我が子へ。

松原凛

我が子へ。

 明日が待ち遠しい。

 明日、ついに、僕の子が産まれる。

 もしかすると、明後日かもしれないし、一週間間後になるかもしれない。それでもいい。元気な子が産まれれば、それでいい。

 男の子だから、由紀に似ているかもしれない。顔も、性格も、由紀に似ていれば、さぞかし可愛いことだろう。

 大きくなったら、一緒にキャッチボールをしたい。横には大きな犬がいるといい。場所はどこでもいい。夕日に照らされた公園がベストだが、人がいると危ないから、そういう時は、その辺の静かな道や空き地を探そう。

 キャッチボールのいいところは、ある程度のスペースさえあれば、どこでだって出来ることだ。そして、ひとつの小さなボールを通して、心を通わせることができる。

 明日が待ち遠しくてしかたない。


 二宮由紀は、僕の後輩だった。

 小柄で可愛らしく、控えめな性格ながらよく仕事をするので、男性社員には密かに人気があったが、それを妬むつまらない女たちも少なくなかった。入社二年目で友達もいない彼女は、いつもひとりだった。

 晴れた秋の夜だった。

 上司の世間話に一時間ほど付き合ったあと、そろそろ帰ろうと廊下を歩いていると、事務室の蛍光灯がぽつんとついている。人の姿があったので見てみると、そこにいたのは、仕事が終わらずに、ひとり作業に追われている由紀だった。

 これはチャンスだ、と僕は思った。後ろから静かに近づいていって、

「お疲れさま。頑張ってるね」

 と、さりげなく声をかけた。

「わ、先輩!まだいたんですか⁈」

「まだいたって何だよ。せっかく手伝いにきたのに」

 僕は笑った。

「えっ、ほんとですか⁉」

 彼女は一瞬嬉しそうにして、それから、困ったような顔になった。

「……でも、先輩に手伝ってもらうなんて、申し訳ないです。いつも遅くまで残っていらっしゃるから、たまには家族サービスしてあげてください」

「僕、独身なんだけど」

 二十七歳で既婚者と決めつけられ、軽くショックを受けた。

「えっ、そうなんですか⁈ごめんなさい、勘違いしてました……」

「いや、いいけどね」

 僕は笑いを堪えながら彼女のデスクに右手をつき、資料をめくった。二人でやっても一時間はかかりそうだった。わざとではなかったが、僕の右手が、座っている彼女の肩に触れている。

 由紀は、ちらりと僕のほうを見た。そして目が合ったことに驚いたのか、すぐに正面に向き直る。

「す、すみません。お願いしてもいいですか」

「もちろん」

 僕が隣のデスクに腰をかけると、すとん、と沈黙がおりてくる。緊張していた。

 彼女が入社して以来、ずっと気にして見ていたけれど、こんなに近づいたのは、初めてだった。

 二つだけついた蛍光灯よりも窓から射す月明かりがまぶしい。ふと外を見ると、満月だった。やけにくっきりとした輪郭の月が、僕らを見下ろしている。

 時計の音と、パソコンやコピー機の音。それ以外は、何も聞こえない。守衛さえ今日は見回りに来ない。空気を読んでどこかへ消えてくれたのかもしれないな。

 一言も喋らなかった甲斐あって、きっちり一時間で作業は終わった。壁の時計は十時を指している。

「ありがとうございます!これで明日の会議に間に合います!」

 彼女はいきなり立ち上がり、律儀に腰を折って頭を下げた。がしっと手を掴まれそうな勢いだった。よほど焦っていたのだろう。目が少し潤んでいる。

 夜の事務室は、まだ九月だというのに肌寒い。女の子ひとりで、こんな時間までよく頑張ったものだ。

 それにしても……仕上げたばかりのものに目を落として僕は思う。担当の社員は他にもいるはずなのに、何故彼女だけが残っているのだろう。

 ふと資料の一つに目をやると、由紀の名前の他に、〝笠原″とあった。それでやっと納得がいった。笠原というのは、新人いびりを生き甲斐にしているような、三十代半ばの性悪女だ。ダメだしを散々浴びせておいて、自分はさっさと帰ってしまったに違いない。

