祝福

松原凛

祝福

 その手紙が届いたのは、結婚式の一ヶ月前のことだった。

『宮川百合様』

 封筒には私の名前と住所が記されており、差出人の情報は何もなかった。中には白い便箋が一枚と、一万円札が入っていた。

『ご結婚おめでとうございます 心よりお祝いを申し上げます』

 句読点のない短い文を、私は目を凝らして見つめた。右側に傾いた癖のある字ですぐにわかった。

 あの男だ。あの男が私に手紙をだしたのだ。

 でも、どうしてこの家の住所を知っているのか。私の結婚を知っているのか。

 背後に意識を向ける。ここは二階だ。そんなはずないのに誰かが窓の外からこっちを覗いている気がして振り向けない。


「百合―、ちょっと来てー」

 居間から母が呼ぶ声がして、私はとっさに手紙を箪笥にしまった。返事をして居間に行くと、待ち構えていたように母が顔をあげた。

「あのねえ、財布がなくなっちゃったのよ。さっきまで鞄の中にあったはずなのに」

「またどこかに置いたまま忘れてるんでしょう」

「そんなはずないわよ。私、朝起きてから一度も触ってないもの。誰かに盗られたのよ」

 どうしよう、警察に連絡したほうがいいかしら。母が爪を噛みながら言う。爪の先は噛みすぎて刃こぼれしたのこぎりみたいにぼろぼろだった。

「家のどこかにあるかもしれないから、一緒に探そうよ」

「でも届けを出すなら早いほうが、犯人がまだ近くにいるかもしれないし」

 母の妄想がはじまったのはちょうど一年前の夏だった。誰かに盗られるかもしれないと不安に駆られて大事なものを隠したり、人と待ち合わせをしているからと念入りに化粧をして出かけようとしたりする。いったん不安に駆られると、もうそのことしか考えられなくなり大騒ぎをはじめる。最近、その頻度が徐々に多くなっているように思う。きりがないから貴重品は私が預かっておくと言ったことも、忘れているのだろう。

 私は今年で三十三歳になった。母は六十二歳だ。飲食店でのパートを続けているし、少し背が縮んだ気はするがまだ若いと思っていた。介護が必要になるなんて、先の話だと。

 私の仕事は病院に併設されている小さな薬局の薬剤師だ。人数が少なくつねに人手不足で、勤務時間を短くしてもらうのは難しい。

 それに、私には婚約者がいる。柊二は薬局の常連だった。知り合ったときはひどい鼻炎を患っていて、頻繁に顔を合わせるうちに、自然と距離が近くなっていた。三歳下だが、穏やかで、めったに怒ったり機嫌を悪くしない人だった。この人となら幸せな家庭を築いていける。そう確信した。

 結婚式場を探し、打ち合わせを進めていたところに、母が病気かもしれないという問題が降りかかってきた。何度か検査をすすめたが、頑なに病院へ行こうとはしなかった。はっきりと病名告げられるのを先延ばしにしたいのだ。母も、そして私も。

 私が家を出たら、母は一人になってしまう。これまで一度も結婚をしておらず、子供は未婚のまま産んだ私一人だ。親戚との縁もとっくに切れていて、頼れる人はいない。

 でも柊二は、大丈夫だよ、と諭すように言った。

「お義母さん、結婚式すごく楽しみにしてくれてたじゃないか。予定通り挙げようよ。きっと喜んでくれると思うよ」

 母はいつも、柊二のことを優しくていい子だと褒めていた。あの人はきっとあなたを大切にしてくれるわね――。

 結婚が決まったときには涙を浮かべて喜んでくれた。ちらし寿司を大量につくって、三人でお酒を飲んでたくさん笑った。あの幸せな夜をなかったことにしたくなかった。

 柊二と話し合って、籍を入れるのは結婚式の後になった。何かあったときすぐに駆けつけられるよう、家のすぐそばにあるアパートを契約した。何かが一つ決まるたび、不安が一つずつ消えてゆくようだった。彼の持ち前の明るさがそう思わせてくれたのだ。


 腰の紐をきつく結び、コルセットでさらに絞めつける。喉の奥が潰れたような声が出た。

「宮川さん、サイズ大丈夫そうですね」

 女性スタッフがコルセットを調節しながら言うのを聞いて、私は悲鳴をあげそうになった。試着のときよりきつくなっている気がする。それとも、私の腰回りが太くなったのか。

 カーテンを開けると、薄いグレーのタキシードに着替えた柊二が嬉しそうに目を細めた。

「よく似合ってる」

「柊二も」

 ドレスを選ぶときにも見ているのに、面と向かうとやはり照れくさくて笑ってしまう。姿見に映る自分たちの姿を見ると、もうすぐこの人と結婚するのだと実感が湧いてくる。

 貸衣装屋のスタッフに見送ってもらい、外に出たとたん凄まじい熱気が押し寄せてきて、室内との気温差にめまいがした。近くのカフェに入って柔らかいソファに腰を沈めた瞬間、生き返った心地がした。

 コーヒーと一緒に、期間限定のレモンチーズケーキも頼もうか迷う。夏らしい柑橘系のスイーツは見た目も爽やかで、ダイエット中だというのについ目を惹かれてしまう。

「ケーキ、半分ずつしようか」

 と柊二が見透かしたように笑って言った。

 運ばれてきたチーズケーキは写真よりかなりこぢんまりとしていて、分けると一口くらいしかなかったけれど、レモンのさわやかな風味と重すぎないチーズの組み合わせが絶妙で、おいしいね、と二人で言いながら食べた。

