3分50秒小説『格の格』
助三郎へ
俺は今、惑うておる。
武士としての矜持、臣としてあるべき姿、当然として五体に染みわたっておると、そう自負して今日まで生きてきた。それが揺らいだ。
事の次第を順を追って書き記したい。退屈であろうが、記憶を辿り、再度自らの性根に問い質すべく行うものである。しばし付き合ってくれ。
例によって発端は八兵衛だ。ご老公が御不浄へ向かわれる折、お預かりした印籠を代官の手先である乱波に掏られたことがすべての始まり。
その後我らは、あらぬ因縁により代官に捕らえられ、牢に入れられ、翌日白州で取り調べを受ける手はずとなった次第。ここまでは、よくあることだ、最早我らにとっては、日常と言ってよい程に。
そうして、取り調べの場で、問題が起こった――といっても助三郎、お前にはなんのことか分かるまい。
まさに代官の裁きが下ろうとするその時、弥七の投げた手裏剣により我らは縄から脱した。代官は激高し、手の者を呼び集め、我らを取り囲んだ。そこでだ。覚えているか?いや、当然覚えておるだろう。いつもの事だ。ご老公がこう仰せになった。
「助さん、格さん、懲らしめてやりなさいと」
助三郎、お前は素晴らしき家臣だ。ご老公の一声に、待ってましたと言わんばかり、手近な者に組み付くと、息もつかせぬ間に投げ飛ばし、獲物を奪い、ご老公の背にぴたりと身を寄せて辺りに睨みを効かせた。「あっぱれ、あれこそが武士の理想の働きよ」と、今にしてもしみじみ俺はそう思う。問題は俺だ。
俺は――俺はね助三郎、ご老公の例の「懲らしめてやりなさい」の後、暫く動けなかったのだ。いや、時としてほんの数秒のことではある。が、動けなかっただ。俺は、逡巡してしまったのだ。理由はきっと、お前には理解できまいと思う。つまり俺はその時――
(ご老公は今、印籠を持っていない)
と、心の中で思った。いやそれは当然のことだ。そこまでは何ら恥じることでもない。しかしだ!あろうことか俺は、いや、ここからは俺自身にも未だに確証は無いのだが、きっと俺はこう思ってしまったのだ。
(印籠を持っていないご老公の命令を、俺は聞くべきであろうか?)
と。
笑うがいい助三郎よ。嘲笑え。そう、そうなのだ。いつしか俺の中で、ご老公と印籠が同格いや――ひょっとしたらそれ以上、つまり俺は、ご老公よりも印籠の存在を尊い物と感じるようになってしまっていたのだ。聞いてくれ、言い訳がましいのは分かっている。でもお前も何度も見たはずだ。印籠を持たないご老公に接する者の態度と、印籠を掲げるご老公に接する者の態度の違い、それはまさに豹変といってよいほどの変わり様、頭では分かっている。心でも分かっているつもりだしかし、来る日も来る日も、素のご老公には不遜な態度、然れどもいざ印籠掲げればあっさり平伏、何百回、何前回もそんな場面を目の当たりにするうちに、自分のなかで、ご老公よりも印籠の方が価値があるもの、いや、ひょっとしたら印籠が本体で、ご老公はその付属品なのではないかとさえ……いや、今のは忘れてくれ……それと先ほど、「素のご老公」と書いてしまったがそれも忘れてくれ。俺は惑うておるのだ。今、俺は、惑うておるのだ。
助三郎、この手紙をお前に読ませることは決してないだろう。書き終えてしまえば、即座に俺はこれを囲炉裏に投げこんでしまうつもりだ。だから、いっそのこと書いておく。
お前が好きだ。
悪者を投げ飛ばしている姿も、ご老公の前で畏まっている姿も、雨に濡れてその割れた顎の先から雫がしたたっている様も、お前の声も、仕草もすべて、俺は……俺は……
追伸
あの印籠の中って
何が入ってるんだろう?
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