魔物
ゆうとと
『魔物』
親だと思っていた人たちが、親じゃなかった。四月の初頭、高校生活が始まる直前に、私は両親からその事実を聞いた。十五年前の夜、私を抱いた母親が突然家を訪ねてきて、一日だけと言って私を預けた翌日、行方をくらましたらしい。父親の行方も分からないという。役所から警察まで、あらゆる手を尽くして調べたが、結局分からずじまいだったそうだ。そして、私はそのままこの家に養子として迎えられた。本来なら施設に預けられていたのだが、両親の希望でそのまま引き取ったらしい。
それを聞いた私はというと、自分でも驚くほど何ともなかった。育ての親でも、親は親だ。だから、何も気にしていなかった。それを育ての両親に伝えたら、二人とも泣いて喜んでいた。何と言っていいのかさえ分からずにその場で口をついて出た返答だったが、間違ってはいなかったようだ。それに、私に本当の両親がいたとして、その有様ならろくでもない親だ。私はその話を気にしないことにして、これから始まる高校生活のことに思いを馳せながら入学式を迎えた。
入学式を終えて校舎を出ると、色々な部活動の人が集まって勧誘のビラを配っていた。半ば押し合うようにしながら左右からビラを持った手が伸びてきて、手当たり次第に全部受け取りながら、どうにか正門まで辿り着いた。結構な数のビラを受け取ってしまったが、私の入りたい部活は既に決まっていた。中学から続けているソフトボール部だ。部活動見学で何度か顔を出して、そのまますぐ入ろうと思っている。
翌日の放課後、予定通りソフトボール部の練習場所に足を運んだ。挨拶をして、練習の様子を一通り見学した後、ボールを投げさせてもらうことになった。私はピッチャーの経験があるので、投球にはそれなりに自信がある。力強くボールを握り、意気揚々とマウンドに立つ。
「行きます!」
「はーい!」
ボールが手から離れる瞬間、異変に気がついた。肩のあたりが、ひどく強ばっているのを感じる。ボールは想定していた軌道を大きく外れた上に、やたらと高く上がってしまって、バッターボックスにすら届かなかった。
「……え」
経験がないと言っていた子を含めても、恐らく私が一番下手だったと思う。その後も何回か投げさせてもらったが、身体の異常が治ることはなかった。先輩たちはそんな日もあるよ、と慰めてくれたが、どうにも納得がいかなかったので、帰りの電車の待ち時間に調べてみた。
「イップス……」
同じ動作を過度に繰り返すこと、あるいは精神的な負担が原因となって生じる運動障害の一種。異変の原因は、恐らくこれだ。
「でも、精神的な負担なんて……」
そう言いかけたところで、ふと親の話を思い出した。全く気にしていなかったつもりだが、心の奥底では無意識に鈍痛を抱えているのかもしれない。
調べてみると、実の親の存在というのは私が思っているよりも重大らしい。詳しくは知らないが、アイデンティティに関わる問題だという。私がどこから生まれてきたのか、それが分からないということ。その重大さを私自身は知らないが、私の心と身体は知っているらしい。そうなると、何だか私が鈍い人間みたいで嫌だったから、どうにかして反撃したくなった。そこで、自分のアイデンティティについて考えてみた。それがはっきりしているなら、私の心と身体は無用な心配をしていることになる。そうなれば、私の逆転勝利という算段だ。
私は
完敗だ。全く気付かないうちに、私は自分のアイデンティティの両翼をもがれてしまっていたらしい。私の心と身体は、この危機にいち早く気付いていたようだ。これを実感してしまうと、この間の親の話を気にせずにはいられなかった。
そのまま電車に乗って、家の最寄り駅を出て、弱々しい足取りで家まで歩く。今の私は、いったい何者なんだろう。これから、どういう人として高校生活を送れば良いんだろう。これまで見えなかった不安が、いきなり形をもって周囲に浮かんでいるような感じがする。私は、何のために生きているんだろう。
「そ……そこのあなた……」
不意に声をかけられて辺りを見回したが、視界には誰もいない。気のせいかと思って再び歩き出した。
「そんなこと……ある……?」
やっぱり声が聞こえてくる。ずいぶん弱々しい声なので、初めはお爺さんかお婆さんに話しかけられたのかと思ったが、よく聴いてみると声が若い。それにしても、さっきから声の聞こえる位置がやたらと低い気がする。まさかと思い、目線を下げてもう一度辺りを見回すと、私と同じ制服の女の子が道端で倒れていた。
「そんなことある!?」
驚きながらも急いで駆け寄ると、彼女は顔を上げて私を見た。極端に痩せ細っているわけでもなく、道端に倒れていたこと以外は普通の女の子に見える。
「あ、気付いたわね」
「え?」
女の子からさっきまでの弱々しさが突然消えたので、つい戸惑ってしまった。はっ、と彼女は気合いを入れながら、地面についた手をぐっと押して一息に立ち上がった。体調が悪いのかと思っていたが、むしろ元気いっぱいだ。
「……あなたは、何なんですか?」
「いきなり哲学的なことを聞くわね」
「そういうことじゃなくて……」
「冗談よ、私は
恵那と名乗った彼女は少し信用ならないような気がしたが、私の方から質問してしまった以上は仕方がないので、私も名前を教えた。
「日比真衣です。それで、こんなところで何してるんですか?」
「新入生歓迎よ」
「ええ……?」
恵那は私の質問に堂々と答えたが、その意味は分からなかった。私が言葉に詰まったのを見て、彼女は笑いながら説明を加える。
「帰りの電車であなたを見つけてね、同じ制服だけど知らない顔だったから、新入生だと思ったの」
「そうだとしても、何で倒れたふりなんて……」
「それはもちろん、私が演劇部だからよ!」
恵那は私に向かってビシッと指をさす。そう言われても、いまいちピンと来ない。