 かわいそうに、と思った。

 そして、そんな不条理に文句も言わずに従う彼女を初めて、愛おしいと、僕は思ったのだ。


 ありがたいことに、近づくきっかけを作ってくれたのは、由紀のほうだった。

「昨日は、本当にありがとうございました。先輩に手伝ってもらわなかったら、持ち帰って徹夜になるところでした」

 彼女は心から安堵した様子で言った。先輩の嫌がらせなど、まるで気にも留めていない様子である。会議が終わってすぐに僕のところに来てくれたのもまた、彼女らしくて好感が持てた。

「いいよ、そんなに感謝されるほどのことしてないし」

「あの、それで、何かお礼をしたいのですが……」

「お礼?」

 僕は目を丸くして聞き返した。本当に律儀な子だな、と思った。そういうことなら、その性格を利用しないわけにはいくまい。

「じゃあ、今日の夜、食事に行きませんか?」

 僕は緊張が伝わらないように、できるだけ穏やかに、紳士的に申し出た。

「え……」

 由紀は、明らかに戸惑っているように見えた。嫌そうな感じではなかったが、単純に先輩と二人で食事に行くというのに抵抗があるのか、それとも、彼氏の存在を気にしているのかもしれなかった。

 しかしどんな理由があろうと、彼女は断ることができない。

「だめかな?」

「い、いえ、大丈夫ですっ!」

「よかった」

 僕は恰好つけて優しく微笑む。本当は、今すぐ飛び上がって叫びたい気分だった。


 八時。

 もっと早く切り上げるつもりだったけれど、少し遅くなってしまった。

 ポーン

 と音がして、エレベーターの扉が開く。廊下の脇にそっけなく設置してあるソファに、由紀は座って待っていた。僕を見つけるとぴんと立ち上がって、

「お疲れさまですっ」

 と頭を下げた。

「……ああ」

 ごくり、と息を飲む。朝よりも念入りに化粧が施してあり、童顔な彼女に、いつになく色気を感じる。なによりそれが僕との食事の為であることに、心が弾んだ。


 十分ほど歩き、会社の近くの創作イタリアンの店に入った。高すぎず、安すぎず、(もちろん支払いは僕がするつもりだが、)付き合っていない男女のディナーにはこれくらいがちょうどいい。照明が暗めで半個室になっているので、会社の人間がいたとしても、そうそう見つかりはしないだろう。

 ちまちま料理を頼むのは面倒なので、コースにした。海老しそスティック、ローストビーフ、海老と白身魚のグリル、ボロネーゼ、フォカッチャ。ドリンクのメニューを開いてみると、そのほとんどがワインだった。こんな時、料理に合うワインを選べたら恰好いいのだろうが、あいにく僕はワインが飲めない。やせ我慢はしないほうが身の為だ。

 聞くと彼女もビール党らしく、二人でビールで乾杯をした。ジョッキの重なる音が、心地よく半個室の空間に響く。

 仕事終わりのビールは最高だ、と世間の多くのサラリーマンは思っているだろうが、その中でも今の僕は、幸せ度でいえば、かなり上位にいるんじゃないだろうか。

 由紀は普段の控えめな雰囲気とは裏腹に、えらく飲みっぷりがよかった。気持ちいいくらいに勢いよく、一杯目のビールを飲み干してしまった。

 頭を傾けると、綺麗なストレートの黒髪が首筋にかかる。僕はその姿から目を離せなかった。瞬きのたびに風を起こせそうな長いまつげに、うっすらと紅潮してゆく頬、半袖のブラウスから伸びる細く白い手は、暗がりの中で陶器のようにつるつると美しくかがやいている。

 どこをとって見ても、これほどまでに麗しい女を僕は見たことがなかった。素がいいだけではない。こうして見てみると今まで気づかなかったのが不思議なくらい、頭のてっぺんから爪の先に至るまで、ものすごく手間暇かけられているのがわかる。化粧もしなければ、ヘアスタイルにかける時間は三分以内の僕にとってそれは、尊敬に値することだった。

 女性がみな彼女のようになれるわけではない。事実、社内の由紀に何かと突っかかる女たちは、性格だけでなく見た目も悪い。やはり人の本質というのは、少なからず見た目に反映するものなのだ。

