レーテの秋
まり
レーテの秋
三日前、私は『傘』と呼ばれるものを拾いました。私は、それの正しい使い方を――それどころかその名前すらも、ある本屋の店主さんに教えていただくまで知りませんでした。今は、それを本来の持ち主に返しに行く途中です。私は上を見上げました。遥か遠くに、逆さまになった街が見えます。私たちは、宇宙空間に浮かぶ巨大な筒の内側に住んでいるのです。シリンダー型スペースコロニー『レーテ』、それが私たちの住む場所の名前です。もしも、地面が透けて、外を見ることができるようになれば、六十億キロメートルの向こうに輝く太陽の光を受けて、鈍く茶色に光る星、冥王星が見えることでしょう。
その日――私が、『傘』に出会い、それにまつわるちょっとした出来事に巻き込まれる最初の日――太陽を模した光が、夕焼けを再現するために茜色へと変わっていく時間帯に、私は友人の画家さんと世間話をしながら自宅への道を歩いていました。そこは商店街と住宅街を結ぶ道で、左手には画一的なデザインの住宅が並び、右手には川が流れています。川縁には人工的に植えられた芝生が生えており、地球に流れていると言われる自然な川――私は見たことがありませんが――に似せようとする努力が垣間見えました。そして、左手に並ぶ家々からは、時折大きな笑い声や、子供の甲高い泣き声が聞こえるのでした。まるで演出されたように平和な街並みです。画家さんは、そんなレーテの街並みを毎日毎日描いている女性です。彼女はその日も、商店街の一角にある古い床屋のスケッチをしていたようで、くしゃくしゃの髪の毛と、それとおなじくらいくしゃくしゃの洋服を、絵の具でべとべとになるほど汚していました。
以前、何故そんなことを毎日飽きずにやっているのかと聞いたことがあります。すると彼女は満面の笑みを浮かべながら、「私はレーテのこの街並みが大好きだから、それがみんなに忘れられないようにするために描いているんだ」と答えました。画家さんの絵は、お世辞にも上手いとは言えず、世間的に知られているわけでもないので、彼女が絵を描き残したところで、この街の風景が後世に伝わるとはとても思えません。私が正直に、別にあなたが描いたところで何も変わらないでしょうと指摘すると、途端に不機嫌になり、赤い絵の具のこびりついた指で、私の頬をぐりぐりとこねくり回しました。私はピシャリとその手を払いのけ、「でも、本当にこの街が忘れられることなんてありえないんじゃないですか」と再度問いかけました。すると彼女は、少し考える風に右手を顎に当て、それから答えました。「たぶん、私は怖いんだよ。忘れられるってことは、必要とされなくなるってことでしょ。いつか、このコロニーも必要とされなくなるかもしれない。私は、必要とされなくなることが怖い」
その時の私は、じゃあ絵描きなんてやっていないでもっと人の役に立つことをしないと誰からも忘れられてしまいますよ、と言ったと思います。彼女の顔はさっと青ざめました。彼女は、お世辞にも絵画の才能があるとは言えず、あまり名の売れた人物ではありませんでした。彼女は腹いせに私の横腹を数回ほど絵筆で小突きました。
それから私達は、「食料配給が厳しい」とか、「また他の星やコロニーへの強制移住が行われるかもしれない」とかそういったことを滔々と話しているのでした。
時刻は午後六時十五分、周囲がもはや薄暗くなった頃、私たちはユニウス橋の袂につきました。私の家は川のこちら側にあり、画家さんの家は川の向こう側にあるため、ここで別れなければなりません。さよならを言おうとしたとき、画家さんが「おや、これは何だろう」と声を上げました。
画家さんが拾い上げたそれは、私の目からみても非常に奇妙な物でした。木製の曲がった持ち手がついた杖、その先端側から小豆色の布がその殆どを覆ってしまっています。布は内側からスチール製の骨組みで支えられており、骨組みは杖の先端に接続され、持ち手側に向かうに従って、中心から離れています。画家さんは、画材と床屋の絵が描かれたカンバスを地面に置き、それを様々な方向から見たり、触ったりしていました。すると突然、小さな破裂音がしたかと思うと、骨組み全てが開いて、布を支え、小さなテントのようなものになってしまいました。私たちはほんの少しばかりびっくりして無言になり、その後、気恥ずかしさを誤魔化すように、どちらからともなく笑い始めました。