「えっと……つまり、倒れた演技で部活をアピールしてた……ってことですか?」
「そう、察しが良いわね! そういうわけで、演劇部で新しい自分を見つけてみない?」
パチンと指を鳴らしながら、ずいと恵那は近寄ってきた。新しい自分。これまでの自分が粉々に打ち砕かれている今の私にとっては、魅力的な言葉だ。
「でも、今話しただけじゃどんな部活か分かりませんよ。ロミオとジュリエットでもやるんですか?」
「ノンノンノン、それは偏見というものよ!」
恵那はわざとらしく人差し指を立てて左右に振った。その様子を見ていると、何だか無性に腹が立った。あまりにも堂々と振る舞っているのでつい忘れかけていたが、既に私は一度彼女に騙されているのだ。それに気付くと同時に、何か一つ仕返しをしてやりたい気持ちが生まれた。思わず、恵那の襟首に手が伸びる。
「えっ……」
「……」
「一つしか違わないと思うんだけど、なんだか最近の子って意外とダイタンなのね」
「世迷言を……」
「意外と語彙もあるのね」
口の減らない恵那を、襟首を掴んだ右手で引き寄せる。バランスを崩した足を引っ掛け、後ろに転ばせた。怪我をしないように、彼女の背中に左手を添える。
「ほあーッ!?」
いきなり体勢を崩した恵那は間の抜けた声を上げ、背中から倒れた。私の左手に支えられながら、彼女は困惑したような目で私を見上げる。しかし、その後すぐに立ち上がった。
「なんだ、びっくりした」
「……」
さっきはひどく驚いていたが、今はむしろ楽しいことでもあったかのように恵那はニコニコ笑っている。
「真衣ちゃん、良いわね。ちょうど初対面の相手をすっ転ばせられるような新入生を探していたのよ」
「そんなバカな……」
「まあ、見学するだけでもいいから。明日の放課後に視聴覚室まで来てよね!」
「は、はあ……」
「それじゃ、私は家そこだから。また明日ね!」
恵那は手を振りながら近くの家まで走っていって、玄関の扉に手をかけた。しかし、ガコ、と固い音がするだけで、扉が開かない。彼女は鞄から鍵を取り出すようなそぶりも見せず、ただその場に立ち尽くしている。私のいる場所からはよく見えなかったが、扉の前に何か貼り紙のようなものがあった。
「……来たわね、この時が」
「え?」
「真衣ちゃんがいてくれて、ちょうど良かったわ」
そう言って、恵那は私をじっと見た。突然吹いてきた夜風がそっと頬を撫でる。いつの間にか、日が沈んでいた。さっきまで聞こえていたカラスの鳴き声もすっかり止んで、辺りは静寂に包まれている。彼女の眼差しはまさしく真剣そのもので、暗がりの中でもまっすぐに私を捉えて逃さない。適当な言い訳をして、さっさと帰るようなことはできそうにない。急に空気が変わり、思わず唾を呑む。その直後、重苦しそうに恵那は口を開いた。
「真衣ちゃん」
「……!」
「今晩泊めてぇー!」
「……はい?」
恵那はいきなり縋りつくように私の手を握り、そう頼んできた。彼女がさっき見ていた貼り紙をよく見てみると、ろくに勉強もせず演劇にうつつを抜かしてばかりいるので恵那を家から追い出すという旨の文章が乱れた文字で書かれていた。
「えっと……大丈夫なんですか?」
「平気平気、追い出されるの自体はもう高校入ってから五回目。明日には機嫌直ってるはずだから大丈夫よ」
「ええ……」
「でもそれは今晩を凌げばの話……だから、泊めてくれない……?」
恵那は両手を合わせ、頭を下げ、思いつく限りの懇願の姿勢を次々に作っている。私も怒りに任せて彼女を転ばせた負い目があったので、気が進まないながらも親に連絡を取って聞いてみた。
「……大丈夫みたいです」
「本当!?」
恵那が目を輝かせる。何だか、彼女と話しているとすごく調子が狂う。非常識なのに、妙に賢そうに見える瞬間もある。軽口ばかり言っているかと思いきや、恐ろしいほど真剣な表情を見せることもある。彼女を見る度に違う色が見える。何の個性もない、今の私とは正反対だ。そんな彼女が、少しだけ羨ましいような気がした。家を追い出されているのは、いただけないけれど。
翌日の放課後、恵那に言われた通り、演劇部の見学に向かった。演劇に興味はなかったが、下手に約束をすっぽかすのは得策ではない。何しろ、私と彼女は最寄り駅まで同じなのだ。いきなり気まずい関係になっても良いことはないだろう。視聴覚室に着くと、他の部員を押しのけて、恵那が一番に出迎えてくれた。
「来てくれたのね!」
「ど、どうも……」
恵那は、昨日と同じ明るい笑顔を浮かべている。やっぱり、私が見学に行かなくても特に彼女の態度は変わらなかったかもしれない。何となく、彼女はそういうタイプの人間なんじゃないかと思う。
「ちょうどそろそろ開演の時間だから、そこに座って待ってて」
恵那に促されて椅子に座り、開演を待った。しばらく経って、ある程度人が集まったところで音楽が流れ始めた。どうやら上演が始まるようだ。
舞台の真ん中に置かれた机に、男性が座っている。そこに女性がやって来て、男性に声をかけた。
「あの……ここが霊媒師の方の事務所で合ってますか?」
「はい。こちら、真野霊能事務所です」
男性がそう答えると、女性は安堵したような表情を浮かべながら名乗った。
「電話で予約していた加藤なんですけど……」
「ああ、先日お電話くださった方でしたか、わざわざ足を運んでいただいてありがとうございます。私が代表の真野です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
真野に促され、加藤と名乗った女性が椅子に座った。真野も椅子に座り、軽く指を組んだ。
「では早速ですが、どのような用件でしょう?」
「心霊写真……と言っていいのか分からないんですけど」
「はい」
「私が写真を撮ると……」
加藤は言い淀むように一度間を置いてから、話を続けた。
「いつも、パイナップルが映り込んでしまうんです」