 お互い、三本目のビールも底が見えてきた頃である。

「……ごめんなさい」

 世間話が途切れたところで、由紀がぽつりと言った。だんだん、呂律が怪しくなってきている。

「私、先輩のこと、こわい人だと思ってました」

「こわい人?」

 予想外の言葉に、僕はびっくりして言った。彼女に対して怒ったりしたことはなかったが、そんなふうに思われていたのか。

「はい。普段あまり喋らないし、私はないけど、他の人に怒っているの見て、実はびくびくしてたんです」

「ああ、だから今まであんまり近寄ってくれなかったのか。心外だなあ。僕はむやみに怒ったりはしないよ」

 少なくとも君には怒らない、と言いたかった。

 仕事でひいきするのはよくないが、先輩社員に嫌がらせをされているのだから、それくらいは許されるだろう。そもそも、この子に怒ったりする理由が見当たらない。

「そうですよね、すみません」

 しゅんとする彼女に、僕は笑いを堪えながら言った。

「まあ、今日誤解が解けたからよかったよ」

 面白い子だ。喜んだり、笑ったり、そうかと思えば急にしょげたり、見ていて飽きない。

 ずっと見ていたいな、と思っていた。


 駅に向かう途中、歩きながら、僕らは連絡先を交換した。僕は酔っていてかなりテンションが高ぶっていたのもあって、ダッシュしながら「ひゃっほー」と叫びたい気分だった。

 が、もちろんそんなことはできないので、代わりに彼女の手を握った。もし拒まれても、今なら大丈夫だと思った。

 由紀の手は、一瞬ぴくりとして、確かめるみたいに、僕の手を握り返した。酒の力というものに、この時初めて感謝した。鼓動の速さが、徐々に強まる手の力に比例する。

 彼女のほうを見ると、顔を真っ赤にして俯いていた。なんて可愛いのだろう。

 僕はホテルに着くまでの間ずっと、彼女の手をひいて歩いた。同僚に見られているかもしれない、なんてことは、もう気にならなかった。


 クリーム色のシーツで覆われたソファと、その前に置かれた黒いテーブル。ソファとお揃いのシーツがかけられたダブルベッド。カラオケつきの大きなテレビ。ほどよく冷房の効いた部屋。

 …由紀はシャワーを浴びている。

 僕はソファに腰を沈めて、その光景を想像してみる。シャワーの下に立つ由紀を。彼女のつややかな髪や肌はたっぷりと濡れている。温かいお湯を全身に受け、弾き、肩や背中や脚を流れながら落ちてゆく。

 由紀を抱いた時、どこもかしこも細い、と思った。

 彼女の身体は、想像していたよりずっと、小さく弱いものに見えた。そのことにまず驚きながら、僕は由紀を抱いた。

 セックスは何度もしたことがあるが、それは、今までのそれとは、全然違った。どこがどう違うのかはわからない。もちろん行為の意味なんてわかりきったことを、わざわざ考えるつもりもない。

 だけど、僕は確かにその時、そう思わざるを得ないほどの衝撃を受けていた。大げさなんじゃなく、僕の価値観とやらは、きっとこの時にすっかり塗り替えられてしまったのだと思う。


 九月末の決算期が近づくと、社内は急に慌ただしくなる。余裕がなくなるにつれ、女たちの由紀に対する嫌がらせは日に日に悪質なものになっていった。その中心にいるのは相変わらず魔女みたいな顔でほくそ笑む笠原と、その手下だ。

 ろくに説明もせずにハンパじゃない量の仕事を押し付け、ちょっとミスがあったり期限に間に合わなかったりすれば、ここぞとばかりに責め立てる。男は男で、忙しさを言い訳にして、情けないことに見て見ぬ振りをする始末。

