あたしはうさぎになりたい

松原凛

あたしはうさぎになりたい

 卒業式が終わるとあたしはふぬけになっていた。

 まだ寒い夜が続き、布団の中でゲームをしながらどうでもいいような毎日をやり過ごす。

 最近ハマっているのは、うさぎを狩るゲームだ。狩って狩って狩りまくって、鍋にするかペットにするか選ぶという謎のゲーム。食べるのはかわいそうなので、あたしは断然ペット派だ。もううさぎちゃんたちが村に二十匹もいる。

 ピコーンピコーンと電子音が鳴るなかで、スミスの顔がぽわんと浮かんだ。

 スミスはうさぎが異常に好きで、家で買えない代わりに学校で飼っていた。学校が終わるとペットショップに寄ってうっとりした目で彼らを見つめるのだ。

「何でそんなにうさぎが好きなの?」

 とたずねると、

「目が赤いから」

 という。

「へえー」

 あたしはとりあえずそう言ったけど、全然わからなかった。目が赤いから好き?目が赤いからかわいい?

 それならあたしが目を赤くしたら、あたしを好きになるんだろうか。あたしが目を赤くしたらかわいいと言うんだろうか。

 目が赤いと、うさぎの世界が見られるんだろうか。

 …だめだ、全然ダメ。

 もう中学を卒業したってのに、こんなことを考えてる場合じゃない。

 これからのことを考えよう。

 これからのこと、スミスのいない毎日のこと。

 …うーん、ダメだ、ダメすぎる。

 スミスが好きすぎて、もううさぎとスミスのことしか考えられない。

 そんなこんなで、あたしの束の間の春休みは、こうしてどんどん、うさぎによって侵略されてゆくのだ。

 あと一週間。あたしはどう生きればいい?


 スミスは国語の先生だ。名前からして英語っぽいけど、国語なのだ。

「エアロスミスが好きで」

 と最初の自己紹介で言ったから、スミス。なんかスミスっぽかったから、スミス。本名は佐々木だけど、みんなそう呼んでた。

 ちょっと長めの黒髪に銀のフレームのメガネっていうのがまた、女子の萌えポイントをがっちり抑えてる。その辺の男子だったらモサイだけだけど、大人だからいい。スミスだからいい。

「あとうさぎが好きで」

 と彼は言ったが、うさぎにはなれなかった。最初から最後まで、スミスはスミスだった。

 あたしは彼が朝はいつもむちゃくちゃテンションが低いのを知っているし、隠してるけど実は人見知りなのも、本を読んでるときの笑っちゃうくらいまじめな顔も知っている。

 だけど、やっぱり、うさぎが好きなスミスを好きなんだと思う。

 あの目で見つめられて、あの手で触られるうさぎたちが、猛烈にうらやましい。

 あたしもあんなふうにもふもふで真っ赤な瞳になれたらよかった。

 あたしは、一度だってスミスに頭を撫でてもらったことなんかないのに。


 いよいよ春休みも終わりかけていたので、あたしは勇気を出して学校に行ってみた。

 懐かしの母校。まだ卒業して一週間しか経ってないけど。

「あれっ?」

 振り向いて言ったのは、英語のハナコ先生だった。ハナコは本名だ。だけど花みたいにふわふわした人だとあたしはいつも思う。なんなら綿毛になって飛んでいっちゃいそうなくらいに。

「宮本さんじゃない!こんにちは」

「こんにちはー。たまたま通りかかったんで来ちゃいました」

 ほんとはわざわざ二十分かけてチャリンコこいで来たんですけどね、ということは恥ずかしいので伏せておいた。

「うさぎにエサやってたのよ。宮本さんもやる?」

「あ、はい」

 あたしも座った。小屋の中には三匹、まんじゅうみたいにぷくぷく太ったうさぎがいる。

 スミスがグラウンドの遠くのほうに立っているのが見える。スミスを見つけるときだけ、あたしの目はハンターみたいによく冴える。でも冴えてるからって、狩れるわけじゃない。

 スミスはサッカー部の副顧問だ。実は球技が苦手で、ルールだって最近やっと覚えたくせに副顧問なんてしている。大人の世界ってよくわからない。

「なんでハナコ先生がうさぎの世話してるの?」

「ああ、佐々木先生に頼まれちゃったのよ。今日は部活が忙しいからって」

「へえー」

 いいなあ、と思った。あたしだって頼まれちゃったら毎日でも来るのになあ。

「うさぎっていいわよねえ」

 ハナコ先生が言った。愛おしいものを見るとき、その整った顔がくしゃっとなる。

「…うーん」

「目が真っ赤で、体が真っ白で、家に一匹いるとなんだか福を呼んでくれそうよね」

「福うさぎ?」

 うちには(画面の中に)二十匹もいるけど、福なんかちっとも来てくれない。

「あれ?こいつ前よりでかくなってない?」

 エサをやりながら、あたしは言った。

「ああ、その子はね、」

 ハナコ先生が言うのと、あの声が耳に届くのが、だいたい同時だった。

「宮本かー?」

 とばたばた駆け寄ってくるスミスの声。それだけで涙が出るほど嬉しくて、緩み出す口元を必死におさえた。

「どうしたんだよ」

「部活、抜けてきていいの?」

 とあたしが言うと、

「卒業生が来たときくらい、いいんだよ」

 と笑う。

 この笑顔が大好きだった。スミスがこの学校に来てからの二年間、あたしの気持ちは膨張し続ける宇宙みたいに、どんどん大きくなっていった。ほうっとけば、一日中だってスミスのことを考えていられた。