 柊二が会社に用事があるというので駅の近くで別れた。

「そんなに長くはかからないと思うから。また帰るとき連絡するよ」

「うん。行ってらっしゃい」

 日差しを避けて屋根のある道を歩く。駅前の通りはにぎやかだった。化粧品や携帯ショップのアンケート、調子のはずれた弾き語りの路上ライブ。制服姿の高校生たちが声を張り上げて募金をつのっている。

「募金をお願いします!」

「障害者の方々に支援をお願いします!」

 この暑いのにボランティアなんてすごいな、立っているだけで倒れそうなのに。感心しながら、いちばん声を張り上げていた長い黒髪の女の子のほうへ歩み寄った。

「頑張ってください」

 折り曲げた一万円札を募金箱に入れると、女の子は目を開いて

「ありがとうございます!」

 と弾けるような笑顔で言った。

 あの男から送られてきた一万円が誰かの助けになるのなら、ほんの少し報われるような気がした。


 家に帰ると母の姿がなかった。靴はあるのに、居間にも母の寝室にも見当たらない。

「お母さん?」

 奥の私の部屋から物音がした。嫌な予感がしてドアを開けると、母の背中が見えた。

「何してるの」

 声をかけると、母が泣きそうな顔で振り向いた。

「ああ、あのね、財布がなくなっちゃったの。あれがないと、困るのよ」

 またか、とため息を吐いて気づいた。母の手には、あの男からの手紙が何か大事なもののように握りしめられていた。

「そう。じゃあ、一緒に探そう」

 動揺を悟られないように、母の手から手紙を抜き取った。母は手を伸ばしかけたけれど思い直したように、そうね、とうなずいた。

 いつもの隠し場所から財布を取り出し、あったよ、と差し出すと

「ああ、よかった」

 と母は心底安心したように財布を抱きしめた。ずいぶん長く使っている、茶色の革財布だ。財布を鞄にしまって落ちついたように見えた母が、ふと思い出したように

「あの手紙」

 とつぶやいた。

「さっきの手紙、誰からだったの。おめでとうって。でも名前も書いてなかった」

 ふいに首を掴まれたようでどきりとする。お母さんの知らない人、そう言おうとして、気が変わった。

「昔、少しの間、うちにいた男の人だよ」

 母は誰にも頼らず、一人で私を育ててくれた。でも、一度だけ、ある男を頼ったことがあった。実際には頼ったというより頼られていたのだが、あのとき、母もその男の存在に寄りかかって生きているように私には見えた。

「榊浩平っていう人。覚えてるでしょう」

 母の瞳が揺れた。でもほんの一瞬のことで、気のせいかと思うほどかすかな揺らぎだった。

 榊浩平。母はその名前の響きを確かめるみたいにつぶやいた。

 結婚が決まり、家を離れることで、ようやくあの男の存在を忘れられると思った。

 その矢先に、手紙が届いた。祝福に似せた執着心を香水のように染み込ませた一枚の手紙。その気配がずっと、体に張り付いている。

「覚えてないわ」

 と母は首を振って言った。

 覚えてない――。

 私は信じがたい気持ちで母を見つめた。


 あの男がうちにやってきたのは十八年前、中学三年の夏だった。

 その年の梅雨は例年よりずっと早く、六月の初旬にはじまって数日間狂ったような豪雨が続き、近所の川で子供が流されるという悲痛な事故が起こった。そして雨があがったと思ったらもう夏に突入していた。カレンダーを間違えて何日分かまとめてめくったような、奇妙な感覚だった。

 その日、学校から帰ると、仕事が早く終わったのか、母が帰っていた。居間を覗くと、知らない男がいた。

 母と男はテーブルを挟んで、向かい合って何か話していた。母はどこか戸惑っているように見えた。何かのセールスだろうか。怪しげな健康食品とか、強引に物件を勧めてくる不動産屋とか。

 あまり顔を合わせたくはないけれど、自分の部屋に行くには居間を通らなければならない。扉を半分開けたまま廊下に立っていると、母がこちらを見た。

「おかえり、百合。ただいまくらい言いなさい」

「ただいま」

 そのまま目をあわせずに素通りしようと思ったが、母に待ちなさい、と腕を掴まれて、しぶしぶ隣に腰を下ろした。

「こんにちは、百合ちゃん」

 男は微笑んで言った。色の白い面長の顔。糸のように細い目。鼻の先が下向きに曲がっている。座っていてもわかる背の高さと、がっしりとした体つき。

「こちら、榊浩平さん。私のお友達よ」

 と母は言ったが、その表情は明らかに困惑していて、どう見ても仲のいいお友達には見えなかった。

「榊さんね、しばらくうちにいることになったの」

 母が何を言っているのかわからなかった。うちにいるって、まさか、泊まるということだろうか。この見知らぬ男が、この家に?