客席から、くすくすと笑い声が聞こえてくる。それは役者も織り込み済みのようで、真野は少し間を置いてから口を開いた。
「……はい?」
「周りの友人に相談してみても、全然相手にしてくれなくて……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
加藤の話を真野が遮る。かなり狼狽している彼を見て、加藤はきょとんとしながら話を止めた。
「何ですか?」
「あの……聞き間違いかもしれないので確認しておきたいんですけど……写真にパイナップルが映り込む、ですか?」
「そうなんです、どこで誰と写真を撮っても全部トロピカルになっちゃって……」
客席から再び笑い声が起こる中、加藤は写真を机に広げた。同時に、舞台の端の方に置いてあったテレビの画面に写真が映し出される。証明写真のような真顔の写真には、パイナップルが映り込んでいる上に南国を感じさせるような雰囲気の加工もされている。
「ほ、本当だ……」
「もう怖くて、そのせいで生活リズムも大きくズレちゃって……」
「それは深刻ですね。夜眠れない、とかですか?」
「夜七時から深夜二時までしか眠れないんです」
「変なズレ方!」
「ハワイって日本より十九時間遅れてるんですよね」
「パイナップルが写真に映ってるからってハワイの時間で生活するのはおかしいですよ!」
「とにかく、何とかなりませんか!?」
「はあ……困ったな、流石にこんなの初めてですよ」
「そんな……知り合いの霊媒師にパイナップルの映り込みに詳しい方とかいらっしゃらないんですか?」
「いるわけないでしょ!」
「お願いします、助けてください!」
「そう言われましても……」
「このままだと私、遺影までトロピカルになっちゃうんです! そ、それじゃあ三途の川までワイキキ風に……!?」
加藤は青ざめて椅子にもたれかかり、後ろに倒れ込みそうになっていた。真野はとにかく加藤を落ち着かせようと、必死になって彼女を宥める。
「普通自分で遺影は撮りませんよ、とりあえず落ち着いてください」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
「ま、まあ……そうなんですけど」
「これじゃあ、結婚式もハワイしか行けませんし」
「もう適応しようとしちゃってるし……」
「将来、子どもの七五三なんかに行ったら……我が子の写真にまでパイナップルが……あ、ああ……!」
「とりあえず今の、今の心配をしましょう!」
真野はそう言った後、少し間を置いて椅子に座り直した。加藤もそれを見てようやく落ち着きを取り戻す。真野は、一度深く息をついてから再び口を開いた。
「ともかく、ここはあくまで霊能事務所ですから。パイナップルの映り込みについてはちょっと……」
「そうですか……残念ですが、仕方ありません。お話を聞いてもらえただけでも十分です」
「お力になれず、すみません」
「いえ、もう大丈夫です。話した相手が信じてくれれば、乗り移ってくれるみたいですから」
「……え?」
困惑する真野に構わず、加藤はさっさと財布を取り出して、お金を机の上に置いた。
「こちら、お代です。それでは!」
「ええ……?」
加藤が去った後、霊媒師はスマホを構えて写真を撮った。写真を撮ってから、真野はスマホの画面を見ずに一度机の上に伏せ、恐る恐るそれを覗き込んだ。
「う……うわああああッッ!!」
上演が終わると、新入生たちは次々に帰り始めた。私も帰ろうと思ったが、席を立つ前に恵那が私のもとまで来て、声をかけてきた。
「真衣ちゃん、来てくれてありがとう」
「いえ、お疲れ様でした」
「上演、どうだった?」
恵那は期待の眼差しを私に向けながら、感想を聞いた。あまりにもじっとこちらを見ているので少し言いづらかったが、率直な感想を伝える。
「面白かったんですけど、その……劇というよりはコントに近いような感じがしました」
「まあそうね。あくまで新入生向けだから、楽しみやすいような形で作ってはいるわ。でも、コントも立派な演劇よ」
「そうなんですか?」
「もちろん。コントに限らず、人前に出て話すこと自体が広い意味では演劇と言えるの」
恵那の話は、私にとっては意外だった。そういう捉え方で見れば、授業でスピーチや発表をする時も、学校の先生も、皆演劇をしていると言えるのかもしれない。
「演劇って、意外と身近なんですね」
「そう! この世は舞台、人はみな役者ってわけ!」
恵那は高らかにそう言った。演劇は、私には縁のない世界だと思っていた。でも、恵那の話を聞いていると、不思議と私も何かやってみたいという気持ちが高まってくる。それを見透かしたようなタイミングで、恵那は唐突に話を切り出した。
「それで……どう? 演劇部に入ってみない?」
「……」
演劇部が魅力的でないと言えば嘘になる。しかし、私はどうしてもソフトボールを諦めきれない。今は調子が悪いけれど、それもいつかきっと元に戻ってくれるはずだ。ここでソフトボールが好きな私を捨てる勇気が、私にはない。それを恵那に伝えると、彼女は少し考えるそぶりをして、数秒後にいきなり声を上げた。
「そうだ!」
「うわっ、急に大きい声出さないでくださいよ」
「ごめんごめん、でもこれは間違いなく名案よ!」
恵那が自信満々にそう言うので、一応考えを聞いてみた。いつの間にか、他の部員も恵那に注目している。何となく、恵那に期待しているというよりは、彼女を見守っていると言った方が近いような気がした。
「真衣ちゃん、仮入部ってことにしたら?」
「仮入部……ですか?」
「ええ。一旦演劇部として活動して、調子が戻ったらソフトボール部に移る……みたいな感じ」
「そんなどっちつかずのまま入っちゃってもいいんですか?」
恵那の提案は、もちろん私にとってはありがたいものだった。しかし、もし私が途中で転部したら、他の部員に迷惑がかかってしまうだろう。自分に都合が良いからといって、簡単には頷けない。