 誰にも、友達にすら気持ちを打ち明けたことはなかった。もちろん、本人にも。

 卒業前に告白しようと思った。だけどできなかった。中学生じゃ、相手にされないと思ったからだ。

 だから今、あたしはここにいる。でも今日もできなかった。もう生徒ですらないあたしが、先生と二人きりになれる日なんて、はたして来るんだろうか。

「このうさぎ」

 告白の代わりの言葉をあたしは探す。何だってよかった。目の前にいたのがたまたまうさぎだった、というだけ。

「さっきから全然動かないけど、大丈夫なの?」

 とでっぷり太ったうさぎを指して言った。

「そうそう、その子ね、もうすぐ赤ちゃんが産まれるのよ」

 今度はハナコ先生が応えて、

「それでな、そんなにたくさんここで世話できないから、俺のうちで二匹飼うことになったんだよ」

 とスミスが続いた。

「えっ、スミスのとこって、ペット禁止じゃなかったの?」

「それがな、今度のマンションは大丈夫なんだよ」

 スミスは授業で大事なことを言うときみたいに、声を少し大きくして言った。

「えっ、引っ越すの?」

「ああ、そうなんだよ。学校の近くにな」

 そう言ったスミスの顔が、見たことないくらいにくしゃくしゃになって、同じくらいくしゃくしゃのハナコ先生のほうを見た。

「えっ、もしかして結婚するの」

 あたしは言った。ほとんど無意識に、直感的に、当てずっぽうに。

 答えなんかちっとも聞きたくないのに、尋いてしまった。違うと言ってほしくて、でもその質問自体、今すぐ取り消したくなる。

「うん、まあ実はな、そうなんだよ」

 スミスは照れ臭そうに鼻をかきながらも、あっさりそう答えた。あたしの二年間で一番聞きたくなかった、質問の答え。

 いつ結婚するの、とあたしは続ける。

 来年の十月よ、とハナコ先生が答える。ふわふわの髪の毛を押さえながら笑って、鈴のような声で。白くて細いきれいな左手の薬指には、ダイヤの粒がぴかぴか光る、シルバーのリングがはめられていた。

 どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。このツーショットを見るくらいなら、家でゲームしてたほうがずっとましだった。

 でももう遅い。

 知ってしまった今は、もうふたりを、前と同じように見ることができない。

 知らなければ淡い初恋ですんだのに。

 あたしが必死に質問することを考えたり、用もないのに職員室の近くをうろついたりしているあいだに、ふたりはなんの問題もなく近くにいて愛を育てていたなんて。

 知りたくなかった。

 うさぎにも勝てないあたしがどう頑張ったって、この人には敵わないんだから。あたしよりもずっとずっとスミスのことを知っているこの人に、敵うわけない。

「うさぎ、福呼んでくれるといいね」

 あたしは言った。素直におめでとうと言えないあたしからの、せめてもの祝福の言葉だった。

「ええ、そうね。大事に育てなきゃね」

 ハナコ先生はふわりと笑った。まるで自分の子どもでも見ているように、愛おしい目で、うさぎを見つめている。

「宮本もたまには学校に遊びに来いよ」

 スミスがあたしの頭を、ぽんぽんと軽くたたいた。

 ああ。包み込むような、初めて触れたスミスの手の感触に泣きそうになりながら、むりやり笑顔を作ろうとする。

「うーん、たまには来るかもね」

 あたしは中学を卒業して、泣かないくらいには、笑顔を作れるくらいには大人になったけど、それって、はたしていいコトなんだろうか。

 わかるのは、あたしがいくら大人になっても、彼らにとってはいつまでも生徒のままってこと。それ以上でも、それ以下でもないってこと。だけどそんなこと全然知らずにうさぎに嫉妬していたあたしは、まだ全然子どもだったってこと。

 さっきまで全然動かなかった太ったうさぎが、少し顔を上げて、あたしのほうをじっと見ている。まだエサが欲しいのか、それとも哀れんでいるのか。その宝石みたいにかがやく赤い瞳はなにを映しているのだろうか。

 途端、ものすごく苦しくなって、あたしは救いを求めるように、うさぎに手を伸ばした。


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