「急で悪いね、百合ちゃん。しばらくよろしく頼むよ」

 榊という男は申し訳なさそうな顔で言った。

 私は言葉を失っていた。悪いと思うなら、いますぐ荷物を持って出て行ってほしかった。

「榊さん、前は塾の講師をしてたのよ。百合、塾に行きたいって言ってたでしょう。榊さんに教えてもらったらいいじゃないの」

 ふざけているようには見えない。本気で、私を説得しようとしているのだ。

 そういうこと、私は急に白けた気分になった。これまで母が恋人らしき人を連れてきたことは一度もなかった。相手がいる気配すら見せなかった。

 恋人がいるならはっきり言えばいいのに。友達だなんて白々しい嘘をつかれるより、そのほうがずっとましだった。

「じゃあ私が出てく。今日は杏奈の家に泊めてもらうから」

 私は着替えや下着を乱暴にバッグに詰め込むと、母が呼ぶ声を無視して家を出た。追いかけてくるかと振り返ったけれど、玄関の扉は閉まったままだった。


 杏奈の家まで全力で自転車を漕いだ。チャイムを押すと、キャミソールにショートパンツ姿の杏奈が扉を開けて目を見開いた。

「うわっ、どうしたの百合。そんな汗だくで」

 自分の身なりを見て、着替えもしないで出てきてしまったことに気づく。

「まあ、とりあえず入りなよ」

「ありがとう。おじゃまします」

 靴を脱いであがると、小学生の弟と妹が走ってきた。

「ゆりちゃんだ!」

「アイスたべる?」

「こんにちは。ありがとう」

 居間に座って四人でソーダ味のアイスを食べた。中にバニラが入っている私の好きなやつだ。

 アイスを食べ終えるなり、二人が私の両腕に絡みついてきた。

「水鉄砲しよ! 昨日新しいやつ買ったんだ」

「ええ? やめようよ。百合、制服濡れるよ」

 杏奈が思いきり顔をしかめた。

「いいよ。どうせもう汗でびしょ濡れだし」

「しょうがないなあ」

 庭に出て、四人で水鉄砲をかけあって遊んだ。三十分ほど走り回ってから戻ると、二人はござの上に倒れ込むようにして寝てしまった。

 この家はいいなあ。来るたびにそう思う。両親がいて、子供が三人いて。この家だけで完結しているから、たまに人が来ることはあっても、得体の知れない男がいきなり泊まり込むなんてことにはならないだろう。

「ありがとね、いつも遊んでくれて。百合、ほんと面倒見いいよねえ」

 杏奈が氷の入った麦茶を持ってきてくれた。お礼を言ってコップを受け取る。

「私一人っ子だから、小さい子と遊ぶの新鮮で楽しいよ」

「たまにはいいけど、毎日相手するのは疲れるよ。いまから塾なのにさあ」

 と杏奈が天井をあおぎながら言う。

「そういえば百合、その鞄って」

「ああ、これ」

 今日杏奈の家泊まってもいい? 喉まで出かけていた言葉を飲み込んで

「勉強しようと思って持ってきたんだけど、時間なくなっちゃったし、いいや」

 と私は苦笑しながら言った。


 帰り道は日が傾いて、田んぼ道に仄暗い影を落としていた。

 家に着いて自転車の鍵をかけていると

「あら百合ちゃん、こんにちは」

 と庭の掃除をしていた隣のおばさんが、ほうきを持つ手を止めて言った。

 こんにちは、と挨拶だけして家に入ろうと思ったとき

「あっ、ちょっと待ってて」

 おばさんはそう言って慌ただしく家の中に入り、何かの袋を手に戻ってきた。

「はいこれ、知り合いから桃が届いたから、持っていって」

 とおばさんはにこやかに言う。袋の中には、大きな桃が三つ入っていた。

「ありがとうございます」

「お友達の家に行ってたの?」

「はい」

「坂口さんとこの子ね。杏奈ちゃんだっけ。昔から仲良かったもんねえ」

 相変わらず、ずけずけと聞いてくる。

 私はこの詮索好きなおばさんが苦手だった。母はいろいろくれるからありがたいと言うけれど、この笑顔の真ん中にある舐めるようなねっとりとした目で見られると、背筋がぞっとするのだ。

 私の友人関係も中二のときに三ヶ月だけ付き合った男の子のこともなぜか当然のように知っていたし、いまもあの男のことを知っていて探ろうとしているに違いなかった。

 その手には乗るもんか。桃に罪はないからいただくけれど。私はもう一度お礼を言って、家に入った。

「おかえり、百合」

 と台所から母が言い

「おかえり、百合ちゃん」

 居間でテレビを見ている男が振り返って言った。

 さっきは正座だったのに、たった数時間で胡座をかいてくつろいでしまえる図々しさに腹が立った。

 おかえりって何、ここはあんたの家じゃない。そう詰りたいのにできなかった。大人の男性というのは、私にとってなるべく近寄りたくない存在だった。ただいまと言わないことが、精一杯の反抗だった。

「ごめんな、百合ちゃん。いきなり知らないおじさんと一緒に暮らすとか言われても困るよな」

 と背中に声をかけられる。私は背を向けたまま、ひとり言みたいにつぶやいた。

「お母さんの友達とか嘘でしょ。はっきり言えばいいのに」

「友達だよ」

 私は眉をひそめた。大人は異性の友達の家で堂々と寝泊まりするんだろうか。中学生でもしないのに。変だと思わないんだろうか。おかしいのは母とこの男のはずなのに、こうも堂々と友達宣言されると、自分のほうが間違っているような気がしてくる。おかしいと言ってくれる人は、この家に誰もいなかった。