「ここを押したら急に開いたんだ」画家さんは持ち手の近くにあるボタンを指差しながら言いました。「どうやったらもとに戻るんだろう」
画家さんは、もう一度ボタンを押したり、布の端を引っ張ったりしてみましたが、なかなか元に戻りませんでした。数分間ほどその奇妙な杖と格闘した後、ようやく、正しい閉じ方がわかったようで、カチャリと音を立てて、杖は元の姿に、つまり私たちが最初に見つけた状態と同じ姿に戻りました。
「これは一体何に使うのでしょうか」私は興味津々でした。画家さんも気になっている様子で、「君、ちょっと持って帰って研究してみてはくれないか」と私に問いかけました。
「私が持って帰って良いのでしょうか。そもそも持ち主の方が探しているかもしれませんよ」と私が答えると、「使い方がわからなければどんな人が捜しているかわからないじゃないか」ともっともらしいことを言いました。「それなら、画家さんが持って帰ればよいのでは」と問うと、「なに、私は自分の荷物で精一杯だからね」と、彼女は画材とカンバスを指差しながら言いました。
私は、仕方がないという様子を装いつつも、内心わくわくとした気分でそれを画家さんから受け取りました。そして、彼女に別れを告げ、家路に着きました。
自分の家に帰ると、私は早速、それを隅から隅まで調べてみることにしました。骨組みは所々錆びついており、折れ曲がってしまっている部分もありました。小豆色の布はペン先で刺したような小さな穴がそこここに空いており、相当に古いものだという印象を受けました。開閉以外に何か機能はないのかとあれこれ触って調べてみましたが、別の機能があるようには見受けられませんでした。何も収穫がないことを悟ると、私はそれを閉じた状態にして玄関の隅に立てかけました。
私は、夕食の為に、スープを温め始めました。ふと、「食糧配給が厳しい」と言っていた画家さんのことを思い出しました。もしも、このまま、食糧の配給が人口増加に追いつかなくなると予測されるような事態になれば、また何人かの住民が選ばれ、他のコロニーか外宇宙探査船へ移民させられることになるでしょう。宇宙はとても広いですが、人類が住めるのは、地球や、生物が住めるようにテラフォーミングされた火星のような惑星と、環境の調えられた人工物の中のようなごく限られた一部だけなのです。次の移民先に選ばれる場所は、想像もつかないほど遠く、違う場所なのでしょう。レーテの街が好きだと言っていた画家さんが、その移民に選ばれてほしくないな、と私は強く願いました。
次の日、私は、商店街の本屋へ向かいました。その本屋――
彼女がレジで商品を清算している最中、私は昨日拾った奇妙なものの話をしていました。すると彼女は「それは傘じゃないか」と、まるでそれを知らない私がおかしいかのような顔をして言うのでした。そして、「そういえば、君は地球時代の古典文学はほとんど読まないからな」と一人勝手に納得するのです。私は、昨晩ずっと費やしてわからなかったものが何であるかをこんなにも簡単に当てられたため、とても驚きました。それからすぐに、その正体がなんであろうかという好奇心がムクムクと大きくなり、傘の用途を早く教えてくれと店主さんを急かしました。彼女は「わかったわかった」と私を宥めてから、ココアを一口含みました。
彼女によると、地球のような惑星では『雨』と呼ばれる水滴が空中から降ってくる日があり、そういう日に何の対策もせずに外に出ると濡れてびしょびしょになってしまうので、傘を開いて雨を防いでいたということらしいのです。人類がコロニーに住むようになってからは、コロニー内にわざわざ雨を降らせるような必要も無くなったので、そういった習慣がなくなってしまいました。私は先人の知恵に感心しました。あんなに簡単な操作で空中から水滴が降ってくるという未曽有の事態を防ぐことができる装置を作るなんて!
