2分0秒小説『作中に出てこないキンモクセイ』
木曜日は殆どが曇りか雨だ。
路面電車、雨の日の混雑、傘から滴る水を吸い変色した床、ビニールの饐えた臭い、油断している嗅覚に、不意打ちを食らわせるきつい香水。揺れるたびに誰かの肘が誰かの肘をどついている。ぬるま湯のような暑さ、やる気の無い公務員のような空調、汗がいつまでも汗のまま。皆が皆、色んな事に対して、大小様々なストレスを抱いて、同じ空間に閉じ込められている。
僕は立って揺れていた。スマホを出すのも面倒で、雨粒を張り付けた窓ガラス越し、雨景を眺めていた。
小学生の男の子が座っていた。携帯ゲーム機をいじくっている。黄色い帽子。青空を探す僕の視界の隅で、かちゃかちゃ、キーを打つ音。溜息、青空は見えない。もうこの世界には無いのかもしれない。香水の犯人は誰だ?あのくたびれたOLか?それとも華麗に加齢と戦っているおばちゃんか?紫の鞄を抱いた学生っぽい女の子か?
「致し方ない」
ブザーが鳴り、「次、止まります」のアナウンスが聞こえた後、悲壮感漂う呟き。「致し方ない」――小学生の独り言だった。画面を睨みつけているその目に、怒りと失望と、微かな希望が張り付いている――窓ガラスに貼りついた水滴のように。
彼の掌に収まっている小さな世界で、きっと、とんでもないことが起こっている。それは彼に、とても小さくそして大きな決断を迫った。彼は、決意した。「致し方ない」何かを犠牲にしたのだ。それはひょっとしたら、この先の一生を費やしても、取り戻すことができない”ナニカ”かもしれない。英断か無謀か――いや、どちらでも良い、というか、それはきっと同じ意味だ。少なくとも彼の若さでは。
市役所前で降りた。やはり青空は無い。きっと地面に埋まってる。路面電車が揺れながら小さくなる。決して混ざり合わないビニールと香水のにおいを空中でぶつけながら、終点へ向けて――あの小学生の決断が報われるのは、何十年か後かもしれないな。
「致し方なくは、ない」
呟いてみた。用事を済ませたら、カレーでも食って帰ろう。青空の代わりに。
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