 情けない話だけど、と男は苦笑をこぼした。

「おじさん、じつは、仕事をクビになってしまってね。それで困ってたら、君のお母さんが助けてくれたんだ」

「じゃあ、仕事が見つかったら出てくんですか」

「もちろん、そのつもりだよ」

 私は疑いの目を向けつつ黙った。

 母がやってきて、私が手に持っている袋に目を留めた。

「その袋、何が入ってるの」

「桃」

「お隣のおばさんね。明日お礼言っておかないと」

 と嬉しそうに母が受け取る。

 夕食のあと、半月型に切られた桃に爪楊枝を挿して、三人で食べた。一口で食べると、みずみずしい甘さが口の中に広がった。

「ひとつ残ったから、残りはジャムにでもしようかしら」

 さっきまでのぎこちなさはどこへ行ったのか、気味が悪いくらい機嫌がいい。普段なら絶対、ジャムなんて面倒なもの作らないくせに。それが余計に苛立ちを募らせ、私は黙々と桃を食べ続けた。


「風呂ありがとう、さっぱりしたよ」

 と、お風呂からあがった男の姿を見て私は固まった。

 さっきと同じ黒いズボンを履いているが、上半身は裸だった。初めて目にした大人の男の裸体に、私は緊張とか恥ずかしいとかではなく、ただ、どうすればいいのかわからなかった。水泳の授業のときに見る同級生の男の子たちの薄っぺらい体と違って、男の体は分厚く、胸には毛が生えていた。

「ねえ、服は着てくれる」

 母が眉をひそめながら言って、ようやく目を逸らすことができた。

「ああ悪い、癖で」

 と男はちっとも悪くなさそうに言った。

 冷蔵庫からお茶を取り出して、コップに注いで一気に飲み干した。

 これが家に他人がいるということなのか。ちょっと顔を出したとか遊びに来たのではなく、家族ではない誰かと一緒に生活すること。初めて経験するその状況は私にとって奇妙なものでしかなく、とても受け入れられる気がしなかった。


 名前なんて絶対呼ぶもんか、と固く心に誓ったはずだったが、その誓いはたったの三日であっさり破れた。きっかけは字だった。

「榊さんの字、右側に風が吹いてるみたい」

 勉強を教えてもらいながら、榊さんがノートに書いた字を見て私は言った。やけに右側に傾いた字。その傾き具合が神経質なほど一律だった。日本語も英語も数字まで、規則性があるかのように同じ方向に傾いている。

「おもしろいことを言うなあ、百合ちゃんは」

 と彼は笑った。

「でも、生徒にもよく変って言われたよ」

 生徒、という言葉に、彼の前職が塾講師だったことを思い出す。太い首に、シャツのいちばん上のボタンまできっちり締めているのは、そのときの名残りだろうか。

「どうして辞めちゃったの」

「生徒の親と揉めて、いられなくなったんだ」

「もう復帰はしないの、塾講師」

「どうかな。さあ、次の問題をやってみようか」

 さらりとかわされてしまい、もうその話をする気がないのがわかった。

 聞きたいことはいくらでもあった。母との関係、いつまでうちにいるつもりなのか。もしかしたらずっといるつもりなのではないか。

 昼間、私が学校に行っている間、どう見ても出かけている様子がないのだ。いつも何してるの、と尋ねると、本を読んでいるという。榊さんが持ってきたわずかな荷物の中に、本が二冊入っていた。小説が一冊と、詩集が一冊。黄ばんだ表紙の角は破れ、ページは折れ曲がっている。それを一日じゅう、繰り返し読んでいるという。正気の沙汰じゃない。

「同じ本ばかり読んでたら飽きるでしょう」

 ある日母が見かねて、古本屋でどっさり古本を買い込んできた。

「ありがとう、菫さん」

 榊さんは、母のことをそう呼んだ。菫さん。さりげない呼び方、その自然さに、私は胸を掴まれたような気がしたが気づかないふりをした。

 榊さんが家に来て二週間ほどが経つ。相変わらず二人の関係はよくわからないままだった。恋人同士のような素振りはまったく見せない。けれど友達のような気軽な距離感でもない。その微妙な距離感が、日が経つにつれて、それほど居心地悪くなくなっていた。単に慣れてきたというのもあるけれど、母の気持ちが少しだけわかった気がしたから。

 榊さんと話すうちに、前の仕事のいざこざで、本当に疲れてしまったのを感じた。意外と繊細な人なのかもしれない。母はあまり人付き合いをしないけれど、困っている人や助けを求めている人は放っておけない性格だった。

 はじめは一日でも早く出て行ってほしかったのに、もう少しくらいならうちにいてもいいかな、と思うようになっていた。

 

 学校の帰り道、杏奈と並んで川沿いを自転車で走る。

 先月、大雨警報が出た夜、この川沿いで子供が溺れて死んだ。

 帰り道は川沿いを通らないようにと学校で散々注意されていたけれど、私たちは構わずその道を使っていた。暑さで干上がった田んぼだらけの道よりずっと涼しくて、首筋や足にゆるやかな風が抜けていくのが気持ちいい。