 この忙しい時にそんなことをしている場合か、と腹が立った。この狭い組織の中で弱者をいじめて、一体何が楽しいのだろうか。

 だが、そのことはむしろ僕にとっては好都合だった。角が立たないように陰で由紀の手助けをすることで、僕は彼女の唯一の支えになれるのだから。

 忙しさがピークを迎えていた頃だった。みんなが残りの仕事を押し付けて帰ってしまったあとで、由紀が、珍しく弱音を吐いたことがあった。

「もう嫌です。やめたい……」

 彼女は姿勢よく座ったまま、突然泣き出した。パソコンの画面を見つめながら、涙はその赤い頬に唇にぽろぽろと流れて胸に落ちてゆく。

 きれいだ。

 不謹慎にも、僕はそう思った。もちろん、本気で怒ってはいるのだ。目の前の恋人を苦しませているものへの憎しみや、恋人の弱り具合への同情心だってある。

 だけどそれ以上に、その泣き顔を、美しいと思ってしまうのだ。

「僕だけは君の見方だから」

 僕は彼女の震える肩を抱き、濡れた唇にそっとキスをした。そうしずにはいられなかった。

 思わず口にしてしまったクサい台詞に恥じていると、由紀はまるで救世主でも見るように、そのきらきらした瞳で僕を見つめてくる。

 もう一度キスをした。今度はさっきよりも強く、唇を押し当てる。ここが会社じゃなかったら、上から下までそこらじゅうにキスをすることができるのに。

 歯止めがきかなくなる寸前のところで、冷静な自分がストップをかけた。変な噂が立ったら困る。今、彼女に辞められたら、困るのは会社より彼女自身より、僕なのだ。


 決算が終わると、張りつめていた気が抜けたように、職場の空気はほんの少し穏やかになった。年末になればまた同じことが繰り返されるのだろうけれど、その時も、きっと僕が彼女を守ってみせると、そう誓った。

「私、辞めません」

 と由紀は言った。

「辛いこともあるけど、ここで辞めたら負けた気がするし、先輩がいてくれるから大丈夫です」

「そっか」

 頭をなでると彼女は、えへへ、と小さな子のように、無邪気に笑った。


 僕らはゆっくりと、安定した関係を築いていった。ずっとこんな関係が続けばいいと思った。

 彼女と付き合い始めて一ヶ月しか経っていないのに、彼女が側にいるのが当たり前になっていた。彼女は僕の生活の中に、何の違和感もなく、するりと溶け込んでくるのだ。

 けれども時々、ふとした瞬間に、えもいわれぬ不安に襲われることがあった。彼女はそんな僕の不安を敏感に感じとっていた。僕らはとても近い場所にいたので、それがわかった。

「……ねえ」

 だから僕は不安になる度に、こうして彼女の背中に言葉にして語りかけるのだ。

「ずっとこうしていられたらいいな」

「うん」

 彼女は前を向いたまま返事をする。

「あのさ」

「うん……」

 僕は白いシーツの上で、後ろから彼女の肩を抱いた。優しい顔をしているのか、哀しい顔をしているのか、彼女の表情が、僕にはわからない。

「………」

 僕が沈黙し、彼女も沈黙する。じっとテレビの画面を見ている。ホテルの安っぽいテレビに映る、同じくらい安っぽいB級映画だ。

 不安の正体は、いざ核心をつこうとすると、ひゅっと風が止むように消えてしまう。そもそも、そんなものは、最初からなかったんじゃないだろうか?全部僕らが映画みたいにでっち上げた作りものだとしたら?

 夜は更けてゆく。そして朝目覚めると、眠る前に考えていたことなど、すっかり忘れてしまっているのだ。


 十一月になると、僕らは一日おきくらいのペースでデートをするようになった。平日の夜はご飯のあとホテルでのんびりし、週末は僕の部屋で過ごした。

「今日は何にする?」

 ある夕方、由紀が言った。

「クリームシチューが食べたいかな」

 本当は何でもよかったのだけれど、僕はそう答えた。彼女と食べるものは、何だって美味しく感じられるのだ(実際、僕はこの二ヶ月で、嫌いだったトマトを克服してしまった)。

 クリームシチューは二人で作った。野菜と肉を大きく切って、とろとろにシチューを煮込む。パンは少ししめらせてからレンジで温める。そして、ビールで乾杯。

 由紀はいつものように、最初の一口でグラスの三分の一くらいまでぐいっと飲んで、

「おいしいー」

 と満面の笑みで言った。

「シチューは?」

「うん、シチューもおいしい!」

 由紀はよく笑うようになった。彼女は僕の知らない顔をたくさん持っていた。笑っていたかと思えば、ふと寂しそうな表情をしたりする。そんな時彼女が何を考えているのかはわからないけれど、どんな彼女も愛おしいと僕は思った。

 この部屋に自分以外の誰かがいるというのは、何だか不思議なものだった。もう何年も人を招いたことなんてなかったのだ。

 生活感がなく、ただっ広い寒々しい感じのする十畳の部屋も、彼女がそこに居るだけで暖かくなった。

 どこかに出かけようかと話していても、結局は寒さに負けて、布団の中で抱き合いながら一日を過ごしてしまう。

 そんな日々があんまり幸せで、反対に、それ以外のこと……仕事や付き合いや、それまでうまくやり過ごしてきたことは、どうでもよくなっていった。


 冬も本番がぐんと迫ってきた頃、由紀が風邪で会社を休んだ。一緒に居られないので、仕方なく仕事に打ち込むことにした。頑張って、クリスマスには由紀の欲しいものを何でも買ってあげようと思った。


