そして私は今日もわがままなネコを抱く
三郎
本文
パチン、パチン。
静寂の中、爪を切る音が響く。
「……あの」
「手、動かさないで。じっとして」
「……はい」
パチン、パチン。
彼女は黙って私の指の爪を整える。左手の親指が終わったら次は人差し指。切ったらやすりで磨いて一本一本、丁寧に仕上げていく。友人に爪を切ってもらう。ただただ、それだけのことなのに私の心臓はうるさく騒いでいる。静かな部屋に、妙な色香が漂う。爪を切る。ただ、それだけなのに。この後に何があるのかを私は知っているから。そして、それを期待している。
「……わざとゆっくり切ってません?」
問うと彼女は、何も答えずにふふと笑った。そして私の指を撫でて「君の指、長いよね」と呟き、私と目を合わせた。誘惑するような視線から目を逸らし「早く切ってください」と私が言うと、彼女は「はぁい」と戯けるように笑ってまた私の爪を切る。
パチン、パチン。
再び、静寂の中にその音だけが響く。
「はい。左手おしまい。右手出して」
言われるがまま、左手を引っ込めて右手を差し出す。指先から二ミリほど伸びていた爪は、指先からほとんどはみ出さないくらい、だけど深爪にはならないほどの短さになった。右手の爪も同じ長さになるように切られていく。彼女の爪はここまで短くなることはない。いつも一ミリから二ミリをキープしている。曰く「短いと可愛くない」とのこと。人には長いと痛いからと切らせるくせに。だけど、そんなわがままなところも嫌いではない。というかむしろ、可愛いなんて思ってしまう。彼女の方が三つも年上なのに。きっとこの人は、こうやっていろんな女性を振り回してきたのだろう。
「……
「んー? なぁに」
「……好きですよ」
私がそう言うと彼女は少し間を置いて「ありがとー。私も好きよ」と、私を見ずに軽い返事をする。それは私だけではなく他の人にも言っている軽い言葉であることを、私は理解している。理解しているけれど、私以外の人に同じこと言わないでなんて言ったら彼女はもう会ってくれなくなる。私にとって彼女は特別だけど、彼女にとってはそうではない。数いる遊び相手のうちの一人。好きというのは嘘ではないし、特別になりたいとさえ言わなければ、私を求めてくれる。甘やかしてくれる。触れさせてくれる。そういう人なのだ。そういう人だと分かっていても、心は彼女に向かってしまう。それほどまでに強烈な引力が彼女にはある。
パチン、パチン。爪を切る音が止まり、しゃかしゃかというやすりがけの音に変わる。しばらくして、コトンと、爪切りがテーブルの上に置かれた。私の前に跪いていた彼女は、私の手を離すとベッドの方へと歩いていった。そしてベッドに腰掛けると「
「おいで」
彼女は私を求めてくれるけど、私だけを愛してはくれない。分かっている。分かっていても、逆らえない。強烈な引力に引き寄せられてベッドに乗り上げる。彼女は私に合わせてベッドに倒れると、私の首に腕を回して耳元で甘く囁いた。「大好き」と。
そして私は今日もわがままなネコを抱く 三郎 @sabu_saburou
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