変身への過程

@hamapable

第1話

 巨大怪獣が、暴れていた。

 それは間違いなく怪獣で、恐竜ではなかった。まず、背骨が地面と垂直に立っていたし、大げさなトゲトゲのついた円錐形の尻尾までついていた。

 そして、怪獣は暴れていた。その巨大さゆえに、ちょっと歩くとうっかり家々を踏みつぶしてしまう、という印象ではなかった。怪獣は明らかな悪意と破壊衝動をもって暴れていた。


 重定あゆ美が呆然としていたのは、数秒だった。自宅のことを思い出した瞬間、彼女は走り出していた。つま先が地面から離れるたびランドセルが鈍い衝撃音を響かせ、彼女はほとんど泣きかけていた。


 ポンメルは、少女を引き止めなければと考えた。あまり怪獣に近づきすぎるのは考えものだった。そこで彼は彼女の目の前に急に飛び出すことにした。もちろん、結果としてポンメルは少女の移動エネルギーを腹で衝撃として受けることになり、少女は突然現れた障害物に顔面を強かに打ち付け、進行方向とは真逆に吹っ飛ばされる結果となった。それでもポンメルは、悲鳴の語尾に「メル」をつけることを忘れなかった。

 突然現れた障害物が宙に浮かぶぬいぐるみであることを確認したあゆ美は、ひとまずぬいぐるみのほうは放っておくことに決めた。今目の前で起こっているふたつの不思議な事象のうち、優先すべきは巨大怪獣のほうであり、家族の無事を確認することだった。しかし数メートル走るたびにぬいぐるみは顔の前に現れ、彼女のランドセルは四度も地に着いた。

「なにか、御用ですか」

 重定家の一人娘は渋々ぬいぐるみに話しかけた。話しかけながら、左胸の名札を握る。小学校から支給されている名札は、安全ピンを引きちぎれば防犯ベルの役割を果たすようになっていた。

「や、やっと止まってくれたメル! 説明している暇は無いメル、アユミ…」

 見ず知らずのぬいぐるみに名前を呼ばれた少女の、名札を握る手のひらに力が入った。

「さあ、変身して怪獣をやっつけるメル!」

 恐怖よりもぬいぐるみへの苛立ちのほうが勝り、彼女は冷たく言い放った。

「急いでますんで」

 ぬいぐるみを押しのけ走り出そうとするが、ポニーテールを掴まれ引き止められる。

「ちょっと、なに、何するんですか!」

「アユミが変身しないとこの街はめちゃくちゃになってしまうメル!」

 重定あゆ美は、八歳である。大人たちからは必ず「落ち着いた子」と評価されるようなおとなしい、場の空気を読める子であった。だが、目の前で巨大怪獣が暴れ、ぬいぐるみに行く手を阻まれているこの状況で、彼女の精神の高まりは、自分で制御できる一線を超えてしまった。へたりと座り込むと、大声で泣き出したのだった。こんなことは彼女の記憶の限りでは初めてのことだった。

「な、泣かないでほしいメル。…泣くことはないメル?」

 ポンメルは予想外の事態にすっかり参ってしまった。

「これじゃあボクが悪いみたいメル…」

 その呟きに、ごちゃまぜになったあゆ美から苛立ちだけが飛び出した。

「あんたが悪いんでしょうがっ!」

 裏返った声で怒鳴ると、少女は立ち上がり、走らずに早歩きでずんずんと進んでいく。また、あのぬいぐるみが顔の前に出現するときにすぐに避けるには、走ってはいけないと彼女は判断したのだった。

「ひっ、人の話は最後まで聞くもんメル! アユミが変身しな「急いでますから」」

 ポンメルの焦りは彼の視界にまで及んでいた。このまま彼女を帰してしまってはいけないことだけは確かだ。既に彼女は自分に悪い印象を持っている。彼女が急いでいる理由はわからないが、ここで引き止めなければ。二度目の出会いでの誘導は難易度が高すぎると統計が語っている、ここは「もーっ、仕方ないわ、変身よ!」パターンへ持っていくしかない…メル。

 ポンメルはもう一度あゆ美のポニーテールの先を掴んだ。そして、全体重をかけて、彼女の進行方向とは逆に引っ張った。あゆ美の頭皮からぷちぶちという音がした。

「いっ…たいっ!」

 あゆ美の叫びはすぐに嗚咽になった。ポンメルはポニーテールの先を掴んだまま、思わず立ち止まった彼女の頭頂部に飛び乗ると彼女の頭をぽこぽこと叩いた。

 あゆ美は諦めなかった。しゃっくりをする度に内臓を吐き出してしまいそうだった。でも、走らなければ。

 一瞬息を止めただけで再び走りだした少女に、ポンメルは驚いた。けれど、彼も諦めなかった。彼女はわかっていないだけだ。そして、理解させることは自分にしかできない。

「アユミ、話を聞くメル!」

 彼の絶叫は少女の耳に届くのだろうか。

「怪獣をやっつけないと、街はどんどん壊されていくメル。これはアユミにしかできないことなんだメル!」

 少女は答えさえしなかった。

「逃げても何も変わらないメル、立ち向かわないと何も変わらないメル!」

 しかしポンメルは、何かが進展している気がしていた。順調でさえあった。あるはずのない心臓がときめいていることがわかり、彼は慌てて変身ブローチを取り出した。

「これを持って、母なる大地よ、大いなる力をって叫ぶメル!」

 あゆ美は自宅に到着していた。正確には、自宅だったところ、だった。ぺしゃんこになった一軒家の前で、エプロンをつけたままの母が呆然と怪獣の背中を見つめていた。

「お母さん!」

 叫ぶと同時にしゃっくりは止まっていた。母の腰に抱きつくと、母もあゆ美を抱きしめてくれた。娘の頭を撫でようとしてようやく、重定友加里はぬいぐるみに気がついた。

「あらら、あーちゃん、かわいいわね、これどうしたの?」

「おうち!」

 母の声に、あゆ美の安堵は飽和した。少女は単語だけ叫ぶと、エプロンを引っ張りながらまた泣きそうになっていた。

「ああ、おうちねえ」

 友加里は腰を落とし娘と同じ目線になると、わざとらしくため息をついてみせた。

「まあねえ、でも、壊れちゃったものはもう仕方ないわねえ。…でもパパ怒るかしら」

 パパ、と言った途端、不安そうな顔をした娘の額を、友加里は優しくつついてやった。

「でも、学校にステッキ持って行っちゃダメって言ったのは、パパだもんね」

 ニッと笑うとエプロンのポケットから、キラキラした星のモチーフがたくさんぶらさがったステッキを取り出す。

「はい、これ」

「ありがとう、お母さん!」

 ランドセルを脱ぎ、それとステッキを母親と交換すると、あゆ美は走りだした。

「あーちゃん、がんばってね!」

 お母さんの声が背中を押してくれる。家は駄目だったけど、お母さんは無事だった。早く怪獣をやっつけて街を守らないと!

「レッツ・マジカル・マテリアル!」

 ピンク色のふわふわとした光が重定あゆ美を包み込んだ。光のなかに服が溶け、魔法の鎧に変化していく。ニッ、と母親に似た笑顔になった少女の頭の上で、ポンメルの布の体は魔法の光の中に溶けてしまいそうだった。

「上から下まで、正義のレディ!」

 いつもの決め台詞がはじまると、巨大怪獣が待ちわびていたかのように雄叫びをあげた。

「ひだまり見参、マテリアル・ウィッチ!」

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