「いいのよ。もちろん私だって何も考えずにこの提案をしたわけじゃないわ」
「……というと?」
「それは、その時が来てからのお楽しみ!」
恵那はいたずらっぽく笑って、私を出口まで案内した。促されるまま、視聴覚室を後にする。
「それじゃ、顧問の先生には私から話通しとくわ! 幽霊顧問だから多分通るけど、もしダメなら上手いこと忍び込んでもらえばいいから!」
私を見送りながら、恵那はそう言った。こうなった以上は、腹を括るしかない。これまで続けてきたソフトボールから離れて、全く新しい世界に飛び込む。それは本当に怖いことだが、新しいことに打ち込んでいれば、心の奥底にある痛みもやがて消えてゆくかもしれない。
翌日の昼休みに恵那が教室まで来て、仮入部の許可が下りたことを教えてくれた。まだ部活勧誘の期間中だが、入部を決めた新入生は練習に参加しても問題ないらしい。せっかくなので、今日の放課後も視聴覚室に顔を出すことにした。恵那の姿が見えたので、挨拶をする。
「こんにちは……」
「ストーップ!」
恵那は急に声を上げて、私の前に手のひらを突き出した。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「そういえば、説明してなかったわね。演劇部の挨拶は、いつでも『おはようございます』なのよ」
「えっ、どうしてですか?」
「『こんにちは』と『こんばんは』は、お客が『来ん』ってことにかかっちゃうの。要は縁起が悪いってわけ」
そんなこと、考えたことなかった。聞けば、芸能人もこれが理由でおはようございますとか、お疲れ様ですと挨拶しているらしい。演劇の世界には、体育会系のものとはまた色が異なるルールが存在するようだ。
「わかりました、すみません」
「謝ることはないわ、私が事前に説明していなかったのが悪いわけだし。それじゃあ改めて、元気いっぱいの挨拶をお願いね」
「はい。おはようございます!」
張り上げた声が、教室中に響く。ソフトボール部でも掛け声の指導は厳しくされていたから、素人にしてはそれなりの声量があると思う。
「よし。それじゃあ早速、基礎練習の説明をするわね」
「はい!」
その後は、恵那と一緒に体幹のトレーニングや発声練習に取り組んだ。体力には自信があるので、ほとんど苦はなくついていけた。恵那は私の様子を見て驚いているようだったが、彼女の方も涼しい顔をしている。私が転ばせた時も全く平気そうだったし、私が思っているよりも身体が強いのかもしれない。
「流石ね、この分ならすぐ演技の練習に入っても良いかも」
「ありがとうございます」
恵那は準備室の扉を開け、そこから紙束のようなものをいくつか持ってきて私に手渡した。見ると、セリフのような文章が書いてある。どうやら劇の脚本らしい。それを見た他の部員が、恵那の方に向かって歩いてきた。
「恵那、読み合わせは流石に早いんじゃない?」
「物は試しよ。それに何より、私が真衣ちゃんの演技を見てみたいからね」
「そんなことだろうと思った……まあ、それなら任せるよ」
歩いてきた部員が去って、恵那はこちらに向き直った。どうやら、彼女は私に随分期待してくれているらしい。単純に家が近いからなのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。それは分からないが、せっかく期待してくれているならばそれに応えたい。そう思いながら、恵那が指さしたセリフを読んでみた。
瞬間、辺りに静寂が訪れる。たった一言で、一気に周囲の注目が私に向いた。数秒の後、恵那が口を開いて沈黙を破った。彼女がこれから発するであろう言葉は、大体察しがついた。
「あなた……」
「……」
「ド下手ね!」
「わざわざ言わないでくださいよ……」
自分でも驚くほど、気持ちが乗っていなかった。思えば、そもそも私は演技というものを知らない。劇はおろか、ドラマすらほとんど見ないのだ。上手くできないのも当然のことだった。役者の適性は無いと見て間違いないだろう。
「私、裏方やりますね……」
「それは早計よ。真衣ちゃんは体力があるから、大道具とかでも活躍できそうだけど……私は、あなたに役者をやってほしい」
恵那の言葉は、にわかには信じがたいものだった。お世辞を言っているようには見えない。彼女は真剣に、私に役者を勧めている。他の部員の様子を見ても、彼女に異議を唱える人はいないようだ。
「いやいやいや、今の聞いてましたか?」
「もちろん。ちゃんと聞かずにド下手だって言ってたら大問題でしょ」
「そうですけど……」
私がいまいち納得していないのを見て、恵那は一度腕を組んだ。私に何か言おうとして、言葉を選んでいるらしい。
「真衣ちゃんは、確かに今のところ演技が上手いわけじゃない。でも……私たちの劇には、あなたが必要なのよ」
「そんなこと……」
「あるのよ。劇は、一人の天才だけで作れるものじゃない。でも、下手だろうと何だろうと、人が集まって舞台に上がって声を届ければ、劇は完成する」
「……」
「天才じゃなくても舞台に立てるのが、高校演劇の良いところよ。もちろん、プロの世界ではそういうわけじゃないでしょうけどね」
そう言いながら、恵那は不意に他の部員の方に歩み寄り、その傍にあった工具をひょいと拾い上げて戻ってきた。引き金のような部分を彼女が指で押すと、先端がドリルのように激しい勢いで回り始める。
「もし下手だって馬鹿にする観客がいたら、私がこのインパクトドライバーで風穴開けてやるわ!」
「須藤、勝手に持ってくなよ」
工具の回転が止まったところで他の部員が背後から恵那に近づき、工具を取り返した。彼女はおもちゃを取り上げられた子どものように、不満げな表情を浮かべる。