 しばらくして出社した由紀は、浮かない表情をしていた。まだ気分が優れないのかもしれない。

 僕は心配になり、定時で帰るように言った。しかし、彼女は青ざめた顔で首を横に振り、

「今日中に、終わらせなきゃいけない仕事があるんです」

 とだけ言う。目には、なぜだかうっすらと涙が浮かんでいる。

「由紀……?」

 僕は一週間前とはまるで違う彼女の姿に困惑しながら、ちらちらと彼女の横顔を見ていた。

 なにか、悪い予感がした。

 何故だ。何故彼女は泣いているんだ。

 あいつに、何かされたんだろうか••••••。


 仕事を片づけると、パソコンの電源を落として、部屋の電気を消す。廊下の蛍光灯だけがチカチカと弱い光を放っている。

 僕はまた、不安に襲われる。下降してゆくエレベーターの中で、薄暗のロビーで、不気味なほどしんと冷たい空間の中で、僕の心音は波をうつように激しくなってゆく。


 入口を出たところでやっと、由紀は口を開いた。

「子どもができたの」

 そう言って彼女は、冷えて赤くなった両手で顔を覆いながら、とめどなく涙を流し続けた。

 僕にはもう、きれいだ、なんて思う余裕は、なかった。


『子どもができたの』


 由紀は、確かにそう言った。

 子どもが出来たのは喜ばしいことだ。

 お祝いをしないと。

 なのになぜ、彼女は、泣きじゃくっているんだ?

 街のあちこちにイルミネーションやツリーが光り、どこからともなく気の早いクリスマスソングが聞こえてくる。

 通りかかる人が変なものを見るように僕らを見ている。きっと、この街の幸せな雰囲気に、この光景はふさわしくないのだろう。

 週末の夜は明るい。

 僕らの横をゆきかう人々は、サラリーマンもOLも恋人たちも、みな妙にうきうきして光って見える。さむいさむいと言いながら、あたたかい場所を目指して歩いてゆく。

 僕ら二人だけが、

 どこにも行けない人形のように、ただ呆然と真っ暗闇の中に立ちつくしている。


 本当は、はじめからわかっていたんだ。

 いつまでも続く関係じゃないことを、わかっていた。

 だけど知らないふりをした。

 彼女の弱さにつけ込んだ。

 僕は本当は、彼女が泣く理由を知っている。

 だから今は、優しい言葉なんてかけてあげないんだ。


 週が明けたとき、由紀はもう、会社にはいなかった。それどころかデスクの上の私物も、きれいになくなっている。今日必要な書類(金曜日の夜仕上げたものだ)だけが、整頓されて置いてあった。

 僕は困惑した。

 彼女も、彼女の所有物もそこに存在しないのに、気配だけが色濃く残っていた。この場所でほとんど自己主張をしなかった彼女の声や思考が、彼女自身に置いてきぼりにされて戸惑っているように。

 彼女の不在は、社内ではちょっとした騒ぎになった。彼女は、二週間前に退職届けを出していたらしいが、それ以外のことは誰も、何も知らされていなかった。

 そうして何も知らない人間が、勝手な憶測で、あることないこと興味の湧きそうな話を適当に吹聴するのを、僕はただ眺めていた。


〝あの子不倫してたらしいよ″

〝大人しいフリしてよくやるよね″

〝女子の嫌がらせに耐えられなくなったんじゃない?″

〝あれはちょっと酷かったよな″


 こいつらは……

 頭の奥がとろりと熱くなり、次々と込み上げてきたのは、怒りだった。

 この馬鹿どもが、と叫びたかった。彼女が泣いているときに声もかけてやらなかったくせに、今さらなんだ!くだらないことを言うヒマがあったら仕事をしろ!