しかし、私はふと、「あれは、必要とされなくなったものなんだ」と気づきました。昨日の昂揚がだんだんと別のものに変わっていくのを自覚しました。コロニーの気候は完全に制御されており、上からなにかが降ってくるなんてことは起こりえません。だから、私や画家さんのようにコロニーで生まれ育った人々には、傘というものの存在は忘れ去られてしまっていたのでした。こうしてなくなっていったものは、他にいくつもあるのでしょう。私はそうやって必要とされなくなったモノたちの寂しさに包まれているような気分になってしまいました。必要ないものは、忘れ去られるしかないのでしょうか。
「おいおい、お嬢さん、急にどうしたんだ」店主さんが私の変化に気づいて声をかけてくれました。ココアでも飲んで落ち着くかと提案してくれたので、私はお言葉に甘えることにしました。
湯気の立つ甘いココアを飲んでいるとだんだんと寂しい気持ちも和らいできました。仕方のないことなのです。技術はどんどん進歩して、それに伴って使われない物も増えていく。もしかしたら紙の本も数世代後には絶滅しているかもしれないのです。すると店主さんがふと気になったような感じでつぶやきました。「そういえば、元々の持ち主はなんで傘なんて持っていたんだろうな」私もハッとしました。そういえば、あの傘には持ち主がいるはずです。そして、その人は必要としていたからこそ傘を持っていた筈です。私はその人に会いたいと思いました。私の内心を悟ったのか、店主さんは言いました。「探してあげましょうか、お嬢さん」私は、是非お願いしますと頼みました。この店主さんには不思議な伝手があるので、多分すぐにでも見つけてくれるでしょう。すると店主さんは「明日までには見つけてあげる、また来るといいよ」と、本当にすぐに見つけてくれることを確約してくれました。「ありがとうございます、ココアもごちそうさまでした」私は、そう言って、店を出ました。
帰り道、私はまた画家さんと会いました。今日は警察署のスケッチをしていました。「いつもどうやってモチーフを決めているんですか」私は画家さんに尋ねました。画家さんは「なんとなくかな。私が忘れたくないと思ったものを描いている、来月には無くなってしまいそうなものとか」と言いました。「警察署はすぐにはなくなりませんよ」と私は笑いながら言いましたが、画家さんは真剣そうでした。
「今度さ、強制移住が実行されることになったんだって」画家さんが唐突に言いました。私は耳を疑いました。食糧配給に限界が来るまでにはまだ余裕があるはずです。「限界寸前になる前に予防策を打っておくんだってさ。それに、外宇宙探査船の就航も近いし、それに合わせることにしたんだろう」
外宇宙探査船は人類の居住可能な惑星を太陽系の外側に探しに行く船です。片道切符で、よっぽどのことがなければ帰ってこられません。志願制ではありますが、既定の人数に達しない場合は、コロニー政府上層部の人間たちが市民の中から何人かを選び、強制的に船に乗せてしまうようです。私は、行きたくありませんでした。絶対に船には乗りたくないと強く思いました。あの船はレーテに必要ない市民を外に捨ててしまうためのものなのだと、そう思いました。
「そういえば、昨日のあれは何だったのかな」画家さんは、何気なく話題を転換しました。彼女はいつも私の気分を汲み取ってくれているかのようでした。私は店主さんの説明を画家さんに伝えました。画家さんも私同様に驚いていました。しかし、その驚きは私の感嘆の驚きとは反対のものでした。「そんな空前の事態に、あの程度の布切れと棒で対処しようとしていたのか!昔の人間たちはなんて愚かなんだろう!」
家に着くと、私は玄関の隅に立てかけていた傘を手に取り、開きました。そして、昔の人がどんな風に雨を防いでいたのか想像しながら傘をくるくると回しました。地球のある街で雨が降り出します、すると人々はめいめい傘を開き、ドームのように開いた傘が雨を受け止めます。傘の色はもちろんこの小豆色だけではないでしょう。色とりどりの傘を開いた人たちが往来を行き交うのです。雨が傘に当たり、パラパラと音を立てます。傘の端からは滴がぽたぽたと地面に落ちていきます。大きな傘もあれば、小さな傘もあるでしょう。たくさんの傘が、地球では日常的に使われていたに違いありません。でも、このレーテでは傘をなんのために持っておく必要があるのでしょうか。空中からは何も降ってきません。上を見上げてもまた別の街があるだけです。この傘の持ち主に会うのが楽しみになってきました。