恵那がこれほど必死に私を説得する理由は、まだ分からない。ソフトボールに限らず、チームスポーツの世界では実力が伴わない選手が試合に出てくることはない。大抵の場合、補欠として穴埋めをするのが関の山だ。しかし、どうやら演劇は違うらしい。つくづく、変な世界だと思う。
「そこまで言うなら……一回、やってみます」
「本当!?」
ぱっと恵那の表情が明るくなる。相変わらず、柔軟で色鮮やかな人だ。こういう人がたくさん集まって作った劇の方が、私が出るような劇よりずっと面白いと思う。でも、私は自分より彼女の方を信じてみたくなった。彼女が面白いと思う劇に私が必要だと言うのなら、その可能性に賭けてみたい。
「それじゃあ、これからどんどん練習するわよ!」
「……はい!」
それから、練習には毎回参加して、休日には自主的にトレーニングもした。演劇部に入ると言った時には驚いていた両親も、私が新しいことに打ち込んでいる様子を見て安心したようだ。やがて部活勧誘の期間が終わり、私以外の新入部員も練習に参加するようになった。私たちの当面の目標は、六月の文化祭の発表だ。例年、二年生は夏の大会の準備で忙しいので指導に回り、実際に劇を作る役者や裏方は一年生が務めるらしい。一年生にとっては夏の大会前に経験を積む貴重な機会だ。五月の初め、視聴覚室に向かう途中でちょうど恵那に会った。彼女は両手で大きな紙束を抱えるようにして運んでいる。
「よっと……」
「大丈夫ですか? 持ちますよ」
「ありがとう……って、片手で!?」
私が予想した通り、紙束は劇の脚本だった。文化祭の発表に使うものだろう。視聴覚室につくと、恵那が脚本を一年生に配った。
「これ、先輩が書いたんですか?」
「ええ、まあね」
「へえ、すごいですね!」
そう言いながら読んでみる。しかし、内容が全然掴めない。まるで見た夢の話を聞かされているようだ。他の一年生も同じような感想を抱いたようで、皆で恵那の方をじっと見る。私が先陣を切って、恵那に質問した。
「あの、これは……どういう劇なんですか?」
「これは、広義の不条理劇と言えるわね。話の筋道が立っていないことが最大の特徴よ」
「不条理劇……」
ジャンルの名前すら聞いたことがなかった。恵那はこの脚本を通して、何を描こうとしたのだろう。考えても、すぐには答えを出せそうにない。
「すごく難しいけど、せっかくだから普段中々やらないジャンルをやってみると良いと思ってね」
「なるほど……」
「いきなり内容について詳しく考えるのは大変だから、まずは脚本の読み合わせから始めましょう!」
そう言って、恵那はパチンと指を鳴らす。練習開始の合図だ。経験がない中、いきなり変わり種の劇を持って来られたので少し不安もあったが、ひとまず他の部員と一緒に声に出して読んでみた。そうして二年生の指導を受けながらしばらく練習していると、再び恵那が集合の号令をかけた。
「それじゃあ、今からオーディションをします!」
「えっ!?」
突然のことに、驚きを隠せなかった。他の一年生にとっても寝耳に水だったようで、辺りがざわつき始める。
「あの、まだほとんど練習できていませんが……オーディションってこの段階でするものなんですか?」
「練習していないからこそよ。この段階で、皆に合っている役を見極めたいの。まあ、確かにそれでも初日にやるのは早いけど……生憎、時間に余裕がなくてね」
「なるほど……」
確かに、恵那の答えには納得がいく。練習量や能力で差がつく前に適性で配役を決めれば、練習もやりやすくなる。運動部でも、早いうちからポジションやプレースタイルを決めておくことは多い。それと同じようなものなのだろう。
「もちろん、役の数は役者を希望してる人数と同じにしてあるから、誰かが舞台に立てないなんてことはないわ。安心してね」
恵那の言葉を聞いて、皆安心して準備に取りかかった。それから、一人ずつ別室に呼ばれ、オーディションの課題として恵那が指したセリフを読んでいった。
練習時間が終わる頃にオーディションも終わり、配役が発表された。私の役は、とても自分に合っている気がしなかった。けれど、私に合う役が他にあったかと言われると、それも分からない。何しろ、今の私には個性がない。無色と合わせることで、より魅力的になる色はない。恐らく、他の人の役を振り分けた後に余った役を私の役にしたのだろう。そこに不満があるわけではない。私が恵那の立場だったら、私だってそうする。でも、演劇部に入る前から私のことを見てくれていた彼女がそのような判断をしたということが寂しくないと言えば嘘になる。恵那と同じ電車で帰ることにならないように、そして、それと同時に複雑な感情も置き去りにするために、学校を出てから走って駅まで向かった。
それからも練習はしたが、演技が上手くなっている感覚は全くなかった。役に引っ張られているようで、自分がその役を演じているという感覚がない。周りの一年生はどんどん上達しているのに、自分だけ演技がぎこちないまま時間だけが過ぎてゆく。心の奥底の痛みに気付かなかった私でも、自分が焦燥感と劣等感に圧し潰されそうになっているのがわかった。六月になり、いよいよ文化祭が間近になった頃、私は練習を休んで家に帰った。
家の物置きからボールとグローブを引っ張り出して、近くの公園に来た。遊んでいる子どもたちの騒ぎ声が辺りに響く中、これまで数えきれないほどボールを当ててきたフェンスを前にして、一度息をつく。それから、思い切り肩を回してフェンスにボールを投げ当てた。球速は以前と同じくらいに戻っていたが、コントロールは全く元に戻っていない。カシャン、と大きな音がして、辺りが一瞬静まり返る。しかし、次の瞬間にはもう子どもたちは自分の遊びに戻っていた。周りに構わず、次の球を投げる。もう、子どもたちも私に構うことはない。何度も繰り返し球を投げ続けるが、コントロールは戻らない。いつの間にか日が沈んで、周りには誰もいなくなっていた。それでも私は無我夢中で投げ続けた。せめて投球だけでも元通りになれば、私は自分を取り戻せるのに。演劇で新しい自分を探すことに失敗した以上、もう私にはそれしかないのに。泣きそうになりながら、次の一球を投げる。また、狙った通りの場所には当たらなかった。