「百合、夏期講習申し込んだ?」

 と杏奈が言った。夏休みのはじめの一週間、学校で受験対策の夏期講習がある。

「うん。杏奈も行くでしょ」

 行くよー、と杏奈が気だるそうに言う。

「朝は学校で夏期講習、昼は塾の夏期講習かあ。面倒だけど、家だとチビたちがうるさくて勉強できないんだよね」

「じゃあたまに図書館行こうよ」

「あ、いいね。自習室空いてるといいなあ」

 期末テストと三者面談が終わり、もうすぐ夏休みがはじまる。夏休みに入れば、母が仕事から帰ってくるまで榊さんと二人きりになる。慣れてきたとはいえ、ずっと同じ家にいるのはやっぱり気が詰まりそうだった。

 川沿いがあんまり気持ちよかったので、私たちは自転車を道の端に停めて下に降りてゆき、草の上に腰を下ろした。スカート越しに感じる草はひんやりとしていて、素足に触れるとくすぐったかった。

「このまま寝れるね」

「寝れる、寝れる。今日は塾もないし、明日は土曜日だし」

「どんだけ寝るつもりなの」

 二人して仰向けになり、川から流れてくる清々しい空気の中くだらないことを言いあって笑い転げた。


 家に着くと、母の帰りとちょうど一緒だった。手に何かビニール袋を下げているのを見て、何それ、と尋ねた。

「かき氷器。安かったから買っちゃった」

 母はうきうきと声を弾ませて言う。

「ふうん」

 そう言ったとき、どこからか、視線を感じた。

 隣の家の窓が開いている。聞かれて困ることなど何も話していない。けれどあのおばさんはゴシップネタを執拗に追い求める記者のごとく、何でもないようなことを訳知り顔で話すのだろう。私たちのいないところで、勝手に尾ひれまでつけて。

「ねえ、早く作ろうよ!」

 私はわざと大声で言って、母の手を引いて家の中に入った。

 水色の本体に赤い文字で氷、と書かれた、スーパーなんかでよく見るかき氷機だった。ふたを開けて氷を入れ、取っ手の部分を回すと、がりがりと音をたてながら荒く削られた氷が落ちてくる。

 シロップは祭りの屋台のようにたくさんあった。ガラスのお皿に山盛りになった氷に、私はいちごシロップと練乳をたっぷりかけた。母は抹茶と練乳、榊さんは白蜜。

「昔からこれが好きだったんだ」

 と榊さんは懐かしそうに細い目をさらに細めた。

 白蜜のかき氷は何もかかっていないように見えたけれど、とても甘くておいしいという。今度は白蜜にしようかな、と私はそれを眺めながら思う。

 窓からさす夕陽が色とりどりのシロップに反射して、ステンドグラスのように鮮やかにテーブルの上を照らしだす。

「シロップつい買いすぎちゃったから、またかき氷やらないとね」

 やはり買いすぎたと思っていたらしい母が苦笑をこぼす。

「明日はなんか乗せてみようか。梅とかジャムとか」

 と榊さんが言って

「それいい」

 と私は声を弾ませた。


 夜中に突然目が覚めて、私は勢いよく体を起こした。全身汗だくで、ひどく喉が乾いていた。何か恐ろしい夢を見ていたのに目が覚めた瞬間に全部忘れてしまうことがたまにある。その夜は、内容はまったく覚えていないにも関わらず嫌な感じがして、目をつむってもなかなか眠れなかった。

 お茶でも飲もうと居間の扉を開けようとしたとき、その奥に濃厚な絡み合いの気配を感じて手を止めた。

 開けないほうがいいのはわかっていた。それでも、この目で見て確かめたいという衝動に駆られて、扉を押した。わずかに開いた隙間に見える景色に目を見張った。母がテーブルの上に仰向けになり、その上に榊さんの大きな体がのしかかっている。母の部屋着ははだけ、あらわになった首筋に榊さんが貪るように吸いつく。母はかすかに声をあげながら体をよじる。そばにいる私に気づきもしない。

 あれは何だろう。私はいったい何を見ているのだろう。

 榊さんが家に来た日、初めて大人の男の裸体を見たときと同じだった。どうしていいかわからなかった。暗い廊下から見る居間は時間を錯覚させるほど明るく、電気の下でうごめく二人の姿は乾ききった動物のようだった。オスとメス。潤いを求め欲望のまま動く動物。

 夢中で母に吸いついていたと思っていた榊さんがふいに顔をあげて、こちらを見た。瞳孔の開いた両目がしっかりと暗がりにいる私を捉えた。罠にかかった獲物のようにシャツの中は汗だくで、逃げ出したいのに一歩も動くことができなかった。

 榊さんはそのまま何も見なかったかのようにまた母の体を貪った。黒い頭が下へ下へとおりていくのを見て、私は静かに扉を閉めた。

 友達というのはたぶん嘘だろうと思っていたのに、実際それを目の当たりにすると吐きそうなほど嫌悪感が込み上げてきた。

 母が関係をはっきりと口にしないのは、私が子供だからだろう。ややこしいことや醜いものを隠して、きれいなところだけ見せていたいのだ。

 布団に入っても眠気は戻ってこないまま、窓の外が徐々に明るんでいくのをぼんやりと眺めていた。


 翌日、学校から帰って榊さんと二人でかき氷を食べた。

 白蜜の上に桃ジャムを乗せて、スプーンでかき混ぜて。たっぷりシロップをかけたから甘いはずなのに、何の味もしなかった。昨日の深夜、このテーブルの上で行われていた行為が頭から離れない。

