は、不純な気持ちで握れるお寿司ではありません。刑事さん、食べてみれば分かりますよ。
機会があれば是非、その制服を脱いで裸になって、純粋な一人の人間となって、お寿司に向き合ってみてください。
貴方にもきっと、新しい世界が見えるはずです。
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