「うそ、アンダースローってそんな速度出るの?」
不意に、公園の入り口の方から声が聞こえてきた。咄嗟に振り向くと、そこには恵那の姿があった。
「先輩……どうしてこんなところに?」
「奇遇ね、私も同じことを聞こうとしてたわ」
「……」
「どうかしたの?」
恵那にそう問われ、観念して自分の本音をぶつけることにした。彼女が私の悩みを受け入れてくれるかどうかは分からない。もしかしたら、私は役者に向いていないと判断して代役を立てるかもしれない。それも覚悟して、全て打ち明けた。
「……私、生みの親と育ての親が違うらしいんです」
「……!」
「物心ついた頃から今の両親と一緒にいたので、自分では気にしてないつもりだったんですけど……その話を聞いてから、投球の調子が悪くなっちゃって。ずっと一緒にいた両親も、ずっと続けてきたソフトボールも、自分を保証してくれなくなったんです」
恵那は、驚きながらも私の話を聞いてくれた。黒雲が月を覆い、辺りが一層暗くなる。雨が降ってくるかもしれないので、近くの屋根があるベンチまで移動し、そこに座って話を続けた。
「そんな時に先輩が声をかけてくれたから、新しい自分を探すために演劇部に入ったんです。でも……このまま続けても、それが叶う気がしなくて」
「それは、どうして?」
「劇って、筋書きがあるじゃないですか。それをなぞっているのが、自分だという感覚がないんです」
「……なるほどね」
「もちろん、役者にも個性があるのは分かります。でも、それは元から自分を確かに持っている人が演じているからだと思うんです」
つまり、私は順序が逆なのだ。演劇は、それぞれの役者が持っている個性を活かすことには適していると思う。けれど、今の私には活かす個性がない。
「……だから、私には演劇で新しい自分を見つけることはできません」
私が話を終えると、今度は恵那が口を開いた。
「舞台には、魔物が棲んでいるのよ」
「え?」
突拍子もない言葉に思わず困惑してしまった。言葉の意味自体は分かるが、恵那がなぜ今それを言ったのかは分からない。
「それは……本番になると、練習ではしなかったようなミスをしてしまうということですか?」
「そうね、スポーツでもよく使う表現でしょう。でも、舞台に棲む魔物はそれだけじゃない。私は、劇そのものもまた魔物だと思ってるわ」
「劇そのものが、魔物……?」
恵那の話は抽象的で、すぐには理解できなかった。彼女が話を続けたので、耳を傾ける。
「もし筋書きがないまま舞台に立ったらどうなると思う?」
そう言われて、少し考えてみる。筋書きがなければ、即興劇と呼ばれるようなものになるだろう。練習でやったことがあるが、かなり難しかった。それに、決して観客に見せられるようなものでもなかった。苦い記憶を噛み潰しながら答える。
「……上手くいかないと思います」
「そうね、下手したらそもそも舞台が成立しないかもしれない。成立しても、それぞれの役者が考えることをぶつけ合うような舞台になる。まあ、それも一興ではあるけどね」
「それを抑えるのが、劇……?」
私がそう言ったのを聞いて、恵那は指を鳴らした。夜の静寂に、乾いた音がよく響く。
「そう、役者同士の衝突を抑えるかわりに、舞台を成功に導く大きな力……それが劇だと私は思う」
「……そんな話、どこかで聞いた気がします」
「ホッブズの社会契約論ね」
「こういうのって、元の話はぼかしておくものだと思ってました」
「あら、いつもの調子に戻ってきたわね」
恵那は、唐突に立ち上がって私の方に向き直った。初めて出会った時と同じように、大きな瞳と真っ直ぐな眼差しが私を捉える。
「そして……その魔物を生み出すために、真衣ちゃんが必要なの」
「……買い被りすぎですよ」
そんなことを言っても実際は余った役に私を当てたじゃないですか、とは言えなかった。彼女の眼が、決してそうではないと教えてくれたからだ。詳しい理由はわからないけれど、とにかく彼女は私を信じてこの役を任せてくれている。それだけは、確かにわかった。
「そもそも、真衣ちゃんは決定的な勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「そうね、詳しくは言わないけど……とにかく、全力でぶつかってみて。私たちが作る魔物は、そんなにヤワじゃないわ!」
そう言い残して、恵那は去っていった。雨が降り始める前に、私も家に帰った。恵那が私にこの役を任せた理由は、結局分からないままだ。でも、彼女に聞いてもきっと答えてくれないと思う。自分で考えて、自分なりの答えを出すしかないのだろう。部屋に戻ってから、もう一度脚本を手に取ってみた。練習する中で何度か脚本の内容について話し合いをしたので、伝えたい内容はそれなりに分かるようになった。しかし、それを伝える上で私にしかできないことは分からない。恵那と一度話しただけで、悩みが都合良く綺麗に消えるようなことはなかった。相変わらず、分からないことだらけだ。それでも、恵那が私のことを信じてこの役を任せてくれたように、もう一度私も彼女のことを信じてみようと思う。
それから数日経って、ついに発表当日になった。体育館に設置していた客席は既にいっぱいになって、皆上演が始まるのを待っている。役者も衣装やメイクの準備を終え、舞台袖に集まっている。小声で他の役者と喋っている人もいれば、強引に笑顔を作っている人もいる。それぞれ自分なりの方法で緊張をほぐしているのだろう。
結局、私の演技はぎこちないままだ。それでも、私がすべきことだけは分かった。舞台に立って、全力で劇にぶつかる。個性だとか、新しい自分だとか、難しいことを考える必要はない。目の前の演技を全力でやり遂げ、私たちの手で魔物を創り出す。今の私にできるのは、それだけだ。