 一瞬だけ目があったのは気のせいだったのかと思うほど、榊さんは普通だった。ブルーハワイとレモンのシロップを半分ずつかけたさわやかな色合いのかき氷をとてもおいしそうに食べている。

 見なければよかった。もう二度と夜中にお茶を飲みに行ったりしないしトイレにも行かないと、今度こそ固く心に誓った。

 味のしない氷を無言で運び続け、最後のほうは水っぽくなってきた氷をまとめて口に流し込んだ。

 空の器を台所に片付けていたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 うちにはめったにお客さんが来ない。古めかしい借家が恥ずかしくて中学に入ってからは一度も友達を呼んだことはないし、母の親戚も友達も尋ねて来たことはない。母が唯一「友達」と紹介したのは、榊さんだけだった。

 だからこのときも、隣のおばさんだろうと思った。とうとう好奇心を抑えきれなくなったおばさんが、回覧板か何かを渡すふりして襲来したのだろうと。

 しかし玄関を開けて立っていたのはおばさんではなく、見知らぬおじさん二人だった。榊さんより歳上に見える。どちらも似たような顔立ちと背格好だ。違うところといえば一人はメガネで、もう一人はちょろりと生えたあごひげ、それくらいだった。

「こんにちは。こちら宮川さんのおたくであってますか」

 とメガネのほうが尋ねた。

「はい」

「〇〇県警の者ですが、お母さんはいるかな」

 とあごひげのほうが言いながら、警察手帳を見せた。テレビでしか見たことのない代物に、私は唾を呑んだ。

「いません」

 そう言うと、あごひげはうなずき、鞄から何かを取り出した。

「じゃあお嬢ちゃん、最近こういう男の人、見なかったかな」

 と言って差し出された似顔絵に、私は目を見開く。面長の輪郭。糸のような細い目。下向きに押し曲げたような鼻。別人に見えなくもないけど、似てる。どことなく、榊さんに。

「違っててもいいから、もし心当たりがあったら教えてほしいんだ」

 穏やかな口調、だけど探るような目で彼らは言う。私は不安を募らせながら

「知りません」

 と言った。

 本当のことは何一つ、言ってはいけないような気がした。

 知ってます。その人、たぶん、うちにいます――。

 私と二人のやりとりを、居間の扉を隔てて、榊さんが聞いている。壁にぺったりと顔をくっつけて、耳をすましている。昨日私がそうしていたように、息をひそめて。そんな想像が浮かぶ。

 警察の人たちが帰って居間に戻ると、榊さんが台所に立ってこっちを見ていた。さっきまでは気にならなかった部屋の薄暗さに、ぞくっとする。

「人違いだったみたい」

 私は焦って言った。

「そう」

 榊さんはそう言うと、もう興味がなさそうに背を向けて食器を洗いはじめた。

 私はまっすぐ伸びた榊の背中を見つめた。背が高く姿勢がいいから、その背中はいつも大きく見えた。でも本当はものすごく気が弱くて心配性で、一生懸命気を張っているだけなのではないか。

 薄々気づいていたけれど、これでようやくはっきりした。

 この人は逃げているのだ。

 榊さんが初めて家に来たとき、玄関に男物の靴がなかった。うちには来客なんてほとんどないのに、どうして靴を隠す必要があるのか。どうして警察が榊さんによく似た男を探しているのか。

 母は知っているはずだった。知ったうえで隠しているのだ。

 でも、聞いたところで私が望むような答えが返ってこないのはわかっていた。子供は知らなくていいのよ。母はきっとそう言う。たとえ警察が来ても、隣のおばさんが目を皿にして私たちを見張っていても、子供の私は、何も見ていないし知らないふりをするしかないのだ。


 終業式が終わり、杏奈と川沿いの道を自転車で走る。

 この場所で、人が死んだ。大雨とともに濁流に飲まれて。川沿いを通ると、いつもそのことが頭をよぎる。けれどもいまは、そんなことはなかったかのように水は穏やかに流れ、水面を銀色に輝かせている。

「百合、今日、浴衣着てくよね」

 杏奈が言った。夜、神社でお祭りがあるのだ。それほど広くはないけれど、出店がたくさん出ていて花火もあがる。夏休み最初のイベントに、塞いでいた気持ちが少しだけ浮かぶ気がした。

「うん。お母さんに着せてもらうよ」

 薄い紫の生地に白い百合の花が描かれた浴衣。買ったばかりのときは大きすぎて腰の部分をかなり折り曲げないといけなかったけれど、今年は身長も伸びてぴったりになっているはずだった。

 また後で、と手を振っていつもの場所で杏奈と別れた。

 川を離れると涼しさが消え、とたんにむっとした蒸し暑い空気に包まれる。汗で視界を滲ませながら、タオルで拭くのも面倒で私はのろのろと自転車を押して家までの道のりを歩く。

 あれから警察は来ていない。ここにはいないようだと判断して、べつの場所を探しているのかもしれない。それともすでに別の人が見つかったのかもしれない。そうであってほしかった。彼らが探していた男と榊さんは似ているだけで何の関係もない。榊さんも母も私も、関係ない。

「あらー百合ちゃん。今日は早いわねえ。ああ、終業式だったかしら」

 隣のおばさんだった。学校のスケジュールを当然のように把握しているくせに、白々しくそんなことを言う。

 おばさんの自転車のかごに買い物袋が入っている。その中でアイスがどろどろに溶けていたらいいのに、と私は願う。

「ねえ、大きな声では言えないんだけど、百合ちゃんのうちに男の人がいるでしょう?」

 口に手を当てて小声で話しているつもりなのだろうが、もともと大きな声のボリュームが少し落ちたくらいだった。ぎらぎらと開かれた目から、抑えきれない好奇心がヘドロのように流れ出している。

