4分10秒小説『toxic』

 尾の先端がぶつ切れた蠍だ。

 国道の脇、縁石の影に身を縮こまらせ、「今日こそは太陽が昇りませんように」と居留守が上手なカミに祈る。「ニンゲンに見つかれば間違いなく殺される」

 危険だからと尾を切られた挙句棄てられた。ずっと恨んでいる。もしも針があるならば、片っ端から奴らに毒を撃ちたい。

 艶のない皺の寄った黒い鎧、守るべきものはこのスカスカの身体か、腐毒の回った心か、苔をはぐり、団子虫に問うが、無言で丸まるだけ。爪で引き裂き肉を啄む。


 ある朝、犬の糞の隣に横たわる小さな蝶を見つけた。予想外の御馳走だ。忍び寄り、爪を立てようと――

 「誰?」問う声、聞いたことのない響き。「翅が折れているのか?」「ええ」「じゃあ飛べないな?」「ええ」「じゃあ喰ってもいいな」「嫌よ」「どうしてだ?」「”どうして”って……貴方、針が無いじゃない?」「そうだ」「じゃあ猫に食べられても平気?」「何っ?」「どうなの?」「嫌だ」「じゃあ私を食べる権利は無いわ」「権利?」「ええ、そうよ」

 俺は、こんなに長く誰かと会話を交わしたのは産まれて初めてだったし、何より彼女の声の美しさと、折れているとはいえ、翅が纏う鱗粉の輝きと彩に――心臓が無意味に高鳴っている。

 「ねぇ、探しに行かない?」「何を?」「安全な場所、食べ物が沢山あって、平和に暮らせる場所」「そんな場所があるわけ――」「探したの?」「いや」「じゃあ、”あるわけない”なんて言わないで。一緒に探して頂戴」


 こうして、なんとも奇妙な二人連れが出来上がってしまった。


 旅は無用に楽しかった。2人の共通の敵は常にセカイだった。それが絆を保ち、深めた。相変わらず彼女の声は美しく、折れた翅は色彩を失っていない。時にはしゃぐ彼女を背に乗せて、大きな石を乗り越えたり、時に落ち葉の下に宿って、2人思い出を交換したり、俺はとにかくこの旅が永遠に続くことばかりを望んだ。

 そうしていつしか気づいた。平和な場所なんて存在しなくていいのだ。同じくそれを望み、同じくそこを目指す存在が隣にいれば、生きる意味はあるのだと。

 そのことを告げた夜、彼女は悲しそうに笑って、俺の頬に口づけをした。


 カミは居留守なんかしていない。ヤツは家出ししたのだ――自分で作った世界から。そう確信した――蟷螂が鎌を振り下ろし、彼女の翅の片方を切り落とした瞬間に。「逃げて……」彼女の複眼に、醜く無力な俺、無数に映る。

「さようならだ」

 俺は別れを告げ、爪立て蟷螂に突進する。だが予想した手ごたえは無く、鈍く熱い感覚、鎌で首を締め上げられた。ぎりり、器用なヤツだこんな太い首を挟むとは――"このままじゃあ折られちまうな”。ぼんやりする視界、微かに彼女と目が合う。「どうして?どうして逃げてくれないの?」「逃げる?逃げるのはもういい」

 俺は尾を振り上げ、ヤツの腹目掛け突き立てた。

 蟷螂は逆三角の頭を不思議そうに捻り、腹にごく小さな裂傷を作っただけの俺の一撃を見下ろして笑う――

「笑ってろ」

 俺は体中の体液を尾に集めてヤツの腹にぶち込んだ。毒もへったくれもない。いや、きっとこの体の中に、幾ばくかの毒が残っている――そう信じて。


 俺の首がもげ落ちる間際に、やっと蟷螂は動きを止めて、意思の無い眼で空と俺とを交互に眺め、こと切れた。

 彼女を見る。彼女は動かない。死んでしまったのだろうか?

 ”だったらいいのにな”と、思った。彼女がいない生は無価値だと俺は理解していた。そして、彼女も同じことを理解している――確信できるほどの絆を2匹は結んでいた――不用意にも。

 つまり、俺はもう死ぬのだから、彼女だけ生き延びてしまうのは、かわいそうだと――いや、こんな価値観、誰にも理解されないだろう。相互依存が癒着にまで達した俺たちの心象風景、誰にも可視化できる筈がない。

 「生きているか?」おそるおそる尋ねた。「ええ生きているわ。でも安心して、もうすぐ死ぬから」「……そうか」

 俺は初めて笑った。彼女の嘘が、このうえなく嬉しかったのだ。

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