開演を知らせるベルが鳴る。幕が、上がる。
十秒ほどかけて、ゆっくりと、この文を一番上までスクロールしてください。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ツー……
一人の少女が、道の上で立ち尽くしている。彼女がどこから来て、どこへ行くのか、観客にも彼女自身にも分からない。
「おーい」
彼女の目の前には、別の青年が座り込んでいる。彼に呼びかけられた少女はふらふらとその傍まで歩いて行って、彼と同じように座り込んだ。
「君はここに来たばかりかい?」
「うん」
「そうか、俺は……なんて名前だったかな」
「え……?」
困惑する少女をよそに、青年は顎に手を当てながら名前を思い出そうとする。
「確か、コジみたいなのが入ってた気がするんだよな……まあ多分コジロウとかだろ、それでいいや」
「そんなに適当でいいの?」
「忘れちまったもんは仕方ねえさ。君は?」
「私は……スイ。尾出スイ」
少女が名乗ると、コジロウは僅かに驚いたような表情を浮かべ、その声は少し大きくなる。
「来たばかりとはいえ、苗字まで覚えてるのは珍しいな。君はここで何してるんだ?」
「それは……分からない」
「名前より、そっちの方が大事だと思うけどなあ」
私の出番が近づいてくる。緊張に襲われ、呼吸がどんどん浅くなる。両親には上演のことを黙っていたから見に来てはいないと思うが、それでも人前で演技をするのが怖いことに変わりはない。私がいるのと反対側の舞台袖から、恵那の顔が少しだけ見える。彼女は私の視線に気付くと、笑顔で親指を上に突き立てた。健闘を祈る、ということらしい。
「コジロウは、ここで何してるの?」
「俺は何もしてないよ」
「え?」
「ここに座って、道行く人を眺めてるんだ。それぐらいしかやることがないからな」
「それって、退屈じゃないの?」
「そんなことはないさ。結構色んな奴が来るんだぜ」
とうとう、出番が来た。歩きにくい衣装も相まって、ひどく足取りが重い。試合の勝敗がかかった投球でも、ここまで緊張したことはない。だが、いざその時が来てしまえば、不思議と気分が落ち着いた。下手でも、ぎこちなくてもいい。舞台に立てば、私たちの魔物が生まれるんだ。舞台に姿を現す前に、大きく息を吸って、舞台袖から第一声を放った。
「おーっほっほっほ!」
瞬間、観客の目線が一気に私の方に集まる。それは、優れた演技力によるものではない。私が初めてセリフを読んだ時と同じ注目の集め方だ。しかしこの時、これが恵那の狙いだったのだと確信した。あの時よりも、狙って観客の注目を集めている。私が登場する前の数秒の沈黙も、私自身の固い演技と大きな声量も、ドレスのような派手な衣装も、高笑いというセリフの選び方も、全てがこの瞬間に結びついている。体育館の空気が、一瞬で変化したのを肌で感じた。厳かな静謐が消え失せ、今後の展開に観客の関心が向いている。呆気に取られそうになったが、どうにか舞台上に出てこられた。それを合図に、スイが次のセリフを読む。
「うわっ、何!?」
「あら、ごきげんよう……ってあなた達、見るからにド庶民じゃない」
恵那の狙いがわかった今、自分の力をぶつける方向もはっきりした。練習よりも動きを大袈裟にして、衣装が大きく動くようにする。それなりに重い衣装だが、私なら多少大きく動かすのも苦ではない。
「お嬢様ってドとか付けるんだ」
「さしずめ私はド嬢様ってところかしらね」
「それでいいならいいんだけど……」
スイは少し間を置いてから、私に質問した。
「あの……あなたはどうしてここに?」
「まあ、何で私がわざわざ庶民の質問に答えなければなりませんの?」
「え?」
「今日はスーパーの特売日だから、忙しいんですの。そろそろ失礼しますわ。さ、じいや!」
パン、と手を叩く。直後、執事役が舞台に登場し、私は彼が押してきたボロボロの台車に乗った。少しだけ、客席から笑い声が上がったのが聞こえた。
「じいや、急ぎなさい! 今日はエナジードリンクが激安でしてよ!」
「ホワッ! ホォーオ!」
執事役が不意に腕の筋肉を叩き、ポーズを決めながら高い声を上げたことで、客席の笑い声がさらに大きくなる。台車に運ばれ、ゴトゴトと音を立てながら、私は舞台から去った。客席から見えない位置まで来た瞬間、舞台袖で待っていた恵那が私の手を握ってきた。上演中なので声は出していなかったが、最高よ、と言っているのが口の動きでわかった。
私の出番は、これで終わった。あとは、私たちが創り出す魔物の行く末を見届けるだけだ。舞台袖から、舞台に残った二人の姿をじっと眺める。
「……行っちゃった」
「ほらな、退屈しないだろ」
「あんな人がたくさん来るの?」
「ああ。ほら、また来た」
「もう!?」
私が出てきたのとは反対側の舞台袖から、一人の青年が姿を現した。風変わりな格好をしていて、右手には鞭が握られている。
「あの、あなたは……?」
「僕ですか? 僕はしがないドラゴン使いですよ」
「え?」
「ですから、ドラゴン使いです。証拠をお見せしましょう」
ドラゴン使いを名乗る青年はそう言って、手に持った鞭で舞台の床を強く叩いた。直後、音響が効果音を流し、龍の咆哮が辺りに響く。
「わあっ、すごい音!」
「さあ、来い!」
青年が叫ぶと、舞台袖の方から男が姿を現した。ドラゴンと書かれた大きな札を首にかけて、でんでん太鼓を片手で鳴らしている。
「いや……え?」
「どうも、龍やらせてもらってます」
「喋った!?」
「おい、龍じゃなくてドラゴンだって言っただろ!」
青年が鞭で足元を叩きながら、男を叱りつける。彼は青年に向かって何度か軽く頭を下げた。
「あ、そうでしたね。すみません」
「全く……」
「あ、あの……それが、ドラゴン……?」