「はあ」

 やはり知っていたのだ。私は諦めにも似た気持ちで返事をする。

「この間、うちに警察が来たのよ。あたし、びっくりしちゃって。警察が持ってた似顔絵がね」

 おばさんは大きく目を開いたまま、永遠に止まりそうになかった言葉を区切った。誰かがすっとそばを横切った。触れるか触れないかの距離で。

 その人――榊さんが、私を守るようにして目の前に立った。おばさんに近づき、そして、迷いもなくその首を切り裂いた。血飛沫が道路に飛び散った。

 おばさんが自転車からずり落ち、どっと地面に倒れた。うう、とうめき声をあげ、動かなくなった。自転車のかごの袋から野菜や果物がごろごろと転がる。その様子を、榊さんは足元にごみくずでも落ちているように鬱陶しそうに見下ろし、顔をあげた。

「大丈夫だったか」

 と榊さんは言った。顔や手に血がべったりとついている。濡れたその手が伸びて、私の頭を撫でた。

「帰ろう、百合」

 私はその手を振り払って自転車にまたがり、全力で漕いだ。どこに行けばいいのかわからなかった。わかったのは、絶対にその手をとってはいけないということだけだった。

 無我夢中で動かしている足の感覚がだんだんと奪われてゆき、目の前の景色すらかすんで、残像だけが鮮明に浮び上がる。地面に突っ伏して倒れているおばさん。大量の血。榊さんが言った言葉。大丈夫だったか――。

 暑いのに話しかけられて、早く開放してほしいと思った。でも死んでほしいなんて思ってなかった。

 帰ろう、百合。と榊さんは言った。

 ぼんやりとした頭で、あの家にはもう帰れない、と思った。

 気がつくと学校にいた。学校の壁は白くて明るくて、窓から入る光は穏やかで時間が止まっているみたいだった。さっきの光景が嘘みたいだ。嘘だったらいいと思いながらふいに目に入ったものに、息が止まりそうになる。

 手のひらに、握りしめるようについていた小さな赤い点。おばさんの血だった。さっきまで生きていた、おばさんの。

 私は廊下の水道で水を全開にしてばしゃばしゃと洗った。制服がびしょ濡れになったが構わなかった。どれだけ洗っても、ぬめりとした血の感触は拭えなかった。あの男の暗い視線が、自由を奪うかのように体じゅうに巻きついてくる。

 半狂乱になって手を洗っていると、見覚えのある女の先生がやってきて職員室に連れて行かれた。どうしたの、何かあったの、と質問をされたけれど何も答えられなかった。水の中に浮かぶようにぼうっと宙を見ていると

「お母さんに連絡してみるわね」

 女の先生は困ったようにそう言って、電話をかけはじめた。


 その後、学校に迎えに来た母の自転車で、私たちは逃げた。ごめんね、と母が前をむいたまま言った。ごめんね、ごめんね、と何度もつぶやく。

 母は全部知っていたのだ。あの男が過去に何をしたのか。母が最初に見せたぎこちない笑顔がすべてを物語っていた。危険だと知りながら、真実から遠ざけて、何も知らないふりを続けた。母はあの男を裏切ることができなかった。追い出すことも、警察に駆け込むこともせず、一緒にいることを選んだ。

 私は風で聞こえないふりをして、黙って母の背中に捕まっていた。いいよ、とも、許さない、とも言わなかった。

 母の赤い自転車を駅に乗り捨てて電車に乗った。見慣れた景色が遠ざかり、もう元いた場所には戻れないのだと知る。あの家にも、学校にも。友達も、夏休みの予定も、全部捨てて、私たちは逃げることしかできなかった。

 窓際の座席で、手のひらをじっと見つめた。血はどこにもついていないのに、赤く染まって見えた。あの男が頭に触れたとき、それが、私の中に流れ込んできた。川岸を隔てて遠くにあった誰かの死が、いまははっきりと感触をもって、体の中にこびりついていた。

 

 あの男はもう私たちの前に現れなかった。

 私は次第にあの男の存在を忘れていった。忘れることしか、私たちが平穏に生きていく方法はなかった。猛勉強して奨学金で大学に入り、院に進んで薬剤師の資格をとった。

 母はその後も恋人をつくらなかった。もしかしたらいたかもしれないが、家に連れてきたことは一度もない。そのくせ私の恋愛事情にはやたらとうるさく、しきりに口を挟んできた。私は何度か恋をしたが、どの恋人ともあまり長く続かなかった。誰かと一緒に暮らす自分が想像できなかった。三十歳をすぎ仕事に打ち込んでいた頃、柊二と出会った。柊二の凶暴性のかけらも感じさせない温厚な性格に惹かれた。