翌日、本屋へ向かうとスーツを着た見知らぬ女性がレジの前に立っていました。店主さんが言いました「彼女が傘の持ち主だよ」
私は驚きました、一日で見つけるどころか、呼び出してしまうなんて!この店主さんの人脈は一体どうなっているのでしょうか。「傘なんて珍しいものを探している珍しい人なんてすぐ見つかるよ」店主は私の思考を見透かしたかのようににやりと笑いました。そして、私が傘を持ってきていないことに気づき、指摘しました。
「本当に一日で会えるとは思ってもいなくて」私は、なんだかがっくりとしてしまいました。そして、持ち主さんの方に向き直り、挨拶をして、いくつか言葉を交わしました。なんとなくですが、この人はいい人だろうという印象を受けました。「傘は明日返します。また、ここで良いですか」と尋ねました。彼女は快諾してくれました。「私の店を逢引の場所に使わないでくれるかな、お嬢さん」と、店主はからかってきましたが、無視しました。
「そういえば、何故、雨の降らないコロニーの中で傘を持っているのですか」私は疑問をぶつけました。彼女は答えました。
「ワタシは『いらないものコレクター』なんです。用途のなくなってしまったもの、必要とされていないもの、そういうものを集めているのですよ」
私は、その言葉を聞いて頭が真っ白になってしまいました。
「あの傘は、必要ないものだから集めていただけ、なんですか」
私は、そんな当たり前のようなことを口にするだけで精一杯でした。なぜ、私はこんなにも動揺しているのでしょうか。二日前に拾った奇妙な代物が、私自身も気が付かないうちに、心の中で大きな意味を持ってしまっていたのです。
帰り道、私は画家さんに会いました。画家さんは突然私に告げました。「外宇宙探査船に志願したんだ」
私は今日二度目の驚きに見舞われ、当惑してしまいました。混乱のあまり一言も口にすることができない私を見て、彼女は先を続けました。「私は、たぶん志願しなくても選ばれると思うんだ。絵を描くだけしか能がない人間だから、このコロニーには必要とされないかもしれない。そう思ったら居てもたってもいられなくなって、志願した。誰かに言われるより、自分で行く方が気持ちは楽だから。来月にはレーテを出て、外宇宙だ」
「私には画家さんが必要です」と私は訴えました。しかし、画家さんは考えを改める様子はありませんでした。「個人じゃなくて、社会に必要とされなきゃいけないんだ。絵を描くのは止めるよ。私は向こうで、何か必要とされるようなことを見つけようと思う」画家さんは、悲しそうに笑いました。
家に戻り、傘を見ました。この傘は、持ち主にすら必要なものだと思われていないのだ。そう思うと悲しくてたまりませんでした。私は、ボタンを押して傘を開きました。それを肩にかけ、その場に立ち尽くしました。今、この傘は、私を何かしらから防いでくれているのでしょうか。
人も物も、用途を見失ってしまった時、必要でなくなってしまう、忘れ去られてしまう。雨が降らなくなったとき、絵を描かなくなったとき。
それはそのものにしかできないことだったのかもしれない。それで必要とされなくなって、他に何もできなければ、その人はどうしたらいいのでしょう。
私は傘を見上げました。開いた傘の布に開いた細かい穴から光が差し込んでいました。ふと、思い立って、居間の真ん中に寝ころび、広げた傘を上に向けてみました。すると細かい穴から光が差し込んできました。
「……星空みたい」
馬鹿らしい、子供じみた言い訳みたいなものでした。でもなんだか救われたような気がしました。画家さんは、向こうでも新しく必要とされることを見つけることができるだろう、そう信じることができました。
明日、この傘の持ち主にこのことを教えたらどう思われるのでしょうか。たわごとだと一蹴されるかもしれません。でも、彼女に「この傘はワタシのコレクションにはふさわしくない」と言わせることができるかもしれない、そんなことを夢見て、私はクスリと笑いました。
レーテの秋 まり @mari_mari
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