「ええ、そうです。背中にも乗れるんですよ!」
青年が促すと、男は彼をおぶって歩き出した。その歩みはだんだん速くなって、最後には走りながら青年の悲鳴とともに舞台袖に消えていった。またしても、舞台には呆然としているスイと平気な様子のコジロウだけが残された。
「何だったんだ……」
「色んな奴がいるからな、変なのもいるさ」
「コジロウは、よく平気でいられるね」
「俺は見慣れてるからな。むしろ、そんなにいちいち反応してたら疲れちまうよ」
「そうかな……」
「そうさ、君は大したもんだよ」
話している二人のもとに、また新たに人がやってきた。白いローブのようなものを着て、頭には花冠をつけている男だ。
「あ、また誰か来た」
「おや、こんにちは」
「こんにちは……あなたは?」
「神です」
「なんて?」
「神は不要なことをしません。私の話は一回で聞くように」
「いや、聞こえてるんですけど……神、ですか?」
「はい」
「ええっと……」
スイが困惑している間に、コジロウが神を名乗る男に声をかける。
「あんた、名前は何て言うんだ?」
「後藤です」
「惜しいな」
「えっ、何の話?」
「何でもないよ。それで、神様には何ができるんだ?」
「今は特に何もできませんよ」
「え……何もできないんですか?」
「はい。今は、特に何もする必要がないので」
「はあ……何だか、神様らしくないですね」
「神とはそういうものなのですよ。では、私はこれで」
特に何もせず、男は去ってしまった。その後、スイは疲れ切った様子でその場に寝転がった。その場に座ったまま、コジロウが声をかける。
「どうした、もう疲れたか?」
「うん……何だか、変な夢を見てるみたい」
「確かに、そんな感じだな」
「突拍子もなくて、滑稽で、バカバカしくて……」
スイはそう言いながら身体を起こして、大きく伸びをした。彼女は奇妙な夢から目を覚ました直後のように、安心したような表情を浮かべている。
「……でも、おかげでまた歩き出そうと思えたよ」
「そうかい。まあ、今の君にはそっちの方が向いてるだろうな」
「うん。それじゃあ、またね……」
スイは立ち上がって、コジロウを置いて歩き出した。彼女は一度舞台袖まで歩いて姿を消した後、再び舞台まで歩いてくる。青年は、今度は彼女を呼び止めない。何事もなかったかのように、スイは彼の背後を通って反対側の舞台袖に消えてゆく。
「そう、何もなくていい。ただ、道を歩いている……それで十分なんだ。それが、君が君でいる何よりの証拠なんだから……」
青年が呟くと同時に、幕が下りる。
ツー……ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……
上演は、無事に終わった。客席から拍手が起こる。それが、心からのものだったのかどうかは分からない。もしかしたら、形式的にされただけの拍手だったかもしれない。ただでさえ、難しい形式の劇だ。脚本のメッセージが観客に全く伝わらなくても不思議ではない。でも、私たちが全力を注いで生み出された劇に、観客が称賛を送ってくれた。それが、今の私にとっては何よりも大きな価値を持っている。
「真衣ちゃん、お疲れ様!」
撤収が済んだ後、恵那が一番に私のもとに駆け寄ってきた。他の一年生も、特に集中して指導を受けていた先輩から労いの言葉をもらっているらしい。
「その……色々、ありがとうございました」
「いいのよ。それより、ボール投げてみましょう」
「え?」
恵那にグラウンドまで連れられ、ボールとグローブを渡された。
「何でこんなの持ってるんですか……?」
「小道具として部室に置いてあったのを持ってきたの。昔からあるやつだろうからあんまり綺麗じゃないけどね」
「色々置いてあるとは思ってましたけど、こういうのまであるんですね……」
息をついて、ボールを投げてみる。ボールは勢いよく狙い通りの場所に飛んでいった。その後も何度か投げてみるが、中学生の頃のような球を投げられるようになっている。
「……!」
「すごい! 良かったわね!」
咄嗟に声を出すこともできず、恵那の言葉に頷いて返すことしかできなかった。グローブとボールを片付けに行く途中で、恵那が不意に問いかける。
「……さて、めでたく調子が戻ったわけだけど……真衣ちゃんは、これからどうしたい?」
「これから……」
この時が訪れることは、分かっていた。だが、もう答えは決まっている。
「……私は、演技をすることで新しい自分を見つけることはできないと思っていました」
「……」
「でも、それは違った。今回の劇で、私は確かに新しい自分を見つけられました」
「……そっか」
「もし、誰かを演じ続けることで、もっと色々な何かになれるのなら……私は、演劇を続けてみたい」
私の答えを聞いて、恵那は微笑んだ。跳び上がりながら喜びそうだと思っていたので、少し意外だった。
「……ふふ、狙い通りね」
「え?」
「真衣ちゃんが演劇部に仮入部するって話をした時に言ったでしょ、何も考えずに提案してるわけじゃないって」
そういえば、そんなことを言われたような気がする。もしかしたら、私はまた彼女に騙されたのかもしれない。そう思って、少し身構えた。
「初めての上演が終わった時、真衣ちゃんはソフトボールより演劇の方が好きになってるだろうと思ったの」
「……!」
舞台には、魔物が棲んでいる。自分のたった一つのセリフ、自分が舞台に立ったほんの僅かな瞬間が、劇や客席の世界を変えるこの感覚。まさしく魔性だ。間違いなく、私は演劇という魔物に魅入られた。しかし私の場合、もっと妖しい存在にも魅入られてしまったのかもしれない。呆気に取られたまま、恵那に連れられて視聴覚室に戻る。人生の、新たな幕が上がるのを感じながら。
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