 もう大丈夫だと思った。これでようやく、あの忌々しい記憶から開放される。

 でも、そんなのは気休めだった。あの男は私たちの居場所を知っていた。私の結婚を知っていた。あの手紙を受け取ったとき、私は一瞬にして絶望に突き落とされた。

 どこまで行ってもおまえは過去から逃げきることはできないのだと、血だらけのナイフを首元に突きつけられているようだった。


「宮川さんっ!」

 結婚式場に顔をだすと、担当の滝本さんがぱっと顔をかがやかせた。

「こんにちは! どうされたんですか?」

「予約もしないで急に来てしまってすみません」

「とんでもないです! お式、明日ですもんね。楽しみですね!」

 彼女の健やかな笑顔を見ると安心する。若くて元気いっぱいで、目の前の仕事に全力で尽くしているのが伝わってくる。

「今日はお一人ですか?」

「はい。もしよければ、少しだけ教会を見せてもらってもいいですか?」

「もちろんです!」

 滝本さんはにこやかに言って、教会のほうへと案内してくれた。

「今日は夕方まで予約がないので、ゆっくりしていってください」

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、滝本さんはにっこり笑って去っていった。

 高い天井の窓から白い光が注ぎ、教会の中は明るく神聖な空気に満ちていた。向かう先には誰もいない。壁には木でできた簡素な十字架が掛かっている。

 明日はバージンロードを柊二と歩くことになっている。父親も親戚もいませんと言うと、最近は入場からお二人で歩かれる方も多いんですよ、と滝本さんが教えてくれた。

 私にはとくに信仰はないけれど、十字架の前に一人で立ったとき、初めて目をつむって祈りたくなる気持ちがわかったわかった気がした。神聖なものを前にすると、自分の中の醜い部分が見えすぎてしまう。

 自分の父親が誰だか、私はもう知っていた。

 あの男から手紙が届いた翌日、私は職場から持ち帰った睡眠薬をお茶に混ぜて母に飲ませた。眠ったのを確認して、母の部屋を片っ端から探した。母は目が悪く携帯が苦手だから、どこかにあるはずだと確信していた。

 そして、見つけた。あの男からの手紙を。

 頻繁ではないものの、やりとりは十五年ほど前からはじまっていた。私がまだ学生で、一人暮らしをしていた頃だ。手紙にはあらゆることが書いてあった。あの男のいまの状況や生活、私たちのことも書いてあった。私の結婚を心から喜んでいることも――。

 母だった。私の結婚を知らせたのは、母だった。縁を切ったと思っていたのは、私だけだったのだ。

 あの日の記憶が、肌にまとわりつく空気まで呼び起こすように生々しく脳裏に浮かぶ。

 帰ろう、百合。

 そう言って私の頭をなでたあの男の大きな手は、いないと思っていた父親の手だった。真っ赤に染まったあの手が、私の知っている唯一の父親の手だった。

 母が目を覚ましたあと、私はもう一度同じことを尋ねた。

 ねえ、榊浩平っていう男の人を知ってる?

 寝起きの母は子供のように目をしょぼしょぼとさせて首を振った。

 榊? 誰なの、その人――。

 母は嘘をついた。病気でいろいろなことを忘れても、母があの男を忘れられるはずがない。いや、病気すらふりだったのではないか。

 母はあの男を忘れたふりをして、終わらせようとしたのだ。そうすることで、私をあの記憶から開放しようとした。

 でも、私も同じだった。忘れたふりをしていただけで、心の奥底にはあの男がずっと居座っていた。いつも誰かに見られている気がしていた。誰かが私を待っている気がしていた。それは手紙が届くより前、あの男から逃げ出た日からずっと、途切れずに続いていた。

 私はそのとき、炎天下の駅前で募金をしていた名前も知らない高校生の女の子のことを思い出していた。

 障害者の方々に支援をお願いします。汗を垂らし、道行く人に見向きもされなくても、構わずに声を張り上げていた。助けを求めている人たちがいます。お願いします。お願いします――。

 あの声が、頭の中で何度も木霊する。空洞の中で鐘が鳴るように、ずっと響いている。

 ずいぶん長い間、目をつむって祈っていた。

 教会を出ると滝本さんが待っていた。

「すみません、なんだか浸ってしまって」

「全然、構いませんよ」

 と滝本さんは笑顔で首を振った。

「明日は素敵な一日にしましょうね!」

「はい。よろしくお願いします」

 私は笑ってうなずいた。


 あの男は家から二駅ほど離れたアパートで一人暮らしをしていた。私はその古ぼけた建物を見上げた。

 こんなに近くにいたのだ。私の前には姿を見せず、ずっと近くで見ていたのだ。

 一階の奥の扉、音符のマークがついたチャイムを押す。返事はなかった。しばらく待っていると、ゆっくりと扉が開いた。

 暗がりの奥に見えた男の顔を私は見つめた。当時と同じ細い目が、驚いたように私を見る。

 頬がこけて、髪はほとんど白髪だった。十八年前、大きかったあの男は、車椅子に乗っていた。

 男のいまの生活、数年前に事故に遭い歩けなくなったことを、母の手紙を読んで知った。

 母は全部忘れたふりをして、私をこの男から開放しようとした。でも、できなかった。この男が生きている限り、私は永遠にあの忌まわしい記憶に追われ続けるのだ。

「久しぶり」

 私は男を見下ろして言った。

「百合」

 男は声を震わせる。車椅子を押すのが精一杯の細い手を持ちあげて、弱々しく伸ばす。

「入るね」

 と言って、私は返事を待たずに扉を閉めた。

 その瞬間、ずっと頭の中で鳴り響いていたあの高校生の女の子の声がぷつんと途切れて、もう何も聞こえなくなった。

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