其のむこう

桜 奈美

第1話 夜の世界

「夢を叶えるのが、あなたの仕事でしょ?

最後に私を貴方の愛で強く抱きしめてよ」

泣きながら言った彼女を僕は抱きしめた。

「ありがとう…」

そう言うと車道に飛び出して消えて逝った。


こんな状況にいても、哀しいと言う心なんかは僕には無い。

この両手に残っている温かな君を感じながら、何故かまだ純粋な気持ちがあった時の自分を思い出してしまった。


彼に出会わなければ、僕は僕のままでいられたんだろうか?

少なくとも今の僕はいないだろう。

今更、そんな可愛げのある事を考えるなんて愚かだと、そんな自分に笑えてしまった。



彼に会ってから僕は歪んでしまったんだ…

いや、もともと僕には歪んだ心があったんだろう。


悪魔の魂を持つ彼は、ずる賢く今も何処かで誰かを赴くままに狙っている。

自分の私利私欲の為に平気で人を陥れる。

言葉巧みに自分を正当化して、きっと今日も笑っている。



僕の名前は准也。

彼に会ったのは5年前。

何気に軽い気持ちで始めたホストの仕事で一躍輝いていたのが、彼だった。


僕は「准」と名乗り、彼は「海」と名乗っていた。

彼は、口調の穏やかな笑顔の爽やかな人で、如何にも女性ウケする容姿の人だった。


初めて会った時から、彼に憧れた僕は次第に彼の様な男になりたくて、無我夢中で彼を追っていた。

彼の内側にある本性に多少気付きながらも、

(ホストはそんなものなんだ)

と勝手に解釈していた。


やがて僕は彼と一緒になる事が多くなり、毎日が楽しくて、この世界に呑まれていった。


彼と少し馴れ合った頃

「僕は、海さんの様なカッコイイ男になりたいです。」

恥ずかしながらも言うと

「お前は自分を捨てる事が出来るのかい?

この世界は、お前が思ってる様な素敵なものじゃないよ。

まあ、そのうちに分かると思うけどね。」

この時は、僕は言葉の意味を理解していなかった。

人間の執着や欲望がはかりしれなく憎悪であると言う事が…


ある日、店に彼のお客さんの水商売をしている女性がやって来て、僕はヘルプとして席に着いた。

「新人くん、海はまだ?」

不機嫌な彼女は僕とは目線も合わせずにいた。

暫くすると彼が現れ

「後でな」

そう言ってオデコにキスをし行ってしまった。

彼の様なNo.◯クラスのホストになると、席にいるのは何十分単位で、それでも彼女達は待ち続けるのが当たり前だった。


それから目の前に彼と他のお客さんが座りだし、僕の席にいる彼女は顔を引きつらせイライラしだした。

彼といる彼女はやたらとベタベタと彼にすり寄り、周りに見せつける様にボトルを頼んだ。

「海の為なら、お金は惜しまないわ~

他に欲しい物は無いの?

海は欲深さんでしょ?」

皆に聞こえる様に大声で話しだした。

僕の席にいる彼女はプルプル震えだして、今にも暴れそうで、僕は彼女の気を他に向けようと必死になっていた。


彼女はジッと彼を見つめ、意を決したように立ち上がった。

「こっちもシャンパン入れて!

一番高いヤツよ!」

僕は目の前で繰り広げられる《女の意地の張合い修羅場劇場》に圧倒されながら、これだけの空気を作ってしまう彼の力に感動していた。

多分この日から、僕は変わっていったんだろう。

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