 湧き上がる怒りを必死に抑える自分のなんと滑稽なことか。

 彼女は会社だけでなく僕の前からも姿を消してしまったというのに、やっぱり僕は、彼女を怒ることができない。


 由紀に恋人がいることは知っていた。

 村瀬晃。それがその男の名だった。

 その事実を知ったのは、ちょうど三ヶ月前……初めて彼女を抱いた、あの日だ。


 あの日のことはよく覚えている。

 クリーム色のシーツで覆われたソファ。その前に置かれた黒いテーブル。ソファとお揃いのシーツがかけられたダブルベッド。カラオケつきの大きなテレビ。ほどよく冷房の効いた部屋。

 テーブルの上には、由紀のバッグが口を開けて、無造作に置かれていた。

 ……由紀はシャワーを浴びている。

 僕はシャワーを浴びる由紀の姿を妄想しながら、彼女の携帯を覗いてみた。はじめは、好奇心によるものだった。どんなメールをしているのだろうとか、どんなサイトを見ているのだろうとか、そんなところだ。

 しかしメールボックスの受信箱は、知らない男の名前で埋め尽くされていた。その時に読んだメールの文面を、僕は細かいニュアンスまではっきりと記憶している。

 会いたいとか、好きだとか、恋人同士のやりとりに使われるような単語がそこにはあふれていた。

 シャワーの音が止まったのと同時に、携帯をバッグに戻した。何も知らないふりをした。

 彼女はあまりにも無防備だった。まるで見てくださいと言わんばかりにバッグを開いて置いたのは、恋人への罪悪感からだったのかもしれない。

 しかし僕は追求しなかった。

 由紀が僕から離れてしまうのが、怖くなったのだ。

 メールのやりとりから、僕は彼らについて色々なことを把握していった。

 四年の付き合いであること。電話よりメールのやりとりが多いこと。結婚の話が出ていること。男は長期の出張が度々あること。それを彼女が寂しがっていること。

 その頃には、メールが自動的に僕の携帯に転送されるようになっていた。由紀の携帯が鳴る度、僕の携帯には、他の男からのメールが音もなく届けられる。

 僕は不安になると、後ろから由紀の肩を抱きしめた。ずっと一緒にいようとか、愛してるとか、クサい言葉を吐き続けた。由紀は前を向いたまま、うん、と応えるだけだった。

 好きだという言葉が僕に向けられたことは、一度だってなかった。

 だけど、確信していたんだ。僕は彼女の支えになっている。

 いつかきっと、彼女の本当の恋人になってみせる。

 十月の半ば頃から、村瀬というその男は九州に長期の出張に行っている。出発の前に一度会ったらしいが、それから十二月に入るまでに、会うような約束をしていない。

 それは、僕にとっては幸運だった。

 この一ヶ月、由紀とできるだけ多くの時間を過ごそう。そうすれば僕のところに来てくれるはずだ。

 そして昨日、由紀は泣きながら言った。

 子どもができたの、と。

 嬉し泣きでないことはすぐにわかった。嬉し泣きでないとすればその涙は、別れのサインだ。

 僕は他の男のもとへ行こうとする由紀を、ただ、じっと見下ろしていた。


 本当の彼女は、ひどく弱くて、寂しがりやで、愚かだった。だけど僕は、そんな彼女の愚かさすらどうしようもないほどに愛しいと、思ってしまうのだ。

 きっとこの先も、それだけは、変わることはないのだろう。

 なぜ彼女は僕を選ばなかったのだろう。

 僕を選んでいれば、ずっと安らかでいられたのに。君が選んだ男より、ずっと君を幸せにしてあげられたのに。

 その時僕の中に渦巻いていた感情は実に様々で、絵の具みたいに混ざり合って、何が本当なのか、自分でもよくわからなかった。

 由紀の裏切りに対する怒りや悲しみはもちろんあったけれど、それにも勝る喜びを感じていた。

 産まれてくる子どもは僕の子に間違いない。

 由紀と僕の子がこの世に誕生するのだ。

 由紀がどこまで逃げても、その事実は変わらない。これが嬉しくないわけがなかった。


 いつか。何年経ってもいいから、君に会いたい。

 小学校に入ったらキャッチボールができるだろうか。

 中学生くらいになったら、家に呼んで食事をしながら、「僕が君のお父さんだよ」と言ってみようか。

 君はどんな顔をするだろう。びっくりするだろうか。本当のお父さんだと喜んでくれるだろうか。

 君の成長を近くで見ることはできないけれど、

 どこにいたって、

 僕はずっと君のことを見守っている。

 明日、ついに、僕の子どもが産まれる。

 早く、君に会いたい。


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我が子へ。 松原凛 